第7話:愉しい夏の始まり

「行ってらっしゃい、お父さん。今日もお仕事がんばってね」

「ありがとう。行ってきます」

「行ってらっしゃい、あなた」

「行ってきます」

 

 父と母が、いつものように軽い口づけを交わす。

 早起きして作った弁当を手渡した私は、笑みを浮かべて手を振った。

 ……もう、帰ってこなければいいのに。

 そんな本音を喉の奥で噛み殺していると、ドアがバタンと閉まる。

 すると当たり前のように、私と母の間には深い溝ができあがった。

「お昼まで、部屋で勉強してきます」

「そうなさい」

 涼太とのデートから、ちょうど1週間後の今日。

 残念なことに、夏休みが始まってしまった。

 唯一、母の監視から解放される「学校」という名の憩いの場を失い、これから一か月以上、心を擦り減らすばかりの日々が続く。無論、その原因は母だ。

 母が私に求めることは、二つ、

 1:父親を心から愛する『娘』を演じること。

 2:将来、伴侶に頼らず生きていくための学力。

 それらさえ遵守していれば、暴力だけは免れる。至極単純な摂理だ。

 ただ、今日も呑気に会社浮気現場に出向いた父は、そんな私と母の関係を知らない。7年前、母が浮気の確信を抱くよりも先に、父が堂々と公言していてくれれば、私は今頃、もう少しだけ幸せな人生を歩めていたはずなのに。

 ……何もかも全部、母が父と離婚したがらないせいだ。

 母は「全ては私のためだ」と言っていた。

 でも本音は、違うと思う。あの人はまだ、父を愛している。

 私には「男を信じるな」と説教しておきながら。


 自室に戻った私は、物理の参考書を熟読した。

 でも、頭には何も残らない。ただただ無駄な時間だけが過ぎていく。

 すると次第に、内腿のアザ疼き始めた。

 このままでは、2週間後の模試であの人が望む結果を残せない。

 そしたらまた殴られる。

 だから死ぬ気で勉強しないといけない……のに。

「……もう、死にたい」

 私は机にうつ伏せになった。

 やっぱり怖い。いくら強がっても、根深い恐怖は消えてはくれない。

 もういっそのこと、父に全て打ち明けてしまおうか?

 お前が複数名の女性と浮気をしていることを知っている。

 そのせいで母が狂った。

 だから私が暴力を振るわれるようになった。

 そして私はひとりで、全部抱えなきゃいけない、ことに……

 ……

 …………涼太。

 脳裏に浮かんでくる、情けない彼の笑顔。 

 もしもこの悩みを打ち明けたら、この前みたいに、頼りになる彼氏になってくれるだろうか?

 ずっと隣にいるのに、何も気づいてくれない涼太。

 思えば中学3年生の時だって……。

「違う違う。そうじゃない」

 私は頭を大きく左右に振った。

 別に、涼太に対しての不満があるわけじゃない。

 私は、気弱な彼を好きになったんだ。

 気を取り直して勉強を再開すると、不思議と内容が頭に定着していく。

 心なしか、余裕も出てきた。

 ……やっぱり涼太は、必要な存在だ。

 今頃涼太は、何をしているんだろう?

 部活かな?

 それともまだ寝てるのかな?

 そんなくだらないことを考えていると、スマホが鳴る。 

 この着信音は、残念ながら涼太ではない。

 私は一旦廊下に出て、母が1階にいることを確認してから、こっそり応答した。

『もしもし。真帆ちゃん?』

『あ、ごめんね香澄。寝てた?』

『ううん、もうとっくに起きてたよ。それで、どうしたの?』

『えっと。よかったらさ。私と一緒に予備校の夏期講習行かない?』

『急に? というか、もう夏休み始まってる……』

『申し込み、まだ間に合うらしいからさ!』

『いや、そういうわけじゃ……ってあぁ、なるほど。もしかしなくても、田中くんが関係してるんでしょ?』

『さ、流石。相変わらず勘が鋭い……』

『どうしても1人じゃダメそうなの?』

『うん、ちょっとダメそうかも……。でもでも、1人で行ったらアイツがいるからって思われちゃうかもしれないし、香澄と2人で参加するってことなら、まぁまぁ自然な流れだと思わない⁉︎』

『……はぁ。まぁ、一応、親に確認してみるくらいなら–––』

『ほんと⁉︎ じゃあ、いい連絡待ってる–––』

『で、でも、あんまり期待はしないでよ?』

『え〜。でも前会った時、香澄のお母さん優しそうだったし。きっと許してくれるって〜』

『う〜ん。それはどうかな〜』

『ダメ元でも、頼んでみて。一生のお願い!』

『はいはい。わかった。一応、聞いとくから。じゃあ、また後で連絡するね』

『うん、ありがと! 香澄愛してる!』

『私も愛してるよ〜』

 好きな男子と同じ夏期講習に通いたいらしい学校の友人。

 部活で顔を合わせることもあるだろうに。それだけでは足りないのだろうか?

 ……でも、夏期講習、か。いいかも。

 

「ただいま〜」


 午後9時を過ぎて、消臭剤の香りを漂わせた父が帰宅した。

 母よりも先に、私は急いで玄関に向かう。


「おかえりお父さん」

「ただいま、香澄。って、どうしたんだ、いきなり頭を下げて–––」

「夏期講習に行かせてください!」

 少し遅れてやってきた母は、顔を引き攣らせていた。

「あらお帰りなさい、あなた。なになに? なんの話かしら?」

「いや、香澄がいきなり夏期講習に行きたいって言ってきてさ。おまえはどう思う?」

「うーん。別に必要ないんじゃないかしら? 香澄は、自分で勉強できる子だし」

「でも、香澄は本当に夏期講習に行く意味があると思うんだよな?」

「う、うん! やっぱり高校生になって、勉強も難しくなってるから……。あと、お友達が私と一緒に行きたいって言ってくれてて。……ダメ、かな?」

 私は全身全霊の上目遣いで懇願した。

 心なしか、父の口角は緩んでいる。

 一方、母は……

「お友達って、まさか涼太君じゃないわよね?」

「え? 違う違う。真帆ちゃんだよ」

「マホちゃん? おまえも知ってる子か?」

「え、えぇ。一応。顔を合わせたことはあるくらいかしら……」

「なら嘘じゃないだろう。何より友達付き合いは重要なことだし。香澄が行きたいなら、夏期講習、行っていいぞ」

「ほんと⁉︎ お父さん大好き!」

「だ、大好……⁉︎ お父さん困っちゃうなぁ〜、あはは〜」 

 父の言質を取れた。

 これで私の夏休みにも、少しだけ高校生らしい時間が–––

「よかったわね、香澄。行くからには、しっかり頑張りなさい」

「う、うん……!」

 外面な笑みを向けられ、私は震えた。

 奥底から込み上げてくるこの気持ちは恐怖、

 否、今までにないほどの悦楽だった。

 

 

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