第12話 鳩が飲んだ刄(やいば)
僕は『ル・テラス』の奥まった席で愛を待っていた。外は昼の光で明るく、店内は暗い。壁一面のガラスから見える外の街が、映画のシーンのように非現実的だ。いや、非現実的なのは、それを見ている自分の方か……。
あれから空井は、愛のマシンの中身を徹底的に調べた。キングからの一方的なラブレターがあり、ペンちゃんと音楽ファイルをやり取りしたメールがいくつか見つかったが、それ以外に目立つものはなかった。
空井はそれから、問題の島村一郎という男の正体を暴きにかかった。だが、手がかりになるメールアドレスをどれだけ掘っても、もうすでに分かっている事……彼が実体のないペーパーカンパニーで働くヘッドハンターだという事以外には、何も分からなかった。
さらに空井は、愛が島村に渡したログファイルがその後どこへ行ったかを追跡した。ファイルは島村の所から転送に転送を重ねられ、最後に、あるサーバーに行き着いていた。そのサーバーは正式に登録されたもので、所在地を調べると、東京都千代田区霞が関。しかし、そこにあるのは外務省だった。地図を何度見ても、そこには外務省のビルしかない。
僕は信じる気になれなかった。非現実的すぎる。
黒い皮のミニスカートをはいた愛が、腰を左右に揺らしながら、きびきびと歩いてテラス席を横切るのが見えた。店に入った彼女はすぐに僕を見つけ、小さく手を振った。愛がそういう可愛らしい仕草をするのを、初めて見た。
「すみません、急に呼び出したりして」僕は言った。
一時間前に電話で話した時、彼女は警戒していた。キーロガーがバレたと悟ったのかもしれなかった。
「いいのいいの。でも、今日は八時から仕事入るから、そんなに時間ないんだ。それで……?」
ウエイトレスが注文を取り終わるのを待って、僕は話を始めた。
「この前会った時、愛さん、海賊版のことを警察にバラしちゃおうか、なんて言ってましたよね?」
僕は、キーロガーの件をどう切り出せばいいか分からなかった。今まで仲間のような顔をしていながら、急に指をさして罪を追求するなんてことはできない。
「どうして聞くの? あの時、賛成してくれたじゃない」
賛成などしていない。「でも、今はちょっとまずいです。彼の周りで、変なことがいろいろ起こってるし」
「変なこと?」愛は誘いに乗ってきた。
「空井のコンピュータを、誰かが監視しているみたいなんですよ。ひょっとして警察関係かもしれない。とにかく、誰が何のためにそんなことをやっているか、分からないうちは変なことはしないほうがいい」
「監視って、どういうこと?」
僕は愛の顔を見た。彼女はひるまずに見返した。
「例えばキーロガーとか」
「キーロガー?」
「キーロガーが何かは、知ってますよね」
「ええ、もちろん。だけど彼のコンピュータに、そんなものが入ってたの?」愛は目を丸くした。
僕ははっきりうなずいた。
「やっぱり……いつかそうなると思ってたんだ」
「やっぱり?」
「きっと、オンラインで仕込まれたんだ……」愛は思案するように、人さし指を下唇に当てた。「彼、自分のコンピュータにはほとんどセキュリティ考えてないから……。いくらガードしても、回線につながってる限り誰かに入られるんだから無駄なんだ、って言って何もしてないのよね。だから外からそんなものを植え込まれたんだ、きっと」
彼女は、ピンクの爪を、ぽってりした唇に傷がつきそうなほど強く押しつけた。
「キーロガーは、外からじゃなくて、本体のCDドライブからインストールされてるんです」と僕。
「どうして分かるの?」
「記録が残ってたんですよ。それを入れた人間は、キーロガーそのものを隠すことに夢中で、インストール記録を消すのを忘れたみたいですね」僕は愛をまっすぐ見た。言うなら言ってくれ。これ以上追いつめたくはない。
愛の視線がわずかに揺らいだ。
「でも、それじゃあ、おかしいよ。CDドライブから直接インストールできるのは、彼本人か、君くらいしかいないじゃない」
「もうひとりいますよ」
愛は反論しようとして息を吸った。
「愛さん……」
彼女は息を吐き、
「大正解」と言って肩を落とした。「彼が見つけたんでしょ?」
「まあそんなとこです」
愛は笑いながら、まばたきを始めた。マスカラで厚ぼったいまつげが、蝶のように上下した。それを見て僕はドキリとした。涙が浮かんでいた。
「私、どうしていいかわからない」
「何があったんです? 何かあったんでしょう?」
彼女は鼻をすすると、テーブルの紙ナプキンで目のふちを拭いた。
「マスカラ、取れてるでしょう?」
そう言って僕を見た愛の大きな目に、また涙が盛り上がった。彼女はハンドバッグからコンパクト取り出し、鏡を開いて目元を確かめた。
「ごめん、お化粧直してくる」
立ち上がろうとした愛の手首を、僕は捕まえた。
「話してください。目は後でもいい。今でも十分きれいです」嘘ではなかった。黒く汚れてはいたが、僕には十分奇麗に見えた。
愛はパチンと音をさせてコンパクトを閉じ、「他にどうしようもなかったんだ」と言った。「あのヘッドハンターの島村っていうやつは……」愛はその後を言いよどんだ。
「やっぱり連絡を取ってたんですね」
愛はうなずく。「仕方なかったの。警察に私を捕まえさせるって言うから」
「捕まえさせる? 何の罪で? 愛さんは何もしてないでしょう」
「本当はしてるの」愛は、悪戯っぽく笑ったが、すぐに顔を曇らせた。「いつもじゃないけど、たまあに、入ったサーバーからちょっとしたものをコピーしたりしてたのよ。彼にはやめろって言われてたんだけど、せっかく入った記念だから、と思って」
愛もコンピュータのコードが読めることは、空井から聞いていた。
「何をコピーしたんです?」
「ちょっとした、社内の管理マニュアルみたいなもの。売り物のソフトじゃないし、私が読んでもチンプンカンプンだし、コピーしたって誰も迷惑しないでしょう?」
「どこの会社?」
「自衛隊」
僕は唖然とした。自衛隊のサーバーから、管理マニュアルをダウンロードした?
