狸を助けたら押しかけ女房になった話

淡 湊世花

狸を助けたら押しかけ女房になった話

 世の中は、豆まきにうつつを抜かしている二月の夜。

 そんな楽しい節句なのに、大学生の栄太は、自宅のアパート前で、身の毛をよだてて立っていた。玄関を開けたら、豆が飛んでくるわけじゃない。もっと悪いものが待ち受けている気がするのだ。

 だが、こうしていても、木枯らしが身に染みるし、そろそろ近所の住人に怪しまれる。栄太は、腹を括って自宅のドアノブを捻った。


「おかえりなさいませ、栄太様!」


 たちまち、部屋の中から可愛らしい声が飛んできた。セーラー服の美少女が、純白のエプロンを纏い、床に膝をついている。


「先にご飯にします? それともお風呂? それとも……」


 栄太は、その先を聞く前にドアを閉めた。

 やっぱりだ、やっぱり“また”いた。どうして俺の家に“嫁”なんかがいるんだ?

 栄太が自問自答を繰り返していると、ドアが勢いよく開いた。


「栄太様! 途中で帰らないでくださいましっ!」


 先ほどの美少女が、顔を覗かせてぷくっと膨れた。栄太は鼻にしわを寄せ、怒りを込めて玄関に踏み入った。


「お前こそ“勝手に”俺の家に上がり込んでんじゃねえよ!」


 栄太は威嚇したつもりだったが、美少女の方は、栄太の怒る姿に感激しきっていた。


「男らしい栄太様も素敵ですっ! あ、実はお食事をすでにご用意しております!」


 美少女は、居間に入った栄太を追いかけて、台所から湯気が昇るうどんを持ってきた。


「お熱いうちにどうぞ!」


「たぬきうどんなんかいらねーよ!」


 栄太が突っぱねると、美少女はプッと吹き出して、マシュマロのように笑った。


「これはきつねうどんですわ、栄太様。うっかりさんですね」


「どーでもいいわっ! それより、その悪趣味な格好はなんだよっ?」


「お好きではありませんか? それでは、別のものに変化いたしますねっ」


 美少女は眉を八の字にして、可愛く手足を見つめた後、突然、くるりと宙返りした。

 栄太がギョッとして仰け反る間に、美少女は綺麗な着地を決めていた。ところが、そこにいたのは少女ではなく、テレビで見ない日はないほどの、人気朝ドラ女優がそこにいた。


「この姿はどうですか?」


「だからっ、そういうのやめろって!」


「いえ、栄太様に決めていただきたいのですっ、どの姿のもみじが、栄太様の嫁にふさわしいでしょうか?」


「ちゃんと聞けっ、人間は、狸なんて嫁にできないんだよ!」


 事の始まりは、年が明ける前の寒い夜のこと。

 栄太は、大学生という肩書きに甘んじて、競馬に通う自堕落な日々を過ごしていた。そんなある日、栄太は近所のゴミ捨て場で、カラスよけの緑のネットに絡まる、毛むくじゃらの動物を見つけた。それは、キーキー鳴いて暴れていた。


「何やってんだよ」


 栄太はその日、競馬で勝利し、しこたま酒を飲んでいたので、いつもより機嫌が良かった。

 栄太はネットを持ち上げると、毛むくじゃらの生き物を、アスファルトの上にポンっと放り投げた。


「さっさとどっかいけよー」


 栄太は別れを告げ、もう2度とその生き物に会うつもりはなかった。

 ところが、信じられないことが起きた。その日の真夜中に、一人の美女が、栄太の家のインターホンを鳴らしたのだ。


「先ほど助けていただいた、狸のもみじと申します。助けて頂いたお礼に、あなたの嫁にしてください」


 そうして押掛け女房として、狸のもみじが栄太の家に住み着いたのだ。


「お前は俺の家に不法侵入してるんだぞ! 今すぐ警察呼んでやる!」


「でも、もみじは狸ですし」


 もみじは悪びれる様子もなく、うどんをすする栄太の前に、ちょこんと座っていた。

 もみじは可愛く、気立ても良い。だが、狸なのだ。


「いいかよく聞け、俺は生涯独身を貫きたいと、心に誓っている」


 栄太のそれは、本心だった。

 栄太は、死ぬまでバイクに乗りたいし、暇さえあれば漫画を読み漁りたい。3食ともにカップ麺を食べたいし、金があれば競馬に行きたい。そこに女を構う時間なんてありえない。

