ルシファーの福音

伏見七尾

第1話

 リュミの爺さんが死んだのは真冬のさなかだった。

 これでリュミはひとりになった。

 一通り爺さんの荷物を片付けて、住居がわりの核シェルターを見回す。

 古い紅茶缶、大昔のスマートフォン、爺さんが統治局にいた頃の制服――どこもかしこも爺さんの痕跡ばかりだ。

 リュミはそんな遺産の中から、大きなクッキーの缶をとった。

 この缶は、爺さんが特に大事にしていたものだ。死んだら、開けるように言われていた。

 リュミは缶を開けた。

 黒い艶やかな羽が1つ、黒い液体を入れた小さな瓶、コルトSAAが一丁。

 そして、古びた手紙。

 リュミは眉をひそめ、手紙を開いた。


『四番街 第十三区画 VIVI―6 サロン・ド・エデン』


 バックパックにクッキー缶を入れ、リュミは足音を潜めて街を行く。コルトSAAは念のため、ベルトに差していくことにした。

 ここは見捨てられたゴーストタウン――小娘一人で歩くには、少々危ない街だ。

 統治局はこの街に住民はいないということにしている。実際は、統治局のなんらかの基準に見合わなかった人間であふれかえっているのに。

 ごみだらけの道端で、ぼろぼろの老婆が座り込んでいた。

 老婆の抱えたラジオから、腹立たしいほどに明るい声が聞こえてくる。


「――統治局は人類の復興に尽力しております――本日も再興病院ではたくさんの可愛い赤ちゃんが――――旧時代の違法メディアを発見した場合は、すぐに浄化委員会へ」


 リュミはため息をついて、視線を上げた。

 雑然とした街の向こうには、巨大な壁が聳えているのが見える。

 あの先には、楽園があるらしい。統治局によって徹底的に管理される幸福の園だ。ゴーストタウンの人間は単純に『楽園』とか『壁向こう』などと呼ぶ。

 安全で、幸福で、病気もなく、犯罪もない。

 辛いことも悲しいこともない。なんの苦痛もないこの世の天国ががそこにある。

 それが統治局の謳い文句。

 しかし不思議な事に、その楽園では事故死する人間よりも自殺する人間の方が多いという。


『――管理AIが狂った潔癖症になってから、あそこは地獄になった』


 爺さんはよくそう言っていた。

 昔、統治局の高官だった爺さんは、それが理由で楽園を離れたらしい。

 爺さんのことを思っているうちに、四番街の入り口にたどり着いた。コルトSAAに手を掛けて、リュミは慎重に見知らぬ街に足を踏み入れた。


 ――四番街 第十三区画 VIVI―6。

 リュミは今、まさに手紙に示された住所に立っていた。

 そこには雑貨屋のようだった。入り口には古いピエロの人形が立っていて、色あせて文字も読めなくなった看板を持っている。

 リュミは手紙を何度も確認しながら、雑貨屋に入った。

 陳列棚には、ろくな商品が並んでいない。レジカウンターでは眼鏡を掛けた一人の老人が、うとうとと船を漕いでいた。


「あの」

「ああ、すまないね。見てのとおり、缶詰も水ももうないよ。今日はもう帰っておくれ」


 リュミが声を掛けると、老人は寝ぼけ眼で答えた。


「サロン・ド・エデンを探しているんですけど」


 その言葉で、老人は完全に覚醒したようだった。老人は眼鏡を外し、レジカウンターの下に手を伸ばしながらリュミを見つめた。


「きみ、どこでその名前を――」


 老人の目が、リュミの腰のコルトSAAを捉えた。


「その銃……ネロの関係者か。ネロはどうしたんだ?」

「ネロは私の祖父です。先日、亡くなりました」


 リュミが答えると、老人はゆっくりとまばたきした。

 カウンターから手を離し、彼は頭を押さえる。そうして、深々とため息した。


「そうか……死んだのか。それで、君はどうしてここに?」


 リュミはバックパックからクッキー缶を取りだし、その中身をカウンターの上に広げた。

 老人は爺さんの手紙を取り、それをじっと見つめた。


「……なるほど、彼がここに君をよこしたんだね」


 老人は一つ大きくうなずくと、カウンター越しにリュミに手招きした。


「おいで、お嬢さん。我らのサロンに案内しよう」


 雑貨店のカウンターには、秘密がふたつあった。

 一つは、老人のすぐ手元にはライフル銃がおかれていたこと。

 そしてもう一つは、地下への入り口が隠されていたことだ。

 秘密の入り口を抜けると、リュミの前には大きな空間が広がった。

 オレンジ色の明かりで照らされたそこには、無数の本棚がずらりと並んでいる。そうして様々な書物が天井、壁、床を支配するように存在していた。


「ここには、統治局によって禁書に指定された書物が隠されている」


 リュミを先導しながら、老人が言った。

 本棚の合間を縫うようにして作業用のデスクやテーブルが置かれ、そこで様々な人々がせわしなく動いていた。本を運ぶものや、読むもの。

 そうして、紙にペンを走らせる人。

 その中には、リュミが持っているような羽根を使っている人もいた。


「この羽根はなんですか?」

「それは羽根ペンだよ。昔の筆記用具だ。――電子ペンや、壁向こうの筆記用具には色々と迷惑な機械が仕込まれているからね。みんな、昔のペンや鉛筆で書いているんだよ」

「おい! HBの鉛筆はどこにいった!」


 どこかのデスクで怒号が飛ぶ。

 リュミの先を行く老人が呆れたような顔で声を張り上げた。


