第24話 当たり前という名の奇跡について

 私の持論は、この世に当たり前というモノはなく、有るのは奇跡だけということです。

 誰もが、当たり前の様に勉強し働き生きている世の中が全てを当たり前に見せてしまうのだろうと思います。そして、突然の事故や天災や病気などに遭遇した時、大抵の人は戸惑い驚き、そうした突然の不幸に苛まれ苦しむわけです。


 この世に明日の命を保証されている者は誰一人として居ない。むしろ、それこそが当たり前であると私は思うのです。その当たり前の見えなくしているのが科学が作り上げた環境であり、それによって私たちは間違った認識に陥っていると思うのです。


 この間違った認識が、我々に間違った考えや行動を起こさせると思うのです。


 勉強や仕事は家事や育児が出来るのは当たり前。しかし、科学技術が相当に発展した現在に於いても、勉強や仕事が人間以上に出来る機械を作れてはないし、家事や育児を代行する機械など更に不可能と言えるでしょう。


 我々が選択する行動の結果、我々の現在があり、そこに人や物との出会いもある。もし、これまでに選択した行動のどれか一つでも違っていたら、自分を取り巻く世界は全く違っていたのではないでしょうか?


 そして、それは自分の親やその親たちの更にはもっと前の親たちの行動とも繋がっているのです。私には二人の娘と六人の孫が居るのですが、もし、どこかの選択が違えば、子や孫の存在も変わっていたのだろうと思うわけです。


 失敗ばかりの選択に思えた人生が、意外にもこの上ない人生を築き上げている。これを私は当たり前と思うことが出来ないわけで、奇跡という言葉では言えないくらいの凄い奇跡であると思うのです。


 人間如きが思いつく成功や失敗、富裕や貧困、苦しみや喜びと言った小さいドラマを超えた壮大な奇跡の時間旅行という感じがするのです。これも一重に、この世に存在出来たという奇跡が為せる業であり、個々人が唯一無二の存在であることが奇跡をもたらせるのではないかと思います。


 これだけの人が居ながら、実際に出会う人はホンの一握りに過ぎない。インターネットが登場して以来、その出会いに広がりは出たとは言え、それでもホンの一握りに違いはないと思います。


 そして、その一握りを奇跡と思うか、当たり前と思うかで人生は決まるのかもしれません。先を歩く者として、辛い事や苦しい事も含め色んなことを楽しんで欲しいと思うのです。だって、人生はいつ終わりが来るか分からないから・・・


 若いころ、非常に辛いことがあった時に、よく聞いていたのは中島みゆきさんの「時代」という歌でした。


 今はこんなに悲しくて

 涙もかれ果てて

 もう二度と笑顔には

 なれそうもないけど


 そんな時代もあったねと

 いつか話せる日が来るわ

 あんな時代もあったねと

 きっと笑って話せるわ

 だから今日はくよくよしないで

 今日の風に吹かれましょう


 中々、今日の風に吹かれることは難しいですが。それでも、笑える未来を作るために、今日の涙があるのではないかと思います。もちろん、その涙さえ奇跡の涙と言えるのではないかと思います。

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