彼の傷と万能壺

かめかめ

彼の傷と万能壺

 彼は紙とペンを手放したことがない。絵を描くことが何よりも好きな彼、いや、絵を描くことでしか自分を保てなかった彼が生きるための命綱だったから。


 彼はいつもこの保健室にいた。彼の居場所は教室にはなかった。家にもないのだと彼の担任教師は言っていた。彼は毎朝、逃げるように中学校に登校してきて、まっすぐ保健室にやってきた。

 彼は病気ではない。ただ居場所がなかっただけだ。唯一ゆるされた場所が傷だらけの彼に似合いの、消毒液の臭いがただよう部屋だったというのは皮肉なものだと思う。


「樋口くん、手当てしようか」


 彼はほぼ毎日、新しい怪我を作っていた。自分自身でつけた傷は彼に痛みをもたらさないのか、真っ赤な切り傷に消毒液をしみこませた綿球が触れても、眉ひとつ動かすことはなかった。一言も発さずかたくなに床だけを見ていた。そうして手当てが終わると、ベッドに腰かけて 絵を描き始めるのだった。

 彼が何を描いているのかと覗きこんだ時、そこにはただ真っ黒な円がいくつも並んでいるだけだった。あるものはぐるぐると渦を巻き、あるものは塗りつぶされ、あるものは歪んで円としての性質を失っていた。彼のやせ細った肩越しに見たものが彼の剥きだしの傷だらけの心のように思えて、私はそっと目をそらした。


 それから半年、私は彼の手許を覗き見ることはしなかった。また真っ黒なものを見るのが怖かったからだ。だがある日、彼がトイレに立った間に彼の紙が風にあおられて床に散った。それを拾おうとして、そこに描かれたものに驚いて手が止まった。

 たどたどしい筆致で描かれた万能壺がいくつも、何枚も、何十個も描かれていた。

 突然、足音がして振り返ると、彼が右手を突き出していた。紙の束を渡すと彼は黙ってぺこりと頭を下げてベッドに腰かけた。


「万能壺が好きなの?」


 彼は不思議そうに私を見上げた。


「その絵の容器、アルコールをしみこませた綿球を入れている容器、万能壺っていうの。ここのはステンレスの蓋とガラス瓶だけど、ステンレスだけのものもあるのよ。病院でも見たことないかな、注射のときにアルコール綿を取り出すところ」


 こくりと頷いた彼は紙に向かい、またひとつ、新しく万能壺をスケッチし始めた。


「万能壺、さわってみる?」


 彼はうつむいたまま、またこくりと首を動かした。彼の傷の手当のために今日も綿球を取り出した万能壺を取り、彼の手に渡した。彼はしばらくじっと見つめていたが、そろりと目の高さまで持ち上げて、横から、底から、真上から万能壺を観察した。蓋を何度も開け閉めして、蓋と取っ手の接合部の動きもじっと見ていた。彼が何かに関心を示すことなど初めてだった。私は彼が万能壺をいじるのをじっと見つめ続けた。彼が蓋を開け閉めするたびに漏れ出すアルコール臭はどこか甘く香った。


 彼の手首に大きな切り傷ができた。かなり深く切ったようで、血は止まっていたが傷口はぱっくりと開いたまま赤い肉が見えていた。万能壺から消毒液がしみた綿球を取り出して手首の傷に当てると彼の手がぴくりと動いた。


「痛かった?」


 彼は首を横に振って深くうつむいた。顎が胸につくほどに顔を伏せてしまって表情が見えなかったが、叱られることを恐れているようにも、期待しているようにも見えた。すこし迷ったが消毒を続けながら彼の手をぎゅっと握った。


「痛かったら言ってね。いつでもいいから、どんな痛みでも話せるようなら話してね」


 彼はそっと顔を上げた。瞳が揺れていた。唇が震えて開くかと思ったけれど、彼はぐっと強く歯を食いしばった。その表情は誰もを憎み疑っているように見えた。私のことを試そうとしているようにも。とても強い彼の視線に耐えられず私は目をそらし、使い終わった綿球をごみ箱に捨てた。


 それ以来、彼は保健室に来なくなった。学校にも、自宅にも、彼の姿はなかった。彼は誰も知らないどこかへ去って行ったのだ。どこに行き、何をするのか、生きていくのかすら誰にも告げずに。彼が何を思っていたのか誰も知ることがないように一言も発しないまま。

 ただ紙とペンと万能壺だけが彼と共に消えた。


 それからもう十年が過ぎた。彼は見つからぬまま誰からも忘れられた。私もこの学校を去ることになった。窓から風が入って真っ白な紙の束を吹き散らす。私はそれを拾い、誰もいないベッドに置く。そこに新しい絵が描かれる日がくるのかわからないまま、彼のための新しい万能壺を紙の上に置いた。

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