4.犯罪学者の自室

「お、お邪魔しまーす」

 私は扉を開けて、恐る恐る顔を部屋の中へ突っ込んだ。玄関のすぐ先はキッチンになっていて、コンロの上には使っていない鍋やフライパンが放置されている。目の前には居間へ続くもう一つの扉が。典型的なワンルームの構造だろう。

 古びた外壁の、二階建てのアパート。その一階に彼の部屋はあった。外見といい中身といい、社会人の住宅というよりは下宿をする大学生の一室という印象のほうが強い。大学生のときからずっと住んでいるのかもしれない。

「うわ、紫木先生の部屋って大学生みたいですね」

 と、後ろからついてきた森が私の感想をなぞるように呟いた。私が荷物を取りに行くという話をしているタイミングで戻ってきて、自分も行くと言ってきかなかったのだ。紫木も学生に自分の個人的な世話をしてもらうのは体裁が悪いと思ったのか最初は拒否していたのだが、彼女の「先生の欲しい資料、刑事さんにわかりますか?」の一言でぐうの音も出なくなった。

 私だってタイトルが分かってれば持ってこられる! と思うのだが、その辺はまだ紫木先生に信頼されてないのかな……。

 なんか、今日は驚くことも多いけど、胸がもやもやすることも多い日だこと。

 ともあれ彼女は、紫木の部屋に行ったあと、大学へ私が送り届ける片道切符で納得してもらうことにした。その辺はさすがに先生だけあって、紫木が「自分の研究をしなさい」と強めに言って彼女を押しとどめた。

「では失礼して」

 なかなか入っていく踏ん切りがつかず、玄関先で立ち止まったままになっていた私の脇を抜けるように森が部屋へと入っていく。暗いキッチンを、明るい茶色に染め上げられた髪の毛が通り過ぎる。大学院生って何やってるかわからない、研究室に閉じこもってばかりいるイメージがあったけど、彼女はそんな私の中にある大学院生感にはそぐわなかった。明るいし、社交的でファッションもあか抜けている。いや、私の中にある研究者像が紫木のせいで大きく偏ってしまっているだけかもしれないけど。

 森は目の前にある扉を開けて居間へと入っていった。私もそれに続く。彼女が電気をつけると、白い明かりがやんわりと部屋中を照らす。

 男性の一人暮らしなので、ごみ屋敷の可能性も覚悟していたけど、紫木の部屋は綺麗に整頓されていた。整頓が行き届きすぎて生活感がないとすら言えた。ベッドの上の布団もたったいま整えたかのように綺麗に広げられている。ただ、部屋の隅に備えられたデスクの上には文房具や書類、お菓子などの細々としたものが散乱していて、そこだけがこの部屋の主の存在をそこはかとなく示唆していた。

「あ、神園さん気を付けてください。右に」

「え? あっと……」

 森から鋭い声があがる。右を向くと、床から私の膝のあたりまで積み上げられた本の塔が鎮座していた。危うく蹴り飛ばすところだった。身長が百八十オーバーの私の膝に達しているのでけっこうな高さだ。しかもそんな塔が部屋のあちこちに、いくつも伸びている。

 本棚はあるのだ。ただ安っぽいカラーボックスでできた本棚にはもう隙間もないほどぎっちりと本が詰め込まれ、天板がたわんで崩壊寸前になっていた。地震が来たら間違いなく終わるだろう。幸い、倒れてきて危険なほどの高さに積み上げられているものはないけど。

 そして私は悟った。紫木が渋々とはいえ森が着いていくことを許したのは、この資料の山のせいだったのだ。なるほど、この山の中からご所望の本を探すのは私では骨が折れる。日が暮れそうだ。犯罪学に詳しいかどうかはさておき、単に人手が足りない。

