11.献身の規定因 上

 早朝の病院には誰もいない。夜勤の看護師の疲労もピークに達し、見回りの足も鈍くなる。日勤の看護師もまばらにやってくるこの時間帯はチャンスだった。交代が近いという安心感が警戒を怠らせる。誰かがいるという事実が監視に穴を開ける。

 今日が大一番だ。一番危ない橋を渡る。危篤ではない患者を殺さなければならない。だけど仕方がないことだ。いま知られるわけにはいかないのだから、私の計画を。私は勝ち続けなければいけない。ずっとこれを続けなければ。意味がない。途中で終わっては。

 首尾よく誰にも見つからずに三階へやってこれた。準備していた口実は使わずに済んだ。そのほうがいい。もちろん誰かに見つかったところで問題はないが、見られないならそれに越したことはないのだから。

 紫木優。あの妙な犯罪学者。私はあいつを殺す。私の正しい行いのために。

 三〇八号室の扉をゆっくりと開く。同室の人間が誰も目を覚まさないように。厄介なのは当人よりも付き添いの女刑事だった。猟犬のような目つきで病院を嗅ぎまわる、野蛮な女。頭は鈍いが、勘が鋭いタイプだろう。私が少しでも動揺すれば、その一瞬で企みを看破しかねない危うさがあった。今日までは紫木のことがあったからそちらに気を取られていたようだが、これからはそうもいかないだろう。

 ここでけりをつけないと。幸い、物的証拠はない。おそらくこの犯罪学者の推理、推測だけだ。いまここで始末してしまえば、もう誰も私にたどり着けない。

 三〇八号室の患者は全員眠っているようだった。四つあるベッドは全てカーテンが閉められている。紫木は入り口近く右側のベッドだったはず。そばには彼が使っていた杖が立てかけてあり、ネームプレートをいちいち見なくても居場所がはっきりと分かった。

 私は慎重に扉を閉め、病室の中ほどへ移動する。隣のベッドとの間へ体を入れ、カーテンを開くべく釣り下がっている生地へ右手で掴みかかった。左のポケットには彼を死へ導くための注射器が……。

 そのとき、頭に違和感が去来した。脳を直に撫でられるようなおぞましい感触が駆け抜ける。危険信号。


 病室に患者は三人しかいないはずなのに、なぜ全てのカーテンが閉じている……?

「みーつけた。葉原春子、あなたが犯人ね」



 音をたてないようにゆっくりと、しかし迅速に私は飛び出していた。紫木と打ち合わせたよりタイミングが早かった。本当なら彼女が確かに犯人であるという動きをしてから押さえる手はずだったのに。逸った。彼に万が一があってはならないという不安が勝ってしまった。

 だけどもういいだろう。

「葉原先生。左手をゆっくりとポケットから出してください」

 私はこちらへ背を向けている葉原へ低い声をかけた。彼女は右手でカーテンを掴み、左手を白衣のポケットへ入れたままの状態で静止している。葉原がここで言い逃れをしようがどうしようが関係ない。彼女の手の中にあるであろう凶器がそのまま証拠になる。

 葉原は私の指示通り、緩慢な動きで左手を持ち上げた。細い手首が白衣から出てくる。そして握りしめられた手のひらが。やはり何かを握っていた。手から飛び出したパーツで、小さな注射器だろうと思われた。

 彼女は半端に手を出した状態のまま、ゆっくりとこちらへ振り返りつつあった。伏し目がちで表情は伺えない。一秒が一時間にも感じられる、停滞した時間。

 私は心の中で舌打ちをした。紫木の言う通り、クレバーな犯人だ。というよりは、往生際が悪いというべきか。この動きは時間を稼いで一発逆転のチャンスを狙う人間のものだ。大抵はそのままタイムアップ、犯人が諦めて終わる。いつもの私なら懇切丁寧に待ってなんかいないで、さっさと突っ込んでしまうところだ。だけど後ろには紫木がいる。病室にも病院にも人が多く、イレギュラーが起こりやすい状況だった。下手な手は打てない。ここは我慢するしか。

「刑事さん」

「……なに?」

 葉原が口を開いた。消えそうな声が紡がれる。

「なぜ、私が犯人だとわかったの? 私に繋がるものは何もなかったはず」

 彼女は少なくとも、この場を口車で言い逃れるという選択肢は放棄したらしい。それよりもゆったりとした速度でしゃべって、時間を稼ごうとしている。観念したと安心してはいけない。むしろ危険な兆候だ。言い逃れ以外の方法でこの場を切り抜けようとしているのだから。

「……あなたが犯人だということは、この瞬間までわからなかったわ」

 私は彼女の質問に乗った。話で気をそらせば隙ができるかもしれない。

「だけど紫木先生が気づいたのよ。犯人は代理性ミュンヒハウゼンの看護師だと思っていたけど、実はそうじゃないって」

 葉原の左手に意識を集中させながら、私は言葉を続けた。彼女の手はこの瞬間も少しずつ白衣から出てきている。

「犯人が代理性ミュンヒハウゼンだとしたら、被害者が急死するのはおかしい。だってそうでしょう? 甲斐甲斐しく世話をする姿を見せたいのに、いきなり死んだら肝心のお世話ができない。この手の事件の死亡事例はあくまで、病状を悪化させようとしてやりすぎ、死んでしまうというもの。今回のように初めから殺そうとしているのは、代理性ミュンヒハウゼンとは思えなかった。

