夢喰い少女の嘘

名取 雨霧

また会えたら

 ──長い長い悪夢が終わった。


 見渡すと、ベージュの机と純白のベッドが窮屈なこの部屋の大半を占めていた。出入口以外ほぼ床が見えない。言うなれば、小綺麗な刑務所のような部屋だ。


 たった4畳の空間に家具を押し込んだらそりゃ住みにくくなるよ、と誰かにたしなめられ、この圧迫感が逆に落ち着くからと開き直ってやった思い出が蘇る。そんな妄想に近い記憶に想いを馳せていると、掛け布団の中からもぞもぞと衣擦れの音が聞こえた。微睡みに浸っていた僕は、その白く柔らかな障壁を何も考えず引き剥がす。


 ベッドには、同い年──高校生くらいの女性がすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。女の子らしい桜色のパジャマに身を包み、肩甲骨辺りまで伸びた黒髪が無造作にベッドの広範囲を占拠していた。その光景を見つめて、寝ぼけ眼ではあるものの少女の猫のような容貌に、確かな懐かしさを感じた。いつも一緒に過ごしていた、匿名の面影が脳裏を過ぎる。


 一体、君は誰だろう?


 ──尋ねてみよう。そう考えて、そっと少女の肩に手を掛けようとした瞬間のこと。さっきまでの微かな微睡みは強烈な睡魔に姿を変え、僕は一気に飲み込まれた。


 それからのことは、覚えていない。






 再び目が醒めると、そこは戦場だった。

 空は赤黒く染められ、周囲は焼け野原と化している。どこに動こうと煙臭さで満たされており、見渡す限り火花が散りばめられている地獄のような光景だった。さっきまで自分の部屋にいたのに。


 ここは、どこだ?


 確かに叫んだはずの自分の声すらも聞こえない。左右の耳の奥から全力疾走してきた激痛から、鼓膜が破れていることに気づいた。痛みをトリガーに恐怖が全身を支配し、僕はその場に崩れ落ちた。怖い、怖い、怖い。


 走りこんできた重装備の兵士と目があった。助けてくれ。その声は遠くの爆発音に飲まれたのだろうか。見ているだけで重みを感じるような銃器を構え、銃口をこちらに向けてきたが、依然として僕は身動きが取れない。怖い、怖い......。


 兵士が引き金に指を引っ掛けた瞬間、僕は命乞いも神頼みも全て諦めて、潔く死ぬことにした。きっと、生きようとして命を落とす方が辛いから。


 やがて、引き金が引かれたのが分かった。そのとき、今まで見てきた数々の悪夢が走馬灯のように流れる。


 殺人鬼に監禁される夢。

 パラシュートが絡まって転落する夢。

 隕石が落ちてくる夢。

 手足を縛られて水責めの拷問をされる夢。


 今まで、永遠にも思える悪夢が続いていた。そのどれもが残忍で、無慈悲だった。たった一度、前回だけは自室で微睡むだけの場面があったけれど、結局最後は死ぬのだろうか。


 走馬灯の最後に、ベッドでぐっすり寝ていたはずの少女が横切った。これでいよいよ終わりか、そう悟ったとき、目前の少女の口が動いた。


 ──大丈夫だよ


 風景が一瞬止まり、少女が微笑みかける。これは、走馬灯じゃないのか。疑問がぐるぐると脳内を駆け巡る一方で、その表情に心から安心した。もう大丈夫なんだ。愚直にそう信じて、僕は静かに頷いてみる。


 直後、また睡魔の濁流に飲み込まれた。






 また目が醒めると、透き通った海と純白の浜辺が広がっていた。日差しが遠慮がちに降り注ぐ下、涼しい風が優しく頬を撫でてくれる快適な気候だ。ここは、僕が前々から行きたいと強く願っていた場所だ。


 戦場の悪夢がいつの間にか終わったようだ。その状況をうまく飲み込めないまま、僕は確かな安心感に浸っていた。本当に大丈夫だったんだと、純粋な嬉しさが湧き上がる。その感情を源にこの夢の全貌を知ろうと立ち上がる。振り返ると、砂浜の上ですやすやと眠りに落ちている少女が一人。


「ねえ、起きて」


 今度は確かに声を掛けた。

 真っ白なワンピース越しでも華奢さが伺えるその肩を優しく揺すると、少女は眠たそうに目を開いた。


「君は誰だ?」

「......何言ってるの?りっくん」


 半分寝ぼけたような口ぶりで少女は質問を返してきた。口元は少しにやついている。


「だから、君は何者なのか聞いてるんだ。僕の夢に出てくるのも3回目だろ」

「3回か......もうそんなに」


 感慨深そうに少女は呟いた。瞳には薄っすら透明な海が映り、ややあって僕の顔も投射された。


「私はね、君の悪夢を食べにきたの」


 馬鹿げたことを言い放つ少女の顔は、真剣そのものだった。


「食べたらいつもお腹いっぱいになって眠くなっちゃうから、りっくんに起きて会えるのは今回が初めてなんだよね」


 その言葉を聞いて、少し繋がった気がした。

 部屋の夢は、少女が絶え間なく続いていた悪夢を食べたことによって見ることのできた夢。浜辺の夢は、少女が戦場の悪夢を食べた結果現れた夢なのだろう。


 久々に見た普通の夢に、僕は密かに心を躍らせていた。もっと、もっと......


