10.茶番

「それで?」

「それでって?」

「それで、そのあとはどうなったの?」

「どうなったって……そのまま帰ったけど。次の朝も早かったし」

 インスタントのコーヒーを啜りながら私の話を聞いていた晶が、まるで宿敵が自分の父親だったことを知ったヒーローみたいな驚愕を顔に浮かべた。彼女の硬直を眺めながら、私は彼女が持ってきたクッキーの小袋を破って中身を取り出す。ラズベリージャム?

「あ、これ新しい味出たんだ」

「そうじゃなくて!」

 晶がばしっ、と机を叩いて突っ込みを入れる。ここは烏河病院の見舞客向けの休憩室なのであまり大騒ぎはよくないけど、幸い彼女の小さな手が机にぶつかっても大した音は出なかった。

「普通そこで終わる? もっとこう……あるでしょ?」

「なにが? 何にもないよ」

「いいやそんなことないって。佳境じゃん。ハリウッド映画ならこう、がっ! って。ロマンスが。あとクッキー食べ過ぎないでよ? 紫木先生の分がなくなる」

「何度も言うけど、そういう仲じゃないから。私と先生は。だいたい年齢も離れてるし……大丈夫だって、先生は食欲無いから、多分」

 私の答えに向けられた晶の視線は、疑り深いものだった。彼女は唸るような声をあげる。私はその視線を無視してクッキーをかじった。

「本当かなぁ。気のない相手に普通抱き着く? そういうのって関係が発展しきってからお互いの思いが抑えられなくてってやつでしょ」

「その言い方だと私が何の脈絡もなく紫木先生に抱き着いたみたいじゃない。少女漫画の実写映画の見過ぎ。状況ってものがあるんだから。晶だって同じ立場だったら絶対抱き着いてる」

「いやいや。ないない」

「子供を励ますようなもんだったんだから。それでいちいち下心勘繰られてたらやってらんないわよ」

「私だって普段だったら言わないよ。薫の相手が紫木先生だったから言ってるの。それに紫木先生もう三十でしょ。子供じゃないよ」

「まだ二十九。それにあのときは子供に見えたんだからしょうがないじゃん。晶にも見せたかったわ。いや、本人の名誉を考えると見せたくはないか」

「そう? まぁ、薫がそういうならいいけど……」

 晶はまだ納得していないような顔をして、紙のカップを机に置いた。大きくため息をつく。

「で、捜査のほうはどうなったの。話を聞く限り、振り出しに戻る?」

「まあね」

 残りのクッキーを口に放って頷いた。

「そもそもこの事件、ごちゃごちゃしてるのよ。病院で起こってるっていう急死事件と、貴島美咲に対する攻撃が並行してる。どっちかを解きほぐさないと話にならないでしょうね」

「せめて凶器が分かればね。使ってる薬が分かればそのあたりから犯人絞り込めるかもしれないのに」

「それはもう葉原先生、あぁ外科の医者ね、その人がやってみたらしいんだよね。だけど人体に影響しそうな強い薬物を持ち出した痕跡は無かったって」

「ふぅん」

 晶は遠い目をして相槌を打つ。

「ところで晶はなんか心当たりないの? 凶器について」

「わからないかなぁ。科学や医学は専門じゃないから。電気系とか、燃焼系ならわかるんだけどね……でも、お医者さんが寄ってたかって調べてもわからないってのが気になるわね」

「そうなんだよ。よっぽど変な毒物を盛られたのか……」

 晶が小さな唇を曲げて考え込んだ。

「第一容疑者はどうなったの? あの中城って看護師」

「それがどうも、空振り臭くって」

 私は持ってきていた封筒からコピー用紙を引っ張り出した。広島の病院からメールで送られてきた、中城沙織の細々とした情報だった。

「彼女が前に勤めてた病院では、不審な急死や急変の増加はなかった。紫木先生の予想に反してね。もちろん病院が隠してるって可能性もあったから向こうの警察とかに手をまわして裏を取ってもらったんだけど、真実だろうって。彼女が勤めた期間、病院内での死者は平年並み。勤務態度は良好。評判は上々」