 私も本の山にあっけにとられたが、それは森も同じだったようでぽかんと口を開けて部屋を眺めていた。

「すごい。これ全部読んだんでしょうか」

「いやどうだろう。買うだけ買って積んでおくタイプだったんじゃ」

「とにかく、探しましょうか」

 私と森は手分けして、資料の山にかかった。紫木から頼まれた資料はたったの六冊。それぞれ『ケースで学ぶ犯罪心理学』『子どもを病人に仕立てる親たち』『キャンパス・セクシャル・ハラスメント対応ガイド』『スクールセクハラ』『デヴィルズ・ワルツ』の上下巻セット……って、ほとんどこの事件と関係ないじゃないか? 最後のは小説っぽいし。ついでとばかりに暇つぶし用の本も見繕うって腹か。

 とりあえずわかりやすいところから探そうと決めて、私はデスクの上に散らばっている書類をめくって捜索した。でも書類は大量で、そう簡単には見つからない。

「ねえ、森さんって」

「はい?」

「紫木先生とはどういう関係なの? ティーチング……アシスタントって言ってたけど、いまひとつピンと来なくて」

 私は沈黙を埋めるために、森へ適当に言葉をかけた。こっちには彼女を私のバイクの後ろへ乗せてきたけど、その間彼女は慣れないタンデムシートにわーわー言うばかりで会話らしい会話はなかった。

 私の質問を聞くと、森は少しだけ答えに迷ったように視線を泳がせた。

「どういうというと……私は紫木先生に研究の指導を受けているんです。正式な研究室の配属は違うんですけど」

「へぇ、そうなの?」

「大学院生の指導ができるのは准教授からなので。紫木先生はまだ助教ですし。でも実質、紫木先生の研究室に属しているようなものですね。ティーチングアシスタントはそのつながりです」

「ふぅん。じゃあ……あ、あった」

 彼女の話を聞きながらデスクを捜索していると、『キャンパス・セクシャル・ハラスメント対応ガイド』が紙の山から発掘された。これだけは置いた場所を覚えていたらしく、デスクの上だと思いますと紫木が明言していたのだ。表紙には鹿鳴館大学図書館のバーコードが張り付けられている。

「あった。キャンパスなんちゃらのやつ……で、じゃあ森さんも犯罪心理学の研究を?」

「そう、ですね……私は犯罪心理学というより社会心理学に近いんですけど、一番専門に近いのが紫木先生だったので。あぁありました。こっちにも」

 森は隙間のない本棚へ器用に指を入れて、薄い本を引きずり出した。黒い表紙で端のよれたそれは『ケースで学ぶ犯罪心理学』だった。ずいぶん読み込んでいるのか、ほかの本に比べてひときわくたびれている。

「専門かぁ。そういえば紫木先生って犯罪心理学の中でも何が専門なの? 昔聞いたような気がするんだけど、忘れちゃって」

 私はそう言いながら文庫本が並んでいる塔へ目を向ける。小説なら文庫本のところにあるかもしれないと思ったが、案の定だった。灰色の背表紙で、同じ作者の小説だけで構成されている塔が部屋の隅に立っていた。その中ほどに『デヴィルズ・ワルツ』があった。私は塔を倒さないように、上の本をいったんどかして目当てのものを取り上げる。

「それは私にもよく……社会心理学がベースになっているのは確かみたいですけど、いろいろと手を伸ばしているようですし、もしかしたらはっきりした専門はないのかも」

「そうかぁ」

 森がそうするのにつられて、私も部屋を見渡した。塔を形成する本の背表紙には、連続殺人だの大量殺人だのという物騒な文字列もあれば、非行少年についてのものもあるし、目撃証言とか防犯がどうのこうのと書いてあるものもあった。似たようなテーマの本で塔を作ろうという意思はみられるが、塔ごとのジャンルはてんでばらばらなようだった。

 医者が外科にも内科にも、泌尿器科にも手を伸ばすようなものだろうか。それよりは近いのかもしれないけど。

「あった。『スクールセクハラ』ですね」

 森も別の塔から本を引っ張ってきた。これで残すは『子どもを病人に仕立てる親たち』の一冊だけ。私は改めて塔のタイトルを見返した。紫木先生の性格からして、出鱈目なところに置くとは思えないから、きっと子供関係の本が並んでいる塔に混ざっているだろうと非行少年についての本が多いエリアを探していく。

