第32話:最初のわがまま

 肉をナイフで抉られたような、鋭い痛み。静かな銃声と同時に感じたのは、後悔だけではなかった。

 

 眠くて、段々と力が抜けていくのが分かる。血に温かみを感じる暇さえなく、暗闇は僕を誘った。

 深淵に一人送り込まれた僕は、先に見える小さな光に向けて歩を進めた。

 道なのかどうかも分からない。ただ、一点の光は次第に拡大していく。


 香澄にもう一度だけ会いたかった。千野先輩にちゃんと向き合えばよかった。

 父さんと母さんに別れの挨拶さえできなかった。

 そして何より、絢香さんに一矢報いる事ができなかった……


 やり残した様々な後悔。悩んでいただけで、全てが終わってしまったのかと思うと、死んでも死に切れない。 

 そして増幅する目先の光は、僕に自分の本心を教えてくれた。


 僕は、まだ香澄の事が好きだ。香澄が目覚めても、もう目を覚まさなくても、最後まで添い遂げたい。

 フラッシュバックされる香澄との無数の記憶。その中には、勿論別れの日の記憶もある。

 でも、あの日の香澄の目は、やはり悲しそうだった。香澄のお母さんは、僕を哀れんでなどいなかった。


 本質を見極めるのに失敗した僕は、無意識に悲劇のヒロインを演じようとしていたのかもしれない。

 自分が被害者だと思い込む事で、真実から目を背け続けていた。

 その先で見つけたのが、快楽を与えてくれる太陽。僕は、千野先輩をも利用しようとしていた。


 結果論。と言ってしまえば片がつく。でも、僕は常に先輩と香澄を比較していた。

 本当に忘れたいのなら、忘れたのだったら考えなくてもよかった筈なのに……


 思考は止まる事を知らなかった。渦巻く感情のせいで、僕は死ぬ事ができなかったのかも知れない。

 未練があったから死に切れなかった。いや、生かされた。


 辿り着いた巨大な光の先にいる、女神様のように美しい顔をした悪女によって……

 

「おはよう、涼太同胞くん」


 あの光の正体は、見慣れた天井に設置された室内灯だった。

 頭の下には、柔らかい枕も敷かれていて、体には布団が覆いかぶさっている。

 シンプルな青色の寝具。そして、顔を横に向ければ見えるのは使い古した勉強机。

 なんで自室にいるのかが、全くもって理解できなかった。


 体を起こそうとしても、インフルエンザの時のように節々が痛む。

 何より、頬に走る焼けるような痛みと、首全体にかかっている鈍い重さ。

 うまく力が入らず、震える手で頬に触れると、そこには厚手のガーゼが当てられていた。

 首には全くと言っていいほどに感覚がない。自分の首がある事自体に疑問を抱きそうになる、そんな気分だった。


「ぼ…は…一体……」

「死んだと思った? でも、君の命は奪えない。だって篤が悲しむからね」


 ベッドの端に腰掛けている絢香さんが、僕の額に優しくキスをした。

 やはりあれは現実だった。でも、絢香さんは僕を生かした。

 僕が死ぬと神崎先輩が感づいてしまうかも知れないからだろう。

 

「あ…さんは…な…で。僕を?」


 呂律が回らない。首の重さ同様、まるで麻酔の後のような感覚だ……


「まだあんまり解けてないみたいだね。まぁ、後遺症にはならない程度だから気にしないでくれよ。それに頬の傷も。綺麗な顔に傷つけちゃってごめんね。そこまでやる気はなかったんだけど、無性にイライラしてたんだよ。許してね」


 僕の聞いた銃声は本物だったのだろう。サイレンサー越しとはいえ、あれだけの至近距離なら嫌でも聞こえる。

 肉は本当に抉られていたようだ。


「な…で…僕に…た…の?」

「んー、なんて言ってるかよく分かんないけど、大体察しはつくよ。君に色々教えたのはただの気まぐれだよ。それに、君は絶対に他言しない。だって、その事を話したら誰にも都合がよくないだろうしね。特にさっき病院ですれ違った女の子は消さなきゃいけないかもなぁ」

「の…さん…て……すな!」

「分かってるって。君が黙ってればいいだけなんだからさ。それに警察に話そうにも、証拠も何もないだろう? それに下にはお父さんお母さんもいる。君には大切な人が多すぎるんだよ。私みたいに、一人に絞れば楽なのにさ」