 じゃあ犯人の動機は何か。結局それは紫木先生にもわからなかったみたい。だけど手術への不安が落ち着いた彼は、犯人の動機とは関係なく、犯人を炙り出す方法を思いついたのよ」

 このアイデアを口にしたとき、紫木は苦笑いをしていた。こんな簡単なこと、なんで最初に思いつかなかったんでしょうねと。

「今回の犯人はかなり慎重に動いている。だけど連続殺人ってのは件数を重ねれば重ねるほど、否応なく大胆になってくるのよ。当人が望むかどうかにかかわらず。だから紫木先生は自分を餌にして犯人をおびき出すことにした。自分が犯人を知っていると病院内で言いふらせば、口封じに真犯人がやってくるはずだって」

「でも……それでは私がいつ来るかわからないでしょう。まさか彼が入院している間、ずっと見張るつもりだった?」

 葉原の質問に私は首を振った。

「それはないわ。真犯人が来るならこのタイミングしかないとわかってたもの。紫木先生が手術直後でくたばっていて、かつ日勤と夜勤の職員が入れ替わるこのタイミングしかないと。職員が交代するこの時間は、一番人が多くて、一番警戒が薄れる。真犯人にとっては確実にターゲットを殺せるし、人が多いから紛れ込んでごまかしやすい。ついでに言えば、真犯人が夜勤でも日勤でも確実に来ることがわかるから、私たちにとっても都合がよかった。これが、この作戦の骨子よ。失敗したらまた一から捜査するつもりだったし、こっちとしてはコストなしでうまくいけば犯人を一本釣りできる程度の感覚だったけど、まさかここまでうまくいくとはね」

 葉原の左手がほとんど白衣から出てきた。ここに至るまで、結局何も起こらない。彼女の肩の力も抜けていく。長い話も終わってしまい、諦めに入ったか。私は安心して彼女へにじり寄り、凶器を取り押さえようと動いた。

 その時だった。

「おはようございま……」

 病室の扉が開いた。巡回の看護師だった。反射的に視線がそちらへ逸れてしまう。瞬間、葉原が左手を振るった。注射針をナイフのように、私の顔めがけて薙いできたのだ。私は考えるよりも先に体を後ろに倒してそれを躱していた。鼻先を銀色の筋が通り抜け、針からほどばしった液体が数滴、顔へ落ちる。

 私の背は高い。だから考えなしに後ろへ体を反らすと、重心が持っていかれて倒れてしまう。勢いがよければなおさら。いまがまさにそんな状況だ。転ぶ。足が浮き上がりそうになっている。

 頭が発火した。このまま倒れたらどうなる? 葉原がこちらへ向かってくるか? それならいい。力勝負なら余裕で勝てる。そのまま返り討ちにして取り押さえるだけだ。

 問題はそうならなかった場合。破れかぶれになった彼女が、せめてこいつだけはと紫木へ向かうパターン。あるいはこの場を脱しようとあの看護師やほかの患者を人質にとるパターン。注射器の中身は何かわからないが、最悪を考えれば一滴たりとも注射させるべきではない。彼女の思惑を阻止するには、倒れてから立ち上がっていては遅い。

 つまり、ここで倒れるわけにはいかない。

 私は足が離れてしまう前に、床を思い切り蹴った。体を真上へ浮かせるイメージで。そして腕を上へ、いやこの場合は下へ伸ばして床を捉え、体を支える。

 要するに私は、その場でバク転した。持ち上げた足のつま先で葉原の顎を打ち抜くオマケ付きで。

 私の蹴りがクリーンヒットした葉原は呻くことすらできなかった。今度は彼女の体が宙へ浮く番だ。葉原はふわりと浮遊して、一瞬制止したように飛んだあと墜落する。

 紫木の寝ているベッドに。

「あっ」

「ぐわぁっ!」

 カーテンを貫いて吹っ飛ぶ葉原の姿を認めて、私は我に返った。いやー私もまだまだ若いな、バク転なんて何年ぶりだろうとか思っている場合ではなかった。蹴りを決めた相手のコントロールなんてできる状況ではなかったとはいえ、術後まもない紫木の真上へ葉原を飛ばしてしまった。紫木の断末魔は漫画のセリフみたいによくできていた。

「紫木先生! 大丈夫?」

「や、やはり手術しなければよかったです……」

 私は大慌てで気絶した葉原の体をどかし、紫木を救出した。彼は術部を押さえてベッドの上で悶え苦しんでいた。だけど傷口が開いて出血しているというようなことはなさそうで、一安心。

「はぁ、よかった」

「勝手に安心しないでください! 死ぬほど痛いんですけど!」

 紫木がいままでに聞いたことのない大声をあげて、それが病院中に響き渡る。眠っていたほかの患者も起きだし、私と葉原の格闘を呆然と眺めていた看護師も我に返った。

 これは説明が大変そうだ。だけどまだ話はすべて終わっていない。

「紫木先生、この後の計画もいける? 休んだ方がいいんじゃない?」

「だ、大丈夫です。それよりもさっさと全部終わらせましょう。いざ……貴島美咲さんの病室へ。痛っ!」

「ほんとに大丈夫?」

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