「島村は、それが、国家機密ろうえい罪になるとか言うのよ」
「うーん」僕は唸ることしかできなかった。「それにしても……自衛隊ですか。どうして?」
「私にはちょうどいいかな、と思って」愛は舌先をチョロっと出した。「今は皆んなペンタゴンとかホワイトハウスを狙ってるけど、私のレベルじゃ無理でしょ? でも、今さら科学技術庁に入っても何の自慢にもなんないし。その点、日本の自衛隊は穴場かな、と思って。アメリカの軍よりセキュリティ甘そうじゃない?」(※7)
「じゃあ、ダウンロードした自衛隊のファイルを、自慢して皆んなに見せて回ったんですか?」ファイルは、セキュリティを破った証明であり、勲章のようなものだ。
「ううん。私はキングとは違う。まだ誰にも見せてない」
「……それは変だな」
愛が誰にも見せてないとなると、島村はどうやって知ったのだろう? 愛のパソコンに侵入したのか、それとも自衛隊のコンピュータから逆にトレースしたのか……。「で、島村は、ファイルを見逃すかわりにキーロガーを入れろと?」
愛はうなずいた。
「キーロガーで、空井の何を調べるつもりだったんです?」
「わからない。でも……空井君の何か悪いことを見つけて、それを交換条件に仕事の契約にサインさせようとしてたんじゃないかな。私にしたのと同じように」
「そんなにしてまでやらせたい仕事って、何なんです?」
「それは全然聞かされてない。最初からそう。ただ、空井君なら苦もなくできる仕事だ、って言うだけで」
「変ですね」
二人は押し黙った。一分ほどすると愛が言った。
「ね、お願い、空井君には黙っていて。キーロガーを入れたのは私だってこと、言わないで」
僕は唇を一文字に結んだ。空井はもう知っている。愛にそれを言わなかったことを後悔した。言わない方が、二人のためだと思ったのだ。お互いが、お互いの腹を探りあっていることが分かれば、もう二人の関係は終わりだ。登紀子と間で、僕はそういう地獄を経験している。
「愛さん」僕は言った。「これからどうすればいいか、二人で考えてみましょうよ。もうひとりで悩まなくてもいい。僕も一緒に考えますから」
愛はまばたきせずに、僕を見つめた。
「ありがとう……言ってよかった」
(※7 初期のハッカーたちは、犯罪目的ではなく、優れたハッキングテクニックを誇示するために、セキュリティが強固な有名企業・官公庁のサーバーに侵入した。1991年には米国会計検査院のサーバーが、1994年にはアメリカ空軍グリフィス基地、NASAのサーバーが、1998年にはペンタゴン/米国国防総省のサーバーが、10代のハッカーに侵入されている。日本の科学技術庁や総務庁統計局はセキュリティが甘く、誰でも出入りできたので「ZARU」と呼ばれていた。ザル、である。あるハッカーが科学技術庁のサーバー内にチャットルームを設置し、そこがハッカーたちの憩いの場となっていた時期があるが、このことは当局もマスコミも知らない)
……困った……。
僕は自宅のマンションの周りを、もう三周もしていた。
愛には味方になると約束したが、空井には何と言えばいい?
今日僕が愛と会っていることを、空井は知っている。そして、僕はその結果を報告することになっている。
マンションのロビーに入ってもまだ決心がつかなかった。
……少し時間をもらうか。
僕は携帯から部屋に電話をかけた。
今日は仕事で徹夜になると言い訳して、駅前のバーにでも行ってもう少し考えようと思った。
空井は出なかった。もう一度、彼の携帯にかけてみたが、出なかった。僕が帰るのを待ち構えているはずだが、どうしたのだろう?
マンションから出ようとすると、ガラス扉の向こうに、背広姿の男が二人立っていた。自動扉が開き、僕が出ようとしても、彼らは道を開けなかった。
「松岡健斗さんだね」
男は僕の名前を言った。
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