「トム、また鉛筆を切らしたのか」

「仕方がねぇだろ! この鉛筆がポキポキ折れるからいけねぇんだ!」

「こまったやつだ」


 老人は肩をすくめつつ、リュミをあるデスクへと案内した。

 立派なオークでできたそれを示しつつ、老人はリュミに優しく語りかけた。


「ここだ。ここが、ネロの席だったんだよ。彼はここで、筆写をしていた」

「筆写?」リュミは首を傾げた。

「統治局に発禁指定された書物や映像は、いずれ『なかったこと』にされる。私達はそれを後世に少しでも守り伝えるために本を保存したり、内容を書き写したりしている。そうして、誰にも見つからない場所に保管するんだ」

「それ、違法じゃないんですか」


 リュミが指摘すると、老人は小さく笑った。


「ゴーストタウンの人間が、いまさら統治局の狂った規則を気にするのかい?」


 リュミは答えなかった。老人はうなずくと、リュミの肩をそっと叩いた。


「ここでの仕事はスリや強盗なんかよりも簡単だ。そして、きみの良心や尊厳を一切傷つけないものだと約束する。当然、報酬もある。――やるかやらないかは、君の自由だ」


 老人の言葉を聞き、リュミはちょっと首を傾げた。

 そして、うなずいた。


「――じゃあ、やります」


 リュミはひたすら筆写を続けた。

 黒い羽根ペンの書き心地は素晴しく、なんの苦痛もなく文字を紡ぎ出す。

 そうして書き映されるのは、知らなかった旧時代の世界だ。

 リュミはイカロスの転落を見た。仙人達と人間の戦争を追った。不思議の国で少女と戯れた。ラスコーリニコフの犯行を目撃した。風に乗ってきたベビーシッターと出会った。羅生門の盗人の行方を思った。ギャツビーの破滅を目の当たりにした。

 旧時代は、野蛮と暴力のおぞましい世界。

 忘れ去るべきだと、統治局は人々に刷り込んできた。

 けれどもリュミの前に広がる旧時代の遺産には、数え切れない物語と世界があった。


「――何故、統治局は」


 映写室――そこでは、発禁処分にされた映像が流れる。

 今、リュミの目の前で流れているのはタイタニック号の沈没を描いた古い映画だった。

 リュミは涙を流しながら、言葉を続けた。


「こんなに素晴しいものを、消そうとするんですか?」

「統治局の理想とする人間には、不必要なものだからさ。愛と猥褻の区別が付かないらしい」


 隣に座る老人は語る。


「彼らは、人間の情動を――魂を、おぞましく思っているのだろう」


 リュミは首を振った。

 黒い羽根ペンへと涙が滴り落ちる。書き写した文字が滲んだ。


 リュミはその日の夕方も、サロン・ド・エデンへと向かった。

 歩いているうち、異変に気づいた。

 火と、血のにおいがした。リュミは駆け出した。

 ――四番街 第十三区画 VIVI―6。

 そこにはもう、なにもなくなっていた。

 リュミは呆然と、雑貨店だった瓦礫を見る。足下に、ピエロの人形の首だけが転がっている。

 地下は、どうなっているのか。

 瓦礫の山へと近づこうとしたとき、リュミの肩が掴まれた。


「……やめとけ。統治局のドローンが辺りを監視してる」


 リュミを物陰に引き込んだのは、あのいつも鉛筆を折るトムという男だった。顔中が煤け、ところどころに傷を負っている。


「統治局だ。浄化委員会のガサ入れだよ。――チッ、どこでしくじったんだ」

「みんなは……」

「浄化委員会は不穏分子と見なした人間は殺すか、収容所で徹底的に洗脳する」


 トムは呻くように言って、地面に座り込んだ。


「……知ってるか。奴らは、蠅を潰すように人を殺す。痛みがわかんないんだよ」


 リュミはぼんやりと、思う。

 こんなことが許されて良いのだろうか。

 統治局の規則に触れる行為をした。けれども、それで命が奪われて良いのか。

 そもそも、統治局が最初に自分達から奪ったのに。

 自分達から、魂を奪ったのに。

 熱に浮かされたような足取りで、リュミはゆっくりと歩き出した。

 トムの静止する声も構わず、瓦礫の山へ。

 唸るような音が聞こえた。見上げると、黒い凶悪な機械が自分めがけて飛んでくるのが見えた。その銃口が、自分に向くのが見えた。

 銃声。撃ち抜かれたドローンが、落ちていく。

 それが爆発する音を聞きながら、リュミは振り返った。

 ぼろを来た老婆が一人、立っていた。

 手には、一丁のライフル銃。


「――もうたくさんだ」


 かすれた声で呟き、老婆は新しい弾丸を装填する。

 たくさんだ。もうたくさん。たくさん。――その囁きは、さざ波のようにあたりに広がった。

 ゆっくりと影から這い出るようにして、人々が集まってくる。

 目指すのは、サロン・ド・エデンの瓦礫の山。

 その頂上で、リュミは爺さんが遺した羽根ペンを取り出す。


「――取り戻そう」


 濡れたように黒い羽根を見つめて、リュミは顔を上げる。

 視線の先には、巨大な壁。

 黄昏に染まりつつある楽園の上で、金星が妖しく光り輝いていた。

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ルシファーの福音 伏見七尾 @Diana_220

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