「あの、神園さんは」

「うん?」

「紫木先生とはどういう関係ですか?」

 森は喉に何かがつっかえたような声で言った。自分で聞いておいてなんだけど、この質問は確かに答えにくい。私の場合、個々の事件にかかわってしまうから特に。事件についての情報を軽々に口外するわけにもいかないから、言葉を慎重に選ぶ。

「そうね……最初は、ある事件で紫木先生に事情を聞きに行ったのよ。被害者の関係者としてね。といっても、そう近い関係者ではなかったけど」

「望実ちゃん……」

 ふと、彼女の口から飛び出した名前に胸をえぐられるような思いだった。

「あの子の事件ですか?」

「知ってたんだ」

「はい。二年下の後輩だったので」

 結城望実。私と紫木が初めて出会ったきっかけになった連続通り魔事件の最後の被害者だ。紫木が卒業論文を指導していたという情報を得た私は、彼に話を聞きに行った。

「酷い事件でした。望実ちゃんは……」

 望実ちゃんはどうだったのか、彼女はその続きを言わなかった。私に言っても意味がないと思ったのかもしれない。代わりに、

「じゃあ、事件を解決した刑事さんって、神園さんのことだったんですね」

 と言った。

「まぁ、そうとも言えるかも」

 私は言葉を濁した。事件についてどこまで言ってしまっていいのかわからなかったのもあるけど、私が解決したと言い切ってしまうことにも抵抗があった。

 左肘が鈍く痛む気がした。結城望実は、私が犯人を取り逃がさなければ死ななかったかもしれない。考えても仕方がないことだとはわかっているけど、それでも時々胸の内を切りつけるようにかすめていく。

「神園さん。神園さんにこんなことを言っても、仕方ないのかもしれないですけど」

 森は本棚を見つめたまま、私には背を向けて言葉を続ける。重たく聞こえる声だったけど、不思議とつっかえのようなものは取れているように感じられた。

「紫木先生、あの事件以来、ちょっと怖いです」

「怖い?」

 予想していなかった言葉に、私は思わず聞き返した。森はすぐさま首を横に振る。

「いえ、怖いというか、どう表現していいかわからないんですけど。怖いといっても、私への態度に変わりがあるというわけでもないですし、いつもは優しい……優しすぎるくらいの先生です。でも時々、何かに怒っているというか」

 彼女はそこで一旦言葉を切った。続いて出てきた声は、適当な表現を見つけられたのか少しはっきりとしていた。

「そう、警戒している感じです」

「警戒……」

「はい。ナワバリを守る猛獣みたいに、周りを睨みつけているような」

 私は、紫木があの真っ黒で大きな瞳で睨みを利かせているところを想像した。あの瞳は不気味ではあるけど、激しい感情を表に出すような目ではないと思う。そもそも、あれだけ大きくて視線がどこに向いているかわかりにくい瞳で睨まれても、相手は睨まれたことにすら気づかないかもしれない。紫木はやせっぽっちだし、どすの効いた声が出せるわけでもない。海の底でじっと漂う深海魚が周りを威嚇しても、滑稽でしかない。

 だけど、それは「あの事件以来」しか知らない私の感想かもしれない。森はそう思わなかった。彼女は事件を経験する前の紫木優を知っている。きっと優しくて面倒見のいい、だけど専門のことになると構わず長い話をし続けて学生から呆れられる、そんな先生の姿を。

「紫木、『先生』ね……」

 私は先生という部分を、噛みしめるように言った。私の知らない、教員としての姿か。

「神園さん」

 森は、振り返って私を見据える。

「紫木先生のことを……お願いします」

「うん。そうね」

 私はまた、曖昧に答えた。

 結局、最後の一冊は見つからずじまいだった。

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