「もっと、悪夢以外の夢を見てみたい」


 かねてからの願いは、思わず口に出ていた。

 その一言を聞き、待ってましたと言わんばかりに少女はニヤリと笑う。


「もちろんっ!」






 それからの夢は、全て僕の見たいと願っていた夢だった。


 翼を生やして空を駆け巡る夢。

 お菓子の家に住み、少しずつ食べていく夢。

 真夏のプールで気持ちよく泳ぐ夢。


 そのどれもが恐怖とは無縁だった。そのどれもに眠たそうな少女がいて、肩を揺するといつもにんまりと寝ぼけながら「おはよう」と言ってくれる。その当たり前がどこか懐かしくて、愛おしかった。


 そして悪夢を見なくなってから何十回目かの夢。親の運転する車の後部座席でうとうとする夢を見たときのこと、隣の座席にはもちろん少女が座っていて、僕らは消え入るような小声で会話をしていた。前回の夢の続きだとか、今日の夢の中で食べたご飯だとか、本当にどうでもいいことばかり話していたから、少女の唐突な一言に僕は戸惑った。


「私は、この夢でりっくんとお別れしなきゃいけない」


 一貫して眠そうな表情の彼女に、僕は眉をひそめる。


「どうして急にそんなこと......」

「急じゃないよ」


 少女は強く言い放った。


「私はりっくんの夢を食べるために生まれたんだから、夢がなくなったら用済みなの」


 僕は声を上げられない。


「だから、会えるのはこれで最後。私たちはもう、二度と会えない。りっくんはまた......ひとりぼっちなんだよ」


 淡々と告げていた台詞が最後は震えている。最後に一言だけ、泣きそうな声で僕に語りかけた。


「だから、ねえ──起きて」


 夢はそこで終わった。

 僕の意識も、そこで途絶えてしまった。






 ここからは私の話だが、時は少し遡る。






 ──長い長い悪夢が始まった。


 私の双子の弟が旅行先で事故に遭い、病院に緊急搬送された。病床に横たわっているのは、全身包帯を巻かれた意識不明の弟。幸いにも脳幹は一部機能しており、脳死には至ってないものの、当分意識が戻らないだろうと予想された。


 まだまだ楽しい高校生活が待っているのに。私を残してどこかに行かないでよ。はやく起きてよ。理不尽に揉まれた感情の渦がぐるぐると身体中を駆け巡る。


 そこからは、祈ることしかできない自分の無力さを痛感する毎日が続いた。時折、弟が汗を流して辛そうに眉間に皺を寄せる時がある。彼の見ている夢がもし悪夢なら、そう思うと気が気ではなかった。それでも、私にはその夢を消すことも食べることすらも出来ない。


 弟が眠って二年が経ち、私が大学に入学した頃、ある一通のメールが届いた。送り主は、かなり名の知れた脳神経外科医。思考を停止して、私は指定された場所に腰を下ろした。


安城あんじょう恵美めぐみさんですね。あなたの弟、安城あんじょう理来りく君の意識に干渉できるかもしれません」


 話は本題から始まった。

 最先端の極小AIを脳内に拡散させることで、弟の見ている夢に参加した上でその夢を消すことができるらしい。浅い眠りによって見られる夢を取り除くことで、深い眠りにつくことができ、心身ともに回復できるという原理だ。


 藁にも縋る思いだった私は二つ返事で承諾し、夢に入り込むためのモデルとして高校時代の私の情報を提示した。弟が事故に遭ったあの日の自分と同じような身なりなら、現実世界で私が待っていることを思い出してくれるかもしれないから。


 そこからは早かった。

 手術によって私型の極小AIが投入されてから、弟の意識を示す脳波は以前とは段違いに安定し始めた。汗ばむこともないし、眉間に皺も寄らない。


 弟の悪夢が消えたんだ。私の姿をしたAIが食べてくれたんだ。その事実が、私を何度も安心させる。気持ちよさそうに眠る弟の顔を覗き込みながら、私は最後の願いを口にした。


「ねえ、起きて。私はここにいるよ」




「──起きてるよ」


 がらがらと痰の詰まった汚い声だったが、たしかに聞き慣れた理来の声だった。私は目の前の光景をまだ信じられていない。数回咳をして水を飲み、ようやく声が戻ったところで彼は言う。


「恵美姉ちゃんが夢の中で、僕の悪夢を食べてくれたんだ」


 しみじみと、遥か昔を思い返すように彼は遠くを見つめる。我に戻った私は、理来を優しく抱きしめた。


「今まで、よく頑張ったね。辛い夢も、よく耐えたね。戻ってきてくれて、本当に嬉しいよ」


 感極まって、声ならぬ叫びが病室に響く。


「おかえり......!」


 そう付け加えて、私は弟ににんまりと笑いかけた。弟は照れ臭そうにそっぽを向き、唇を尖らせて告げる。


「もう二度と会えないって......やっぱ嘘じゃん」

「え?」

「いや、なんでもない」


 何か夢の中で私が余計なことを言ったのだろうか。分かりようもないけれど、今は弟が帰ってきてくれた喜びでどうでも良かった。表情の硬い彼に、悪戯っぽく尋ねてみる。


「それが気になって、寝覚めは良くない?」


 すると、彼は表情を崩して首を横に振る。そして、憑き物が取れたような笑顔で口を開いた。


「いや、最高の目覚めだよ」

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