紙とペンに想いを託して

翠月 歩夢

第1話 届け

 ペンを握る手が震えている。机には何も書かれていない白紙の便箋が一枚。


 小さな学習机に向き合ってから既に三十分以上が経っていた。けれど、僕は一向に筆を進めることができていなかった。


 初めて彼女と言葉を交わしたあの日からずっと抱えているこの気持ちを、どうやって形にして、どんな風に伝えればいいのか。僕はまだ、迷っている。


 彼女からすれば、僕はただのクラスメイトだ。それもたった数回話しただけに過ぎない、とても浅くて繋がりの薄い……そんな相手。


 そんな人にこんなものを貰ったって気味悪がられて受け取ってさえ貰えないかもしれない。いやでも、彼女は優しい人だからちゃんと受け取ってくれるかも。だけど……。


 頭の中で色んな気持ちが混じり合う。不安や恐怖、だけどそれと同じくらいに彼女の事が好きだという想い。


 散らばった感情が心を不安定にして、気持ちが身体にも伝わって、より一層、ペンを持つ手に力が入る。背中にも変な汗が流れる。


 どくどくと五月蝿いくらいに大きな音を立てている心臓を落ち着かせるために一度ペンを置いて、深呼吸をする。


 少しはマシになった心臓を左手で押さえながらもう一度だけ、最後に深く息を吐く。ついでに僕の気持ちも言葉にして、形を決めて、呟いた。


 そうすると不思議なことに、白紙だった紙に書くべき文字が見えてきた。慌ててペンを掴んで、心に浮かんだ文字を書き記していく。


 五分もすれば、ついさっきまでなんにも書かれていなかった白紙の便箋には最後までびっしりと黒い文字で埋められていた。


 やっとのことで書き上げた手紙を丁寧に封筒に入れて、僕の想いを閉じ込めるようにそっと封をする。


 ――どうか、この気持ちが彼女の元へ届きますように。


 優しく封筒を撫でて、身の丈に合わない願いをほんの少しだけ手紙に託した。


 明日は、卒業式。


 皆に……いや、彼女に会える最後の日。だからこそ、怖くて今まで言えなかったこの気持ちを伝えたかった。


 例え、実らなくても……何も言えないままで離れ離れになるのはもう二度と体験したくない。


 ギュッと固く拳を握って覚悟を決め、机に置いてあった手紙を大切に鞄にしまって冷えた布団へと潜り込んだ。




 翌日。


 いつもより大分早く家を出た僕はまだ誰もいない校舎の中を歩いて、自分の教室へ向かっていた。


 もちろん、こんな早くに学校に来た理由は彼女に手紙を渡すためだ。……といっても直接渡す勇気はないから机の中に入れておくのだけど。



「……はぁ」



 扉の前で小さく息を漏らす。一度瞬きをして高鳴る気持ちを落ち着けて、扉に手を伸ばし開けた。立て付けの悪い扉はガタガタと五月蝿い音を立てながら横にずれ、僕を教室へ招き入れた。


 薄暗い教室へ足を踏み入れた時、こちらを見つめる視線と僕の視線が絡み合った。


 誰もいないはずの教室には、彼女がいた。



「あ……」



 どくん、と心臓が大きく脈打つのがわかった。落ち着けたはずなのに、音が頭の中でこだまして、とても五月蝿い。



「おはよう、ハルくん」



 そう言って、彼女はにこりと笑った。まるで花が咲くような、暖かくて柔らかい笑顔。彼女が笑うと同時に濡れ羽色の綺麗な髪がふわりと揺れる。



「……お、おはよう」



 見とれている場合じゃないと気づいた僕は少し遅れて言葉を返す。そして、動揺を隠すように俯いて自分の席へと向かった。


 鞄を下ろして、ハッとする。彼女がいたのでは手紙を机の中に入れることは無理だ。かといって、直接渡すのも……。


 そこまで考えて、違和感に気づく。


 昨日まで空っぽだったはずの机の中に、花柄のピンクの封筒が入っている。


 そっと手を伸ばして机の影に隠したまま、じっと手紙を見る。封筒には宛名も何も書かれていない。


 もしかして、これは……僕が書いていたものと同じ……?



「今日はずいぶんと早いんだね?」


「えっ、あ、あぁ……」



 手紙の存在に気がついてすぐ、彼女が声をかけてきた。くすくすと鈴のような音色で笑っているのは、いつも僕が遅刻ギリギリに来ているのを知っているからだろう。



「き、君はいつもこんな早く学校に来てたの?」



 そう尋ねると彼女は少しだけ考える素振りを見せたあと、横に小さく首を振った。



「今日は、特別」



 二人っきりの空間に沈黙が流れる。


 彼女は黒くてキラキラと輝く大きな瞳で僕の目を見据えている。こんなにしっかりと目を合わせたのは初めてかもしれない。


 じっと目を見ていると、彼女が口を開くのがわかった。



「ハルくんが今日早く来たのは、何か理由があるの?」


「えっと、特に理由は、ないんだけど……」



 しどろもどろになりながら答える。本当は君に手紙を渡すために早く来た、なんて……言えなかった。


 ふと、ちらりと机の中の手紙を見る。一体誰がこんなもの、入れたのだろう。


 そこまで考えて、今の状況とさっきの彼女の言葉が頭の中に蘇った。


 ――今日は、特別。


 もし、朝早く学校に来たのが僕と同じ理由だったら?


 まさか、そんな運命的なこと有り得るのだろうか。僕の勘違いではないだろうか。


 鞄を見て、中に入っている便箋のことを考える。昨日必死になって書き上げた、あの手紙。


 彼女が僕よりも早く来ていたことは予想外だったが、やることは変わらない。さっきの考えが本当でも、僕の勘違いでも。



「ね、ねぇ。あのさ……」



 僕はそう言いながら鞄から手紙を取り出し、彼女に差し出した。昨日とは比べ物にならないくらいに、手が震えていた。



「え、こ、これって……?」



 彼女は目を丸くしながら、白くて細長い指を伸ばし無機質な白い便箋を手に取る。



「君のことが、ずっと前から……好きだったんだ」



 絞り出すように口にしたその言葉に彼女はとても驚いたように、息を呑む。


 そして、すぐ……微笑みを浮かべて彼女はこくりと頷き、口を開いた。



「……私も」



 そう言って笑みを深めた彼女は、外で舞っている桜の花のように、可憐で、儚げで……美しかった。

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