男の話

黒猫亭

男の話

あぁ、天気が良いな


外で

ひらひら桜が舞って


ぶんぶん ぶんぶん

ハチが飛んで


ぶんぶん ぶんぶん

頭に入って


ぞわぞわ ぞわぞわ

毛虫が這う


這う 這う


肌を


ぞわぞわ ぞわぞわ

短い毛足で


ちくちく ちくちく

皮膚に刺さる


人の目が怖くなる


頭が可笑しいって

皆、知ってる


それは秘密で

内緒の話


あぁ あぁ


頭が 頭が


ふわふわ ふわふわ


歪んだ視界で

人の頭が膨れてくように

ちょっとずつ可笑しくなって


春陽射し込む

狭い部屋の中で1人


「お薬の時間ですよ~」


テーブルの上

散らばる錠剤を眺めて

ぽつりと呟く


ミルク

ミルク


ミルクが欲しいな


苦い薬を飲むなら

甘いが欲しいな


透明なグラスコップに

白く仄かに甘いミルクを注ぐ


心療内科から処方された

大量の錠剤を

慣れた仕草で飲み込んで

殆ど家具の無い

リビングの床に座り込み

空を見詰めて放心する



なんぷん


何分経った?


ぐるぐる ぐるぐる


薬が効き始め

少し冷静になりだした頭で

時計を見る


「さ...さん...さんじゅっぷん」


渇き出した喉が張り付いて

上手く声が出せない


いつから


何時から


可笑しくなったんだっけ


最初は些細な事で

ちょっとだけ人より臆病で

ちょっとだけ視線が怖くて

少し、しんどいなって日々が続いて


そうだ


酔っ払いに絡まれたんだ


夜の歩道を歩いてて

とっても酔っ払ったサラリーマンが

前から千鳥足で歩いて来て

近付いたら、お酒の臭いがして

やだなって顔をしたら


「なんだよ!!なんか文句あんのか!」


って大声で怒鳴られて

嫌な上司と重なって

そしたら急に

全部が怖くなっちゃって


逃げるように部屋に帰ったら

なんだか怖くなって


ぐずぐず ぐずぐず

暗い部屋の中 1人で泣いて


朝起きたら

玄関の外に出れなくなって


そうだ、そうだ。


そこからだ


そしたら転がるみたいに

どんどん どんどん

怖い物も

見える物も増えてって

そのまんまじゃ見えなくて


人の頭が風船みたいに膨らんで

人の目が気球みたいに膨らんで


そのまんましか見えなくなって


ぞわぞわ ぞわぞわ

身体中に虫が這い出して


現実と妄想が解らなくなりだして


なんだっけ

何処で間違えたんだっけ?


あぁ、そう

酔っ払い


酔っ払いが


酔っ払いが?


半分、溶かされたみたいな

有るのか無いのか解らない脳が

あちこちに飛んでって


そうそう

ヘラヘラしてたの


四六時中ね

ヘラヘラ ヘラヘラ

ヘラヘラ ヘラヘラ

ヘラヘラ ヘラヘラ


面白くもないのにさ

人の顔色が怖くって


ヘラヘラ ヘラヘラ


貼り付けたみたいに

馬鹿の一つ覚えみたいに


ヒステリーに怒鳴る上司にも

ヘラヘラ ヘラヘラ


なんで笑うの?


違う 違う 違う


そう


太陽


太陽は眩しくて

暖かくて


真ん丸で大きくて


えっと えっと


なんだっけ


イカロスだ


翼が欲しくて

太陽に近付きたくて


それから それから


それから?


それから、どうなるの?


間違いね


間違えたね


小さい頃は成績も良くて

クラスの人気者で


あれ?あれ?あれ?あれ?


なんで?なんで?なんで?


今は?いま?いまは?


混乱した頭を宥めるように

暗くなり出した部屋の中で

男は血が滲む程、頭皮を掻き毟る


なんだっけ?なんだっけ?なんだっけ?


えっと えっと


なんでなんで?


なんで?


生きてる?生きてる?


生きてるってなんだっけ?


そう!イカロスね!


イカロスの翼が欲しくてね


のど



喉が渇く


ミルク ミルク


ミルク欲しい


掻き毟る手を止めて

マグネットと紙で埋め尽くされた

冷蔵庫に向かい


「美味しいね~」


牛乳パックを取り出して

そのまま口を付けると同時に

男の足元から少し離れた場所へ

一枚の紙切れが音も無く落ちる


何度か喉を鳴らし

渇きを癒した男は

紙切れに近付いて

それを取り上げる


「ん?写真?」


だれ?だれ?だれ?


あぁ彼女だ


5年付き合って


付き合って?


付き合って、お別れして


なんで?なんで?


なんだっけ?


働かない頭に

彼女の台詞が甦る


「あなたが、こわい」


そう!そうだ!!


「へんになっちゃったから」


ばいばい


「へん?へん?変ってなに?」


暗い部屋で

男の焦った声が響く


「俺、変なの?ねぇ?変なの?」


「おかしい?おかし?おかしくなったの?」


狂人ままに

檻の中の動物みたいに

行ったり来たりを繰り返しては

独り大声で問い続ける


「なんで?なんで?なんで?なんで?

変?へんって何?なんで?変?」


ぶんぶん ぶんぶん


またハチが煩く鳴り出す


頭 頭


頭の中で


鈍い耳に付く羽音で


ぶんぶん ぶんぶん


「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


気が狂いそうだ!


この音


音が


音が!!!


「うるさい うるさい うるさい うるさい

うるさい うるさい」


手に持った写真を握り締め

狂ったように

音を振り払うように

見えない何かを追い払うように

腕を振り回す


ぶんぶん ぶんぶん


体力が尽きたのか

腕を止めて立ち尽くし


「なにしてんだよ...」


正気に戻った声音を吐き出す


あぁ、きっと僕は


僕は


思ってるより頭が可笑しくなってしまって


あまり効かなくなってきた薬の作用で


ふいに正気に戻って


いつしか正常な思考は


この溶けてくような

鈍く這い回る黒い液体に侵されて


いつか完璧な狂人に成り果てて


「や...だ...嫌だ」


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ


そんな


そんなのって


なんで


頑張ってきたのに


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ


一層の事

イカロスの様に飛んでしまえたら


この苦しみも


ぶんぶん ぶんぶん


鈍い羽音が舞い戻って来る


そう


イカロスだ


真っ暗な部屋の中

男は窓辺の明かりを頼りに

そっと窓を開け

空を見上げる


ぶんぶん ぶんぶん

ハチが


ぞわぞわ ぞわぞわ

毛虫が


見えない物が


ぶんぶん ぶんぶん


耳を塞いで

頭を振る


消えろ消えろ消えろ消えろ

消えろ消えろ消えろ消えろ


ぶんぶん ぶんぶん


ぞわぞわ ぞわぞわ


ぶんぶん ぶ...


塞ぎ続けた耳元から

鈍く流れ込んでいた羽音が


「飛べ」


何故だか

人の声に聞こえて


頑張ってきたのに


あぁ まぁいい


なんだか全部


あぁ もういいの




イカロスの結末は?

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男の話 黒猫亭 @kuronekotonocturne

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