「単に死ななかったって可能性は? 今回の死者は、代理性ミュンヒハウゼン症候群の患者が、献身を装うとして失敗したからなんでしょ?」

「そこまでは確かめようがないけど……烏河病院の死者増加は本当に急なのよ。グラフにするとぶっ飛んだ右肩あがり。それこそ検挙実績だったらいいなってくらい。こんな急に上昇すればいいのに。それだけの死者を出すほど大胆になっていた人間が、前の職場では全く不審に思われないくらいうまくやってたってのもおかしくない? 転勤したとはいえ同じ病院でしょ?」

「そうね……なんか変な感じ。これが殺人事件だってはっきりしてるなら看護師を引っ張って吐かすんでしょうけど。警部さんと平さんが」

 晶はそう言って、周りをちらちらと見渡す。実のところ、もう面会時間は過ぎて夜になっていた。休憩室にも私たち以外の姿はない。

「……本当にうまくいくの? この作戦」

「さぁ。紫木は失敗してもリスクはないとか言っていたけど」

 私は腕時計へ視線を落とした。十九時少し前。そろそろ紫木の手術が始まる時間だ。

 そのとき、休憩室の扉が開いた。手筈通り入ってきたのは永川だった。

「神園さん。そろそろ紫木くんの手術が」

「わかった。」

「頑張って、薫」

 晶がぐっとガッツポーズのジェスチャーをした。私も同じポーズを返して永川と一緒に休憩室を出る。一つ下の階が手術室なので、階段を彼女と並んで降りていく。

「そういえば神園さん。今日も急変した患者さんが亡くなりました。午前のことです」

「中城さんは?」

 手術室まではそう遠くない。早口で言葉を交わす。

「今日が夜勤なので、午前中には病院にいませんでした。昨日は少し残業したようですけど、それでも十九時ごろには帰っているので、そのときに投薬した患者が急変を起こしたとは考えにくいです」

 ということは彼女は昨日、私と顔を合わせた直後に帰ったということか。矛盾はない。そして中城が犯人である可能性がまた減った。

 永川は声を震わせる。

「本当にうまくいくでしょうか」

「それはわからない。だけど紫木先生に万が一がないことだけは保証するから」

「……お願いします」

 階段を降り終えた。廊下には紫木が横たわったベッドがあった。手術室へ入る準備をしているのだろうか。彼は落ち着きなく胸の上で手をもんでいたけど、私の姿を見ると真っ黒な瞳の色が少し明るくなったように見えた。

「薫さん」

「先生、来たよ。話って何?」

「そろそろ時間なので、手短にお願いします」

 紫木が口を開く前に、間から葉原が割り込んできた。彼女は癖のある髪の毛を後ろで纏めていた。いつもの白衣は羽織っていない。執刀医は彼女なのだろうか。

「薫さん。いいですか」

「うん。言って」

 私は膝を曲げて彼に目線を合わせた。紫木が少し視線を逸らす。

「この事件の犯人が分かりました」

「……え?」

 葉原も永川も、ベッドの周りにいた数人の看護師もお互いの顔を見合わせた。動揺が走っていく。紫木はそれを確かめるように間を取ってから、語気を強めて言う。

「証拠もあります。ただこのタイミングですし、僕もいい加減腹痛がきついのでお話しするのは手術の後にします。そうですね。麻酔から覚めるのにどれくらい時間がかかるかわかりませんから、明日の朝にしましょう」

「明日の朝? そのときに話してくれるのね?」

「はい。明日の朝です。そのときに必ず」

 念を押すように私たちは繰り返した。もういいですかと葉原が再び割って入り、彼は手術室に連れていかれた。



 真っ暗な病室に、時計の秒針がじりじりと動く音だけが響く。夜の病院は思っていたよりも物音が多い。扉ひとつ隔てた廊下では見回りの看護師が行ったり来たりを繰り返している。内と外では世界が違っているようだ。

 私の手の中で動きがあった。紫木の手がわずかに動く。握り返してあげると、彼の薄いまぶたが開いていく。紫木の瞳は、完全な暗闇の中にあってもなお黒く、彼の存在を重く伝えてくれる。

 私は小声で言った。

「起きた?」

「……えぇ」

「ここにちゃんといる。でしょ?」

「……そうですね」

 紫木がゆっくりと首を動かし、私のほうへ顔を向けた。明かりもなく眼鏡もかけていない彼からは私が見えていないはずだけど、双眸ははっきりと私を射抜いている。

「ここからが、本番です」

「うん。まかせて」

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