けん、ぱ

かめかめ

けん、ぱ

 またいる。

 有希はうんざりとため息をつく。毎朝、通学の途上でそれを見ては不愉快になってしまう。

 自宅を出て駅に向かうには一本道をまっすぐに進むしかないのに、それは必ず有希の前にたちふさがる。

 いや、本人はとくに立ちふさがるようなつもりはないのだろう。ただ自分が思うさまに飛び跳ねているだけだ。


 けんぱという遊びがあったなと、その男を初めて見た時に有希は思い出した。中学生の有希にとっては懐かしい遊びだったが、来年、小学生になる弟は知らなかった。


「地面に円をいくつか書くの、直線上に。まっすぐだったり線からすこし離してみたりして。それでケンケンで円を踏ぶの、飛び石みたいに。最後まで円を踏み外さないように進む。円を横並びに書いたところは両足をパッと広げて着地する。それだけの遊びだよ」


「それ、どこが面白いの?」


 弟が首をかしげたが、小学校の高学年くらいから、けんぱをしなくなった有希には、もう面白さがわからない。

 だが今、有希の目の前で飛び跳ねているこの男なら、きっとわかっているのだろう。


 男は毎朝、けんぱのように歩道をぴょんぴょんと飛び跳ねて、駅へ向かっていく。けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 下腹が突き出たスーツ姿。60歳も過ぎているだろうという見た目の男が、けんぱしている姿を最初に見たときは、驚きで足が止まった。

 いったい、なにごとが起きているのか。なにかどうしようもない事情があって飛んでいるのだろうか。たとえば、歩道が水没して普通に歩けないとか。


 数日晴れ続きだった道は、もちろんきれいに乾いていたし、男の足元には避けるべき水たまりもない。本当になんの目印もない。

 だが男は必死に地面を見つめながら、細心の注意を払っている感じで飛び跳ねているのだ。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 とにかく近づきたくなくて、有希は車道をまたいで反対側の歩道に渡った。そちらにはコンビニがあって、店の前の喫煙所はいつも煙でいっぱいだ。

 ひどい喘息持ちの有希は絶対に通らないようにしてきた。

 だが、煙のせいで咳き込んでしまっても、それでもいいと思ってしまうくらい、男は不気味だった。


 翌日も翌々日も男はいた。初めのうちは、男の姿が見えると、すぐに道を渡っていた。

 だがある日、たばこの煙で発作を起こしてしまった。ひどく咳きこんで、息ができなくなって、家に戻るしかなくなった。

 その日から、仕方なく方針を変えることにして、男の後ろを少しの間だけ歩き、喫煙所をやり過ごしてから道を渡るようにした。

 そのために毎朝、男のけんぱを見なければならなくなったのだ。


 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 男は毎朝同じ場所を踏んで跳んでいく。10センチのずれもないだろう。その正確さには、有希も少しだけ感心する。だが見ていて気分が悪いことには変わりない。

 今日も道を渡ろうとしたのだが、通り向こうの歩道を、くわえたばこで歩いてくる男がいることに気づいた。思い切り煙を吐き出しながら近づいてくる。あの人もやり過ごさねば渡れない。イラっとする。だがその人は、のんびりゆったり、のろのろと進む。

 こんなところで時間をかけていたら遅刻する。のろのろ待っているわけにはいかない。

 有希はたばこの煙とけんぱ男の不気味さを天秤にかけ、見ていたら気分が悪いというだけのけんぱ男の後ろを歩くことに決めた。


 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 男は丁寧に、だが素早く飛び跳ねていく。左右にちょこまかと移動する男がじゃまで、追い越すこともできない。

 有希は不快な気持ちで、けんぱを見続けた。


 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 もう少しで学校への曲がり角につくという時、男がまっすぐに顔を上げた。

 一瞬、きらりと光が差した。有希はその光を追って空を見上げ、驚いて口をぽかんと開けた。


 空に四角の穴が開いていた。まるで扉が開いたかのように、青空に穴があるのだ。その穴の向こうで、たくさんの天使が羽根をぱたぱたと動かしながら、こちらを覗いている。

 ぽかんとしたまま見ていると、天使がなにやら喋っているように見えた。声は聞こえなかったが、熱心に誰かに語り掛けている。その聞こえない声の先を見ると、けんぱ男が天使を見上げてうなずいていた。


