第6話 師匠はヒモ付き

 空井が退職した後、餅米会社のデータベースの仕事は越谷チーフが引き継ぎ、僕は彼のアシスタントとして働いた。空井が書いた天才的なブリッジは、他の部分に「悪影響」があるからという理由で、全て五年前のおんぼろコードに書き換えられた。空井の代わりに入ってきた新しいプログラマは、五分刈り頭で澄んだ目をしていた。若く、社内の事情にも疎く、せっせと働いた。僕はデータベースの仕事で忙しく、しばらく空井と連絡をとれなかったが、十月の終わりに突然、空井の方から電話があった。

「実は、今のアパートを出なきゃいけなくなったんだ」と空井。

「どうしてですか?」

「今朝、大家さんに、今月いっぱいで出てくれないかって言われたんだ」彼の声はしおれていた。

「それは急ですね」

「うん……何でも、地方に行っていた息子が、来月、急に帰ってくることになったって言うんだよ。それで、この部屋を使わせたいらしいんだ」

「ずいぶん勝手ですね。出ていく必要、無いんじゃないですか? 法律的にも」

「うん、オレもそれをちょっと言ったんだ。そうしたら、ここは最初から息子用にとってあった部屋で、貸す時からそういう話だったはずだって、婆さんは言い張るんだよ」

「まったく……そんな大家の所には、居たくもないですね」

「うん」

 そう言ったきり、空井は黙り込んだ。

 ……しかし、どうして僕に電話してきたのか?

「じゃあ、次の部屋、どうするんです?」

「それなんだけど……」彼は言いにくそうに言った。「引っ越すのに、あんまり金が無いんだ」

 ……まいったな。

「全然無いんですか?」と僕は言った。こっちも金があるわけじゃない。このマンションの家賃を払ってギリギリなのだ。

「それが……嘘みたいな話だけど、おととい、泥棒に入られたんだ」

「泥棒?」

「一晩家を空けてたら、コンピュータを持ってかれたんだ。それで、新しいのを、昨日買っちゃったんだよ」

 ……盗まれた翌日に、新しいコンピュータを買うのもどうなのか……。

「そりゃ災難続きですね」僕は儀礼的に言った。

 空井はまた黙り込んだ。

 僕は、空井が金の話を持ち出さないでいてくれることを祈った。頭の隅で、自分の預金残高を考えが、余裕などない。一瞬、どこかから借りて、それを空井に又貸ししてやろうかという考えが過ったが、打ち消した。空井という人間は好きだったが、所詮は他人だ。

「家賃は払えるんだ」空井が言った。「だけど、引っ越すとなると、敷金礼金とかがいるだろう?」

「彼女の所に、しばらく置いてもらうっていうのはどうです?」

「それも考えたけど……」彼は引きずるように言った。「あそこはワンルームで狭いから……」

 贅沢を言っている場合じゃないだろう、と思った。さらに十秒ほど経ったが、空井は何も言わない。話のきっかけを失ったようだった。どうやら逃げ切れそうだ……と思いかけた時、

「君の所、部屋が一つ空いてるって言ってたろ? ……そこに……しばらくおいてもらえないか? もちろん家賃は半分払うから」

 僕は、一瞬、何を言われているかわからなかったが、すぐに、意味が頭に入って来た。……そうか、そういうことか。

「それはいいですけど」

 僕にとっても、家賃を半分払ってもらえば好都合だ。それに、同じ場所にいれば、いつでもプログラミングを教えてもらえる。

 翌週、空井は、少ない荷物と新品のパソコンを持って引っ越してきた。今考えれば、この時が、妙なことの始まりだったと言える。


 引っ越しの翌日、僕が会社から帰ると、玄関に女物のサンダルがあった。ダイニングにはフルーツのような香水が匂っていた。

 ……愛が来ている。

 二つ並んだ奥の部屋の、左側が空井の部屋で、扉はピッタリと閉まっている。

 僕は、冷蔵庫のコーラを飲みながら自分の部屋に入った。隣から、薄い壁を通して、くぐもった話し声が聞こえた。その声に耳を傾けているうちに、二人が何かを言い争っている、と気づいた。僕は壁に耳を当てた。

