夕陽の窓

くろかわ

それと扉の話(20190318更新)

 木製の扉に手を掛ける。柔らかな色合いに磨りガラスの向こうから射し込む茜色が反射している。少しだけ力を込めるとするりと図書館の戸が開き、私は廊下との境界線を軽やかに飛び越える。暮れゆく太陽に照らされた物語の宮殿は内に多弁を秘めてひっそりと静まり返っている。彼らの本心を紐解くには、言葉を読み解くだけでは足りないのだろう。じっくりと時間を掛けて向き合い、一言一句と語り明かす。そうして、ようやく本当の気持ちが見えてくる。それが物語だ。

 扉を開く様に、本の表紙に手を掛ける。それが毎日の楽しみ。それが生の喜び。生きる価値と意味。今日は、どれを読もうか。


 うきうきと浮き足立って、らしくもない鼻歌交じりに歩く。誰も座っていない、今日も誰にも座られなかったであろう椅子と、その前で重さを感じずに一日を過ごした退屈な机をすり抜ける。

 そのつもりだった。

「あ」

「え」

 目が合う。クラスメイトだ。こんなところで。こんなところで?

 沈黙。鼻歌が止まる。頁を捲る指も沈黙している。上履きの靴音も気まずさに目を逸らす。ぽかんと空いた口からは空気の漏れる音もしない。

「沢渡、学校来てたんだ」

「あぁ。うん。今日から」

 それと、と前置きを一つ入れて、彼は呟きを吐き出す。

「今は山坂」

「……悪い」

 春は近いというのに冷たい風がカーテンに流れを作り出し、彼の手に持った頁は持ち主の意思に反して物語を進めてしまう。

 はらはら、ぱらぱらと図書館に風の音が舞う。

「田崎、本読むんだ」

「意外?」

「かなり」

 まぁ、そうだろう。私自身、ここまで嵌まれるとは思っていなかった。私はどちらかといえば、

「ほら、カラオケとかみんなで遊んでるイメージあったし」

「だよねー。……山坂って本あんまり好きじゃないでしょ」

「暇潰し」

「だよね」

 そのまま無言。私は手元にあった本を抜き出し、机の上に座る。

「パンツ見えるかも」

「金取るよ」

 二人で黙る。

 沈黙を最初に破ったのは、下校を促すチャイムの音だった。


 それから放課後の日課は学校の図書館になった。挨拶以外の会話はほとんど無い。漫画みたいにロマンチックな展開も無い。ただぼんやりと、誰もいない図書室で本を読むだけ。空虚に満たされた時間が堆く積もっていく。夕陽が次第に昼へと逃げていく。私達はずっとこうしている。こうしていた。


 三月の半ばも過ぎた。今ではすっかり、下校のチャイムが鳴る時間になっても落陽が地平線に近付くことはなくなった。

「そういや」

 開けっ放しの窓。カーテンをステンレスの窓枠と後頭部で抑えつけながら、二時間ぶりに声を掛ける。

「沢渡」

「うん」

「ごめん、山坂」

「どっちでも」

 良いらしい。言葉に嘘はないらしく、こちらの事を見上げる瞳に避難の色は一切ない。

「良くないでしょ。ごめんって」

「田崎さ」

「な、なに」

「結構読むの早いよね」

 あー、と気の抜けた返事を返してしまう。

「なんか、読んでみたら面白くて」

「そう」

「そう」

 一際強い風が吹く。入口の扉が少し揺れた。

「あたしさ」

「うん」

「あたしもさ、苗字変わりそうで」

「うん」

「変わるくらいならまだマシかも」

 視線を外す。真っ直ぐ見つめられるのが嫌だった。比較されるのも、してしまうのも、その想像をしてしまうのも、全部嫌だ。

「彼氏連れてくるからさぁ、家に居づらくて。……それに、あんま早く帰ってくるなって」

「……うん」

 結局、視線を交わす事無く会話は終わった。終わったと思った。

「ここに、居ればいいよ。面白い本、あったら教えて」

「興味なんて無いくせに」

「暇は、暇なら、潰せる」

 下校のチャイムが鳴っても、日が沈むまでここに居た。読みかけの本を二人で借りて帰る。司書も居ないから、ただ記帳するだけだ。それすら、ずっと私達二人の名前が続いている。

 別れ際の影法師は長く長く伸びきって、ぷつりと切れてしまうんじゃ無いかと不安で仕方なかった。


「そうだ」

「なに?」

 翌日も同じように同じ時間に同じ場所に居る。一人と一人で暇を潰すのは向こうも飽きたらしい。だから、二人で暇を持て余す。

「昨日の話」

「うん」

「山坂に頼みたい事があるんだけど」

「どれ」

「早いよ。一番上の段のアレ」

「はいはい」

 立ち上がって、椅子を足場に本棚の上段へと登っていく。

「これ?」

「もうちょい右」

 手が止まる。

「恋愛物かぁ」

「んだよ悪いか」

「いや、俺らが? って。ほら」

「まぁ、言いたいことはわかる。ありがと」

 三冊全部が机の上に放り出された。

「年頃なんだし、自然でしょ?」

「じゃあ俺は不自然だな」

 彼は椅子の上に座った。私はその本を手に取りもせず、ただ窓に背中を預けて時計がこちこちと時間を刻んでいくままにした。ちくちくと痛む胸中を癒す暇が欲しかった。


 下校のチャイムが鳴る。驚いてびくりと体を震わせてしまったが、本をぼんやりと眺めていた彼にはどうやら気付かれていない。

「帰ろうぜ」

「ん、もうちょっと」

 結末まで近い。未読の厚みはもう四分の一も無い本を広げている。

「っていうか、もう一冊」

「それは流石に借りてけば?」

「……そうもいかないからさ」

 彼から目を逸らしたのは多分初めてだ。

「新学期に返せばいいでしょ」

「もう、ここには来ないから」

 風。春一番にはまだ遠い。それでもカーテンを乱すには十分以上の強い一陣。

「聞いて、いい?」

「親権放棄だって」

 だから、どっちでもいい。もう一度彼は呟く。

 結局、読みかけの本はそのままに、日が沈むまで他に誰もいない図書室に居た。


 ぺたぺたと誰もいないリノリウムを歩く。

「借りてこなくて良かったの?」

「どうせ暇潰しだったからいい」

「そう」

「そう」

 無言。無言。無言。無言。夕陽ではなく街灯で影が出来る。晩冬の夜気に体温が奪われる。

「あのさぁ!」

 思いがけず、大きな声が出てしまった。一度開いた口を閉じるわけにはいかない。もうこれで最後なのだから。

「……な、何」

「今度、あの本のオチ教えるから!」

「……あ……あぁ、うん。読んどく」

「それじゃ……」

「うん。またね」

 人工的な明かりに作られた影が、一つから二つにぷつりと切れた。


 木製の扉に手を掛ける。柔らかな色合いと磨りガラスの向こうから射し込む清冽な青が反目しあっている。私は懐から図書室の鍵を取り出し、かちゃりと鍵を掛けた。力を込めても図書館の戸は開かない。春色の太陽が照らす何もない廊下で、ただ私一人の靴音だけが饒舌だった。もう春になった。もう春だった。

 あの本はまだ読んでいない。

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