 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 男の足は宙を踏み、徐々に空に昇っていく。30センチ、1メートル、2メートル。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、……。

 アッと思った。

 男が飛び跳ねるリズムが狂った。足を踏み外し、男は歩道に落ちてきた。それとともに、空から差していた光が消えた。

 空に穴など開いていなくて、なにごともなかったかのように晴れていた。

 歩道に転がり落ちた男だけが、空の穴の名残のように残っている。


「だ、だいじょうぶですか……」


 恐る恐る男に近づき声をかけた。男は地面にうつぶせたまま「大丈夫です」と小声で答えた。


「あの、落ちた時にケガをしませんでしたか」


男がバッと身を起こした。


「見ていたんですか!」


 男の大きな怒鳴り声に驚いて、有希は一歩、後ずさった。


「ごめんなさい、見るつもりはなかったんですけど……」


 男はハッとして頭を下げた。


「いや、いいんです。いいんですよ。でもすみません。私は明日もこの道を通らねばならないのです。天国へ昇れるまで」


 ああ、やはり空に開いた穴は本当にあったんだ。幻じゃなかった。なぜか有希はそう思って嬉しくなった。男は言葉を続けた。


「この地獄からなんとしても抜け出さないと」


 男は膝に手をつき立ち上がると、ケガをしたらしい右足を引きずりながら、もと来た方へ去って行った。


「この、地獄……」


 有希は男が言った言葉を声に出してみた。

 天国は本当にあった。ならば地獄もあるだろう。それは、どこだ?

 もしかしてここは、この世界は地獄なのだろうか?


 そう思ってみると確かにここで過ごすことはとてもつらい。苦痛でしかない勉強、わかってくれない親、本音を離すことなどできっこない友達。

 それに、本当に生きていると実感した覚えなど、有希にはない。いつでも胸の底に、ぽっかりと真っ黒な穴が開いていて、有希の骨まで凍らせるような吹雪が吹きあがってきているのだ。

 空を見上げる。あの空に開いた穴から覗いた世界はどれほど素晴らしいのだろう。


 けん、ぱ。


 有希は男の真似をして跳んでみた。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 すると、なにもないと思っていた地面に、輝く円が見えてきた。柔らかな金色の光でできた円が徐々に空に向かっているのが見える。

 有希は空を見上げた。ゆっくりと空に穴が開く。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 順調に円を踏み、少しずつ空へと向かう。

 空の穴は開き続け、天使が顔をだす。教会のステンドグラスから抜け出てきたかのように、輝く笑顔で有希を見つめている。


 行けるのだ、あそこへ。有希の鼓動が激しくなる。

 この真っ暗な毎日から抜け出して、苦しみのない世界へと――――!


 喜びの笑顔を浮かべた有希の歩調が乱れた。大きく踏み外し、ぐらりと身体が揺れた。

 落ちる!

 ハッとして地面を見下ろすと、下まで3メートルはありそうなところまで昇ってしまっていた。

 落ちる!

 血の気が引く。

 救いを求めて空の穴を見上げた。

 天使は、有希を、あざわらっていた。


 ああ、そうか。

 これが地獄か。

 いつまでも、

 むくわれず、

 跳ね続ける。

 これが地獄か。


 有希は地面に叩きつけられた。不思議と痛みは感じなかった。空を見上げると静かに穴が閉じていくところだった。光る円も消えてしまい、もう跳ぶこともできない。


 有希は立ち上がると、ぴょんと跳ぶ。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 定められた天国への道を踏み外さぬよう、体にしみ込ませるように。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 一定のリズムで、決められた場所を踏み、決められた道筋で、けっして道を踏み外さないように。

 それがこの地獄から解き放たれ、天国へ昇るための、たったひとつのルール。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 けんけん、ぱ。けん、ぱ。ぱ。けん、ぱ。

 地獄の底で、有希はいつまでも、跳ねる。

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けん、ぱ かめかめ @kamekame

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