フォーエバーごはん

奥森 蛍

第1話 フォーエバーごはん

 現在日本に日本人は存在しない。西暦2050年、過度の人口減少に歯止めをかけるため日本国政府は総国民アメリカ帰化政策を講じた。日本を迎え入れる条件としてアメリカはアメリカ憲法を制定することと独自の州法を制定することを突きつけた。その中身はあまりに残酷であった。


――ごはんをライスと呼ぶこと(米、丼等類似品もこれに含む)。


 脱ジャポニカ米を掲げたアメリカの号令の下、次第にごはんをごはんと呼ばない文化が定着していく。これにはアメリカ側の2つのねらいがある。1つは日本人の魂であるごはんという言葉から脱却させることにより日本人の不屈の魂を挫くこと。もう1つはアメリカ米の流入を促進させアメリカの米農家を潤わせることであった。ごはんイズライス、ライスイズライス。魂を削がれた日本人はアメリカナイズに走り、こうしてアメリカ国日本州が誕生した。



「あー、ライスうなぎ2つ、肝吸い付きで」

「はい、肝吸い付きライスうなぎ2丁」

「しかし、アレだな。私なんかは古い人間だからどうしてもうな重って言いたく……」

「ちょっと先輩、それは禁句ですよ」


 昼食時の飯屋でこんな会話が交わされたことも少なくないだろう。



 そして、僕が産まれたのはそんなライス文化の真っただ中だった。吉永英太郎、5歳。好きなものはおにぎり、将来の夢は政治家だ。


 小さな僕が政治家を志したのには理由がある。それは大好きなじいちゃんの死だった。じいちゃんは僕が4歳のころ肺炎で死んだ。大変朗らかなじいちゃんで大切な植木鉢を割ったときも笑顔で「けがはないか?」と言ってくれるような人だった。両親が共働きで幼稚園の送り迎えだってじいちゃんがしてくれたし、一緒に過ごした時間は誰より長かった気がする。


 いつだったかじいちゃんは僕に『おにぎり』という元気の出る魔法の言葉を教えてくれた。ライスボールコロコロという絵本に出てくるライスボールを本当はおにぎりと呼んでいたこと。じいちゃんが小さな頃、いつも弁当に入っていたいびつなおにぎりは母の味であり日本人の心そのものだと言った。


 日本人が忘れようとしているごはんという言葉、決して忘れてはいけない物。だから今際いまわきわでじいちゃんの残した言葉は今でも忘れない。


――ああ、おにぎりが食べたい



 じいちゃんは日本人として生き日本人として死んだ。


 僕はそんな風に生きられるだろうか? いつしか僕の将来の夢は政治家になり日本に日本を取り戻すこと、ごはんをごはんと呼べる国を再建することになった。



 月日は過ぎ、僕は必死に勉強して大人になった。下積みで有名議員の秘書になりひっそりと米粒法案を練り続けた。議員も右派な人で飲みの席では酒が良くすすんだ。やがて彼が引退するに合わせ地盤を引き継ぎ選挙へと出馬、掲げたキャッチコピーは『一粒の米にも日本人の魂を!』であった。


 あちこちで米粒の必要性を説いて回り、パフォーマンスでおにぎりにかぶりつき「これはライスボールではありません! おにぎりです」と熱弁した。


 ぼくのあだ名は米つぶ議員になった。


「我々は日本人です! 弥生時代から引き継いできた日本人の魂である米をなぜライスと呼ばなければいけないのです! コメをライスと呼ばせるのは国策です。おにぎりをおにぎりと呼んでなぜ悪い! 何度でも言おう、これはおにぎりです! ライスボールではない!」


 勝ち誇ったようにおにぎりを掲げる。


「いいぞー! 米つぶー!」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」


 こうして晴れて僕はトップ当選、州議会議員になった。強靭な議員の地盤を継いだことも一因であろうが、とにかくこれを旧日本国民の意思と受け取った僕はただちに有志を集めて米つぶ同盟を結成、ごはん解放運動を展開した。毎週の街頭演説や水田を訪問しての田植え運動、ごはんのおかずコンテストの開催、特に農家を集めた米祭りの開催に農家は涙を流して喜んでくれた。


 議員になってから5年が経ち、僕は議員を辞めて州知事選へと出馬した。しかし、結果は惨敗であった。これには理由がある。僕のごはん解放運動を憂えた本国アメリカ大統領が対抗馬の応援に乗り出したからだ。さらにはごはんを公言する僕への刑事捜査などの嫌がらせがあり、結果書類送検。選挙後、僕はただの人へと戻った。


 無念の思いはあったが敵はでかくて果てしない。はじめから分かっていたこと。その後諦めず地道に政治活動を続け、現知事の汚職を機に4年後僕は念願の州知事への階段を駆けあがった。


 深く沈みこむ知事のイスに腰かけると心がどっしりと落ち着いた。初めての公務は決めていた。日本米品評会の復活。アメリカに編入したと同時に閉会に追い込まれた日本の米農家の権威を復活させることだった。一番の農家に州知事賞を贈り米栽培を奨励する。それは旧日本のマスコミ各社が頑張ってくれたことも手伝い、大成功をおさめ日本の米農家の復活を全国土に知らしめた。


 焦ったアメリカの米農家はアメリカ米のキャンペーンを展開、しかしそれをも飲み込む形でジャポニカ米のブームが広がりを見せ、やがてアメリカ本土にまで達し、21世紀の日本食ブームを彷彿とさせる巨大ムーブメントが起きた。「カリフォルニアロールは好きさ、でもスシは日本米でなくちゃね!」と述べるアメリカ人も当時は少なくなかった。

 

 日本食ムーブメントはそのままジャパンムーブメントへとつながり、訪日観光客の増加はそのまま移住者の増加につながった。こうしてゆっくりと時間をかけて日本の人口は7000万人を超えるまでに回復し、日本は独立国日本としての道を緩やかに歩き始めた。



 結果から言うと僕の政治活動は充実していた。目まぐるしく月日は過ぎて大忙し。後ろを振り向いている時間などなかった。


 西暦2134年、政界から退き、僕は全国各地の米運動に参加するようになる。この頃にはごはんライス法案はとっくに撤廃され、皆再びごごはんをごはんと呼ぶようになっていた。



 そして今度、めでたく日本の独立法案が可決される。それを手伝ったのは意外なことにアメリカ国民だった。日本文化を認め日本の独立を支援しようという動きが広がり、民意をくみ取った親日派の大統領は日本の独立を掲げ選挙に勝利した。僕が生涯をかけた仕事がようやく実を結ぼうとしている。


 墓前に僕はおにぎりを添えた。僕もいずれ入ることになるお墓に。ごはんをごはんと呼べる国、日本はまた日本に戻った。


「じいちゃん、食べてくれ」


 しわがれた声でそう言って拝む。不細工な握り飯がニコリと笑った気がした。


(了)

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