 それは執着と言うんじゃないんだろうか。

 僕が香澄の事を想い続けているのと似たようで似ていないモノ。

 拗らせて、他人まで巻き込んでいるただの害でしかない。


「まぁ、もう私が君に会うこともないだろうね。仕事終わったし、そろそろ家業を本格的に継がないといけないんだよ。お父さんがもうダメそうなんだよね。極悪非道の男でも、病には勝てないなんて。全く、人間は脆いこと極まりないと思わないかい? まぁ、唯一気がかりな篤の面倒は他の人が見てくれるからいいんだけどさ。離れるのは嫌だけど、こればっかりはしょうがない」


 段々と小言をつぶやくような口調になった絢香さんは、喋り終えると立ち上がった。

 最大の敵がこんなにも近くにいるのに、僕は何もする事が出来ない。

 文字通り、体も動かなければ、他の手段を持ってして絢香さんを追い詰める事も不可能。

 死んだと思った次に、また無力さを実感するとは。ホント、何も成長できてないんだな、僕は。


 だけど、絢香さんが何を告げてきても、僕の心には響かなかった。

 今自分が何もできないことはもう嫌という程知っている。

 絢香さんに念を押されずとも、僕はこの人に何かをしようとは思っていない。

 いや、思えないのが事実だ。


 力をつければ自ずと道は見えてくる。今は、生かされたことに感謝するくらいでちょうどいいのかも知れない。

 全ては過保護な少女の気まぐれだった。何が本心なのかなんて理解する必要もない。

 ただ、僕は今するべき事をするだけ。


「それじゃあ、この鍵は頑張った君にプレゼントするよ」


 枕の横に置かれた一つの鍵。野田さんに貰った物よりも大きく、しっかりとしている。


「香澄ちゃんの家の鍵さ。あの子の両親からの手紙でね、これを君に渡せって。まぁ、粗方証拠になりそうな物は消しといたから、もうただの大きめな空家だよ。女の子を連れ込むなりして、好きに使ってくれればいいさ。まぁ、二人の女の子に気持ちぶれぶれな男ヘタレに体を売る女なんて、いないかも知れないけどね」


 体を伸ばした後、絢香さんが部屋のドアノブに手をかけた。

 そういえば、野田さんに貰った鍵は香澄の部屋にあるやつって言ってたっけか。

 もしかしたら、それでさえ消されているかも知れないな……


「あやか…さん……最後に……いいですか?」


 時間の経過とともに、舌を動かせるようになってきた。


「なんだい?」

「僕を生かした事……後悔…させます…から。それに、そろそろ……弟離れ、した方がいいですよ」

「全く、生意気な口を聞くようになっちゃって。最初はただの可愛い男の子だと思ったんだけどな〜」


 少し前まで絢香さんの事を信じていたなんて、僕は誰もが納得する間抜けだったに違いない。


「僕も…女神様だと思ったんですけど…ね」

「っぷ。じゃあ私はもう帰るよ。お母さん達も女神様が息子と一緒にいるのは少しだけ嫌だろうしね。それじゃ、頑張って後悔させてくれよ〜」


 バタン、と終始嘲笑を浮かべていた女神様は、僕に最後の別れを告げた。

 体の感覚が戻ってきて、気がつけば唇から血が流れていた。

 無意識に噛んでいたのか。怒りというものは、そう簡単には誤魔化せないらしい。

 でも同時に、何かをするための原動力になるのも確かだ。

 いつか必ず。僕はあの最悪な女神を……


 そう決意したのも束の間、意識は再度暗闇へと放り込まれた。

 死ではなくただの睡眠。次に目を覚ました時にはすでに日差しが窓から差し込んでくる時間帯だった。

 スマホで日付を確認すると、表示されているのはドライブした二日後。

 どうやら丸二日眠っていたようだ。


 頬の痛みは薄れ、体は重いけれど、麻酔で痺れるような気怠さは残っていない。

 一応入念にストレッチをしてから部屋を出ると、母さんがガシャンと何かを割った音が廊下に響き渡った。


 ドンドンドンドン、と慌てて階段を駆け上がってくる足音。その正体は勿論母さんだ。


「涼ちゃん。起きたのね、良かったわ〜。死んじゃったかと思って心配してたのよ〜」

「いや、それはなんだか複雑だよ、母さん……」

「あの夜に神崎くんのお姉さんがいてくれて良かったわね? 涼ちゃん体調崩して倒れちゃったんだもの。学校にも連絡はしてあるから、心配はしないでね。あ、それと……」


 母さんはいつも通りだ。いや、普段より少しお喋りな気もするけど、約三日寝てたんだから、こうなるのも当然か。


「まだ眠ったままだけど、香澄ちゃんが一般病棟に移ったって、病院の先生から連絡があったわよ。後、神崎