第33話:二つ目の我儘

 今から千野先輩を傷つける。そう言う心持ちでここまでやって来た。

 なのにいざ本番となると、どうしても言葉が口から出てこない。

 先輩が突然僕に抱きついてきて、体を震わせているから言いにくい。とは言い訳したくない。


 だって僕は、先輩を傷つけるのが怖いからではなく、安全に舗装された道を自ら破壊するのに躊躇しているだけなのだから。


「千野先輩。僕も……自分の事は嫌いですよ」


 まるで全てを知っているかのような態度の千野先輩について、多少の違和感は感じる。

 でも、僕の態度と学校での噂でだいたい察しはつくものなのだろう。

 あのデートの日から一週間以上が経っているにも関わらず、僕は先輩に一言も事情を告げなかった。

 その理由は単純。一度は愛の告白を決意したにも関わらず、全てを無かったことにしようとしている自分がいたから。


 最低だ。僕は自分の都合のいいように事を進めようとしている。

 我欲に従うのは、人として当たり前のなのかもしれない。

 だけど、他人を傷つけるのは間違いだ。

 大切な恩人である千野先輩を傷つけるなんて、尚更……


「涼太くんはそんな事言わんでよ。言っていいのはウチだけなんやから」


 ぐすん、と鼻をすすりながら、先輩はゆっくりと離れていった。

 赤みを帯びた頬には涙が流れ落ちた跡がくっきりと残っている。

 また先輩を泣かせてしまった。しかも、今回は悪い意味で。

 陸上大会の時と同じような言動に、同じような涙。見た目だけならばあの時と同じ意味に捉えられる。でもその本質が大きく違う事くらいは、僕にでも分かる。


 そして、今は僕が自己嫌悪すべき時ではない事も、自己嫌悪こそが先輩を苦しませる一番やってはいけない行動だって事も、言葉を失った先輩の俯き顔が、一番物語っている。


「……ウチはな、涼太くんならええと思っとったよ」

「……はい」

「最初は好きでも何でもなかったんよ。ただ泣いてる男の子を助けてやらんと、って思うてな。それだけやったはずなんやけどな……」


 今はただ、先輩の言葉を聞いている事が正解なのだろう。

 それがどんなに辛辣な言葉でも、どんな恨みの言葉でも。

 自分の悲しみを理由に、感情の暴力を振るった僕に先輩を否定する事も、肯定する事も許されてはいない。


「でも、一緒にいて楽しかったし。優しいし、ヘタレなりに頼りになるし。それに大変な時には一緒に居てくれたし。恋愛経験ゼロの女の子が恋をする理由にしては十分過ぎると思わへん?」

「…………」


 そう問いかけながら僕に背を向ける先輩の目元には、さっきの比ではないくらいに涙が浮かんでいるような気がした。

 泣き声が聞こえる訳ではない。けど、そう思わせる程に声が震えている。

 先輩は、涙と共に自分の想いを懸命に絞り出している。


 それは僕が持ち合わせていない憧憬先輩の持つ才能……覚悟の現れだ。


 自分の気持ちを言葉にすればいいだけの単純な事。なのに、今の僕にとっては最も難しい。

 今胸に秘めている謝罪の心。それに感謝の意を伝えられたらどんなに楽だろうか。

 なのに、僕には覚悟を示す勇気も、資格もない。


「だから、あの浜辺での時は嬉しかったんよ。今まで感じた事ないくらいに心臓ばくばくしてた。あ、やっとやなーって、どこか自然な事や思うてたよ。それくらい、ウチは色々と確信しとった」

「色々、ですか?」

「そう、色々や。涼太くんがウチに対して偽物の恋心持ってたんも。ただ寂しさを紛らわすためにウチに構っててくれてたんも。それに、いつか、香澄ちゃんのとこに戻ってしまうんも。全部な」


 手を後ろで組みながら、先輩は前に後ろに歩き続けた。

 空を見上げながら、涙を乾かしながら。


「どうしてそう思ったんですk……」

「篤に言われとったんよ。香澄ちゃんはまだ涼太の事好きなんやって。それに涼太くんはまだ香澄ちゃんの事絶対に好きやって。何より、この一週間か二週間、涼太くんが変な態度とるから篤に聞いてしまったんよ。でも教えてくれんかった。やけん篤のお姉さんに聞いてしまった。ほんだら涼太くんは毎日香澄ちゃんの入院しとる病院に行っとるって……」


 先輩が絢香さんとどう言う繋がりがあるのかは分からなかった。

 でも、中学の頃神崎先輩と同じ学校だったらしいから、面識があってもおかしくはない。

 

 ……今はそんな事を考えている場合じゃないか。


「先輩、僕は……」

「何も言わんでもええよ。分かっとるから。ただ、ウチも整理する時間が必要だったってだけやから。ほんで二週間くらい何も連絡もせーへんかった。でも、あんま上手いこと整理出来て無かったかな。今も涼太くんの顔見れへんもん」


 それからしばらく沈黙が続いた。

 道を通りすがる人達が不思議な表情を浮かべ、校門を通る生徒達も僕らを注視していた。

 話す場所の選択をミスした。そう言わんばかりに、先輩は顔を隠しながら僕の元へと歩いてくる。

 

「な、なぁ涼太くん。ちょっと場所変えようか」

「そ、そうですね」


 真剣な雰囲気にポツンと現れた、妙に落ち着く間だった。

 そのまま二人で言葉も交わさずに、千野先輩の家の方向へと足を運んだ。

 週末でいつも以上に騒がしい繁華街を抜け、暗い路地を通り、住宅街へと続く道を進む。すると見えてきたのは、どこか懐かしい小さな公園。

 日が落ちていない時間に来るのは初めてで、以前のような暖かな雰囲気は感じない。

 それか、僕が先輩に対して恋心を抱いていないからそう感じてしまうのかもしれない。

 それでも僕達は、言葉も交わさず思い出のあるベンチへと腰掛けた。

 同じタイミングで座り、同じように身を強張らせながら。

 

 そして沈黙を打ち破るのは勿論、千野先輩だった。


「なぁ、涼太くんはなんでまだ香澄ちゃんの事好きなん?」

「え、そ、それは……」

「普通は浮気されたら嫌いになるやろ? ウチなんて、涼太くんが香澄ちゃんのとこ行ってるって聞いただけでメチャイラついてしもうたもん。それに香澄ちゃんが意識が朦朧としとるって聞いたし……」


 普通に考えて、僕の選択は理解不能だ。

 神崎絢香から伝えられた衝撃の事実と、それをサポートする健斗と野田さんの発言。それに香澄の両親からの手紙。

 全てを知った上でしか理解できない、複雑且つ単純な状況。

 先輩に話すべきでは無い気もする。でも……


「絢香さ……じゃなくて、神崎先輩のお姉さんからは何も聞いてませんか?」

「ん? さっきの事以外は聞いとらんよ。道端で偶然会った時にちょこっと話しただけやし。それに話しかけてきたのは向こうからやったから……って、今考えるとなんか気味悪いな。なんでお姉さんはウチに話しかけてきたんやろ?」

「…………」


 あの人は全部知ってるから。とは言いにくい。

 全てを裏で操って、弟である神崎先輩を守っていただけって言うのも普通ならば信じられないような話だ。

 普通なら……そう、普通なら可笑しい。

 現実世界にそんな事が起き得るのだろうか?

 神崎先輩や、僕、それに和人と香澄の全てが繋がるなんて事があるのだろうか?

 

 昨日の夜、絢香さんに出会って、車の中で話してる時、僕はどんな気持ちだった?


「先輩は、なんで神崎先輩のお姉さんと話そうと思ったんですか?」

「え、ウチ? んー、なんでって言われても。突然久しぶりー愛ちゃん、なんて言われたら驚いて振り向いてしまうやろ? 部活帰りだったし、それに……」

「僕の話になったから、ですか?」

「……せや、な。多分そうやわ。色々考えとったから、なんでも良いから話が聞きたかったんやと思う」


 僕も、知りたかった。

 そこまでの間に与えられたヒントを元にして、どうにかして香澄の浮気が嘘だと信じたかった。

 僕が現れて欲しいと思って人物……絢香さんが、黒幕として登場した。いや、黒幕になってくれた。

 

「先輩、もう少しだけ時間ありますか?」

「あるけど、どうしたん? 今日は病院いかんでええの?」

「行きます。けど、その前にちょっと……」

「どうしたん、そんな怖い顔して? お腹痛い……っちゅう訳でもなさそうやし。でも、涼太くんと一緒におるのはウチも色々と思うところがある訳で……」


 確かにそうだ。

 また僕は自分の事ばかりで千野先輩の気持ちを考えずに行動しようとしてしまった。

 流石に自分の事は自分でやろう。先輩の助言がなくても、僕は思い至るところまで来たはずだ。

 

「そうですよね。ごめんなさい。今までありがとうございました、千野先輩」


 ベンチから立ち上がり、深々と頭を下げた。

 多分これで先輩と関わることも減るだろう。いや、無くなるかもしれない。

 最後の挨拶が、こんな形になってしまって少し心残りだ。


 でも、先輩のおかげで、僕はまた、勇気と覚悟を持って前に進めた気がする。


「うん。またな、涼太くん」


 もう一度頭を下げ、すぐにその場から走り去った。

 最後の、「またな」という言葉に少しだけ励まされながら。


 向かう先は病院ではなく、神崎家……でもなく、長瀬家。

 つまり、僕の家の隣だ。


 絢香さんの言葉が真実か否かを判断できる材料はそこにしかない。

 本人に聞いたところで上手く誤魔化されるに決まっているから。

 

 現実が真実であるかどうか。決めるのは自分自身だと、誰かに言われた事がある。

 信じればどんな現実も真実になり、その逆もまた然り、

 

 でも僕が欲しいのは、確かな真実なのだと、今やっと気づく事ができた。

 


 

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