 しかし、もみじはそれでもいいと答えて、栄太から離れないのだ。


「俺は絶対、女となんか暮らしたくねえ! しかも狸となんか、死んでもごめんだ!」


 栄太は家を飛び出ると、バイクにまたがって走り出した。


 次の日の早朝には、栄太は競馬場のゲート前でタバコをふかしていた。となりのジジイの新聞を盗み見ながら、いつものように馬券を買う。だが、結果は散々だ。


「ちっ、しけてんな……」


「今日はアサナンデスとサンマゴテンが、足の調子が良いって言っていましたよ」


 栄太はギョッとして目を剥いた。いつの間にか、もみじが隣にいて、栄太の馬券を覗き込んでいたのだ。


「お前、いつの間にっ」


「さっき馬に聞いてきました。タモステイジはやる気がないそうです」


 もみじはキュルンとした目をして言った。


「……馬に聞いてきたのか?」


 栄太が喉を鳴らすと、もみじは頷いた。

 栄太は半信半疑で、馬券を買い足した。

 するとどうだろう。もみじの言った通り、レースの1着2着を先ほどの二頭が制したのだ。


「やったぜ! こうすりゃ楽勝だ!」


 ところが、続くレースでは、栄太の馬券はぼろ負け。もみじは軽く笑った。


「勝負って厳しいのですね、栄太様」


「うるせえ……」


 栄太は軽くなった財布に泣きながら呻いた。


 こうなったら、もう強硬手段しかない。

 栄太はもみじを置いてバイクにまたがり、渋谷に向かった。大都会のど真ん中に、どっぷり夜が更けるまで入り浸った。

 栄太はスクランブル交差点を満足げに眺めながら、長くタバコをふかした。

 渋谷のど真ん中にいれば、あの狸も追って来れないだろう。

 そのとき、目の前の信号がパッと青に変わった。すると、人の波の中に、一際目を惹く、一人の美女が現れた。

 栄太は思わず、タバコを落とした。


「……もみじ?」


「やっと、名前を呼んでくれましたね……」


 もみじは美しく微笑んで、バイクに寄りかかる栄太の胸に、飛び込んできた。

 栄太は思わず顔をしかめた。だが、すぐに異変に気がついた。もみじの体は細かく震え、顔は真っ青だったのだ。


「おまえ、どうしたんだよ」


「……わたしの両親は、車に轢かれて死にました。都会の光も、眩しすぎて目が潰れそうです。それに……こんなにたくさんの人は恐ろしいんです」


 つまり、栄太の直感通り、渋谷のど真ん中は、狸にとって生き地獄だったのだ。

 なら、なぜ、


「お前、どうしてそこまでして俺なんかを追いかけるんだよ」


「あなたが、初めて優しくしてくれた方だからです」


 もみじは、そっと顔をあげて栄太を見上げた。


「好きなんです。愛してしまったんです。人間の栄太様を」


 その時、どこかの車が大音量でクラクションを鳴らした。栄太も身をすくめたが、もみじは恐怖のあまり飛び上がっていた。

 その拍子に、もみじの変化が解けてしまった。


「もみじっ!」


 栄太が思わず声をあげたのと、周りの人たちが悲鳴をあげたのはほぼ同時だった。


「アライグマだ!」


 たちまち、渋谷のスクランブル交差点は阿鼻叫喚で膨れ上がった。凶暴な外来生物と間違えられた小さな狸は、パニックを起こして栄太の手の中から飛び出し、人垣の中に飛び込んでしまったのだ。


「あれは狸ですっ、アライグマじゃありませんっ」


 栄太が声を張り上げても騒ぎは収まらず、警察まで出てくる大騒ぎになった。

 結局、警官による交通整理と害獣駆除の捜査で、その場は収まったが、栄太は事情聴取を受けさせられた。

 その後、もみじは栄太の元に戻って来なかった。


 桜が咲いて、紫陽花が散り、ヒマワリが折れた後。

 栄太は本が詰まったリュックを背負って、自宅のアパートに戻った。家の中はシンと冷え切っていて、真っ暗闇だ。


 あの日から、相変わらずご飯はカップ麺だけど、競馬に行く気は失せていた。することが減ったので、久しぶりに大学に行った。

 散らかり放題の部屋の中で、スマホが鳴った。バイト先の先輩から、ツーリングの誘いだった。


 たまにはいいか。栄太はそんな気持ちで返事を送った。


 秋が深まる箱根の山道は、霜が降りる前に最高の景色を見せていた。先輩達が先に走る後ろで、栄太は山の上ばかりを見ていた。

 あの葉っぱの名前は、もしかしたら。

 よそ見をしていたせいだ。栄太はカーブを曲がりきれずに横転して、後続の車に跳ねられてしまった。


 目覚めると、栄太は病院にいた。

 一人の看護師の女性が、栄太の顔を覗き込んで微笑んでいる。


「よかった、目が覚めたんですね」


 栄太は包帯で巻かれた頭を動かして、看護師を目で追った。看護師は、病室の扉に向かって歩いて行った。


「今、お医者様を呼びますね」


「……もみじ?」


 栄太がその名前を呼ぶと、看護師は弾かれたように振り返った。


「……やっぱりもみじなんだろ……あのときは、ほんとうに悪かったよ……。おれ、誰かに好きだなんて、言ってもらったことなかったんだ……」


 栄太の見開かれた両目から、ボロボロと涙が溢れ出してきた。


「ごめん、ごめんな、もみじ……好きなんて気持ち、俺には分からなかったんだ……ごめん、本当にごめん……」


 栄太は消え掛けた声で言いきると、そっと目を閉じた。


「好きって気持ちが、わからなかったんですか?」


 看護師は、栄太のそばに戻ってきて、もう一度顔を覗き込んだ。栄太は目を閉じたままだ。


「……うっかりさんですね」


 看護師は優しく囁いた。しかし、栄太は深い眠りについていた。

 病室の窓からは、風に吹かれる紅葉の葉が、ゆらゆらと揺れていた。

 やがて、その葉っぱは枝から離れて、どこかに飛んで行った。




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