筆跡

置田良

筆跡


 和やかな春の光に、くすぐったい墨の匂い。墨を磨る音ばかりが場を満たし、朝特有のスンとした空気に、正座をする私の背筋も自然に伸びる。

 こんなにも穏やかな空間を独り占めにできる、朝練の時間が私は好きだ。


 部室の片隅には、私物の色々な詩集が置かれていて、そこに書かれたものを私はよく題材にしている。

 今は杜甫の漢詩を書いていた。

 詩に描かれた風景を思いながら、書体を考える。気を張っているような、堅い文字にしてみよう。


 筆に墨を絡めて、真っ白な半紙に二度とは消せない跡を残す。

 立ち上がり、出来上がった文字と距離を取りながら、考える。遠目に作品を見ることは大切だ。書道室なら吊るせるようになっているけれど、ここにはそんな気の利いたものはない。


 ――少し、違うな。もうちょっと、風景を通して自分の過去を見ているような雰囲気が出せないものだろうか……。いっそ使う筆を変えるのはどうだろう。細くのびやかな筆で、カッチリとした文字にしてみようかしら。


 自由に試行錯誤をしていると、部室の扉がノックされた。珍しいこともあるものだ。朝練を行うような部員は私の他にはいないのだけど、誰か忘れ物でもしたのだろうか。「はい」と短く答えると、横開きの扉が、おずおずと開く。

 そこに居たのは見知らぬ男子生徒、上履きの色を見るに今年の新入生のよう。


「失礼します。一年の炭谷すみたにといいますが、部活を見学させていただいてもよろしいですか?」

「これはご丁寧に。私は二年の黒須くろすです。で、見学ですか? ええと、見学をするなら放課後、書道室でやってるものを見た方がいいですよ」


 何もこんな一人きりの、趣味全開の活動を見なくともいいだろう。というか見ないで欲しい。


「あ、書道室なんてあるんですね」


 それも知らずに来たのか。なら特別熱意があるというわけではなさそうだし、追い返してもいいだろう。部長に知れたら怒られるだろうが、まあ、それはそれ。


「先輩の字、綺麗ですね」


 追い払おうとしたまさにそのとき、この子はそう言った。


「これは他人ひとに見せるために書いたものじゃないので」


 急いで新聞紙に書いたものをしまいながら、そう返す。好きで書いてる字を、どうこう言われるのは嫌いだ。特に、男子に言われるのは。苦い思い出があるせいで。


「ええなんでですか、もったいない」

「もったいなかろうが、私には関係ありません。書きたいから書いただけです」

「減るもんじゃあるまいし、いいじゃないですか」

「減るのよ。精神的なものがガッツリと」


 頑なな私に対し、彼は口を尖らせながら「好きなものを好きに書いたんだったら、好きに見させてくださいよ」とぼやく。


「好きなものを否定されたら、傷つくでしょ」

「……何かあったんですか? そんなこと言うなんて」


 無視を決め込むが、コイツはじっとこちらを見続けてきた。ああもう、視線がウザったい。


「別に大した話じゃないわよ。小学生のころ、好きな男子に紙とペンで恋文ラブレターをしたためたら『字が汚い』って振られただけ。今思えば振る理由なんてなんでもよかったんでしょうし、それから書に打ち込むようになったから感謝してるくらいよ」


 ――って私は何をべらべらと。なんかコイツのことがイラついて、つい話過ぎてしまった。


「その相手、見る目がないですねぇ」

「そう? こんな面倒な相手をちゃっちゃと振れたんだから十分でしょ。というかあなたのそうの言い分、そんな相手を好きになる私の見る目も悪いと言ってるようなものよ」

「そんなつもりはないですよ。たださっきの文字を見たら、先輩は根っこは優しいことくらい分かるのにって思ったんです。パッと見は、怖いですけど」


 笑いながら、そんなことを言う。


「決めました。俺も書道部入ります! 好きなものを好きに書いて、そんでもって堂々と人に見せる姿を先輩に見せちゃいます!」


 何を言っても無駄だと感じ「そ。好きにしなさい」というと、彼は「はい好きにします!」と元気よく答えた。


「でも言っておくけれど、書く題材はそこまで好き勝手にはできないからね」

「え? 先輩は好きに書いてるって」

「今は朝練だから好きにやってるだけ。放課後の練習は足並み揃えてやってるわよ」

「そうなんですか。じゃあ、俺も朝練に参加します!」


 正直嫌だと思ったけれど、先ほど好きにしろと言った手前、そうも言えない。

 ため息を吐きつつ、一つ尋ねる。


「さっきから『好きなものを』って言ってるけど、具体的には何を書く気?」

「まずは、そうですねぇ……『限りあれば 薄墨衣 浅けれど~』とかですかね」

「確か、源氏物語の和歌よね? 違ったかしら」

「これで分かるなんて流石先輩ですし、その通りなんですけど……」

「けど?」

「あのこれ……好きなゲームのキャラの、必殺技の前口上です!」


 彼は真面目な顔で、そう言い切った。思わず、吹き出した。


「あ、笑わないでくださいよ」

「いえ、そういうつもりじゃなかったのだけど」


 こんなことを堂々と言う彼と比べると、私が馬鹿みたいに思えて、つい笑ってしまったのだ。ふと一つ、思いつく。


「書いてみたら?」

「え?」

「書いてみなさいと言ってるの。見学よりも、体験した方がいいでしょう? 紙と筆は、私のをかしたげるから」


 いいんですかと顔をほころばせた彼は本当に書いて見せ、すぐに「どうですか?」と笑顔で振り返る。

 私のように隠そうとしたりしない彼の文字は、まだずいぶんと伸びしろがありそうだったけど、素直で朗らかな文字だった。


 どうやら私の朝練の時間は、今後もう少し、賑やかなものになりそうだった。






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筆跡 置田良 @wasshii

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