紙とペンと静寂と

@rudia

紙とペンと静寂と

今朝も。ある。


メイクブラシ立てにささる、メモを破った手紙。「ここにさしておけば見逃さないでしょ?」そう彼に聞いてから毎度決まってこの場所にささっている。内容は純心から来る喜びや、愛情表現、次回の予定のことなど。普遍的で正直飽き飽きしているが、その砕けた特有の文字に愛着を覚え始めている自分に嫌気が差す。ざっと一読して、いつものように捨てる。手紙そのものにはもう何も意味を感じないし、朝の忙しさの中いちいちこんな紙切れなんかで心を動かされては堪らない。


 支度を終えマンションを出る頃、スマホの振動と同時に手紙を見たことを前提とした陽気なメッセージが届く。「今日も独特な字」と、あえて手紙の内容には触れずにメッセージを返すも、勝手に今夜の食事の予定の話を始めていて、不意に高揚している自分にも気がつく。


 この習慣が始まったのはいつからだっただろう。とりわけ彼に手紙が好きと言った覚えも、私自身も手紙が好きとは思っていなかったが、初めてメモを見つけたときは思わず感動と喜びを覚え、瞬間に「嬉しい」のメッセージをしてしまったからだろうか。それからというもの、彼がマンションから去ってしまった夜の後には決まってメモが見つかるという具合だ。こんな風に、彼は私の心を掴むチャンスについてはマメで抜け目がない。仕事はズボラなくせに。


 もともと彼とは疎遠な同僚で、きっかけはいつもの同僚メンバーとの食事会にたまたま彼を誘ったことだった。特に特別な感情もなくいつもどおり美味しいものや気の知れた同僚と雑談を楽しむだけのいつもの会。しかし食事とお酒が進むにつれ、普段職場では見られない側面が垣間見え、存外に通じ合ってしまった様々な話題や物の考え方に興味が湧いた。以来、機会があれば誘い誘われ、会話を楽しむうちにいつしか心を許してしまった。


しかし、彼には、妻がいる。


 今夜も頭では重々承知だが心がうまく言うことを聞かない。左手の指輪に対して幾度となく無駄な嫉妬を覚えつつ、擬似的にでも大切にされているという幸福感を得てしまっている。世間では淘汰される関係性で、あとに残るのは多分虚しさだけであろう。


 毎夜、決まったルーチンの後、私はいつからか寝たふりをする様になった。すると間もなく彼が私のためにペンを走らせる音だけがかすかに響く瞬間が訪れる。またか、と鬱陶しさを感じつつもフワフワとした心地よい余韻もあり、色々どうでもよくなる。こんな静寂に満たされてしまう日々など早く終わってしまえばいいのに。

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