「……こんなところ、気つかうじゃない」

 愛の声がする。

「そうでもないよ」と空井。

「そう?……だいいち、ここ、回線つなげるの?」

「いや、今んとこは」

「大丈夫なの? また、あれが出たら……」

「本当いうと、少し試してみたいんだ。もう大丈夫になっているかもしれないだろう?」

「無理よ。私の所に来なよ。回線もあるし、部屋も自由に使っていいんだから」

「うん……」

 沈黙があった。

「なんなら、私、引っ越してもいいよ。ね、二部屋あるところに引っ越して、一緒に住もう」

 また沈黙があった。

「そう言ってくれるのはうれしいよ。……でも」

「でも?」

「決心がつかないんだ」

「一緒に住んでもいいって、言ってたじゃない。あれは嘘だったの?」

「嘘じゃない」

「じゃあ何にひっかかってるの?」

 長い間があった。

「私と住むのが嫌なの? 私とは住みたくないの?」愛が言った。

「そんなことはない」

「じゃあどうして」

 また間があった。

「誰かいるの? ……私の他に、誰かいるの?」

「誰もいないよ」

「本当に? 信じていいのね」

「絶対にいない」

「……そう、分かった。私のこと愛してるよね?」

「……愛してるよ……ちくしょう、何百回もも叫びたいくらい愛してる」

 声が途絶え、パイプベッドの軋みが聞こえた。

 僕は、壁に耳を押しつけた。喘ぎ声を期待した。だが、聞こえてきたのは、愛の話し声だった。

「じゃあ、いつか一緒に暮らせる日が、来るのよね?」

 空井の答えは聞き取れなかった。


 僕は、空井に部屋を貸したことを少し後悔しはじめた。理由のひとつは、愛がしょっちゅう訪ねて来て、僕が落ち着いていられないということがあった。もっと嫌な、二つ目の理由は、キングがしょっちゅう空井を訪ねてくることだった。会社から疲れて帰った時、親分気取りの横柄なキングと顔を合わせるのは不快だ。そして、理由の三つ目は、空井にあった。

 ある日、会社から帰ってマンションの玄関を開けると、中は真っ暗だった。明かりを点けると、空井がいつも履いているスニーカーがあった。ダイニングまで入ると、暗い中から、モーターが唸るような低い音が響いてきた。明かりを点けると、ダイニングの様子はいつも通りだったが、くぐもった音は途切れ途切れに続いていた。よく聞くと、犬のうなり声のようで、それは、扉を閉めた空井の部屋から聞こえていた。

 ……犬を連れ込んでいるのか?

 そう思った瞬間、ハッとした。

 ……愛と……

 だが、玄関に愛の靴はない。

 とすれば、こんな声が聞こえるのは普通ではない。

 僕は扉をノックした。

「空井さん?」

 返事がなかったので扉を開けた。

 暗い部屋の一隅から、獣が唸っているような声がした。本当に空井なのか?

 明かりが点くと、ベッドに寝ている空井が見えた。普段着のまま、仰向けに、両手両足をピンと伸ばして寝ていた。

「空井さん、どうした? 熱でも……」

 顔を見て、僕は言葉を呑んだ。

 まともな顔ではない。両目は飛び出しそうなほど見開かれていて、顔色は鑞のように白く、皮膚が細かく痙攣している。汗で濡れた髪が額にはりつき、口は横一杯に開かれ、食いしばった歯がゾロリとむき出しになっていた。

「空井さん!」

 体に手をかけて揺すった。体は石膏のように硬かった。目は宙に向けられたままだった。頭と胴体と繋がって動くのが妙だった。

 揺すってもだめなので、ビンタを食らわせるしかない、と思った時、彼は白目を剥き、次の瞬間、普通の目に戻って僕を見ていた。手の中で、彼の筋肉が緩んでいくのが分かった。

 ……正気に戻ったのか?

「大丈夫ですか? どうしたんです?」

 僕は、ぐっしょり濡れた彼のシャツから手を離した。

 空井は目だけを動かして、部屋のあちこちを見、やがて、ぼんやりと僕に目を向けた。

「どうしたんです? 医者を呼びましょうか?」

「……いや、大丈夫だ」

「でも、そんなに汗をかいて……熱があるんじゃないですか?」

「いや、大丈夫……それより、オレ、何かやったか?」

 僕は薄ら寒い感じがして、彼の表情をうかがった。疲れて緩みきった顔からは何も読み取れなかった。

「……いいえ、何も……」

「そうか……」

 空井は半身を起こし、自分の手足を確認するように見た。

「あのう、本当に医者はいいんですか?」

「いや……何でもないんだよ。本当に何でもないんだ。わるかった」

 空井の言ったとおり、次の日になると、彼は何事もなかったような顔をしていた。一週間ほどして同じことがまたあったが、やはり次の日の彼はケロッとしていた。きっとこれは命に別状のない「持病」なんだろう、と思うと、僕の心配は薄らぎ、代わりに「めんどうくさいことになった」という気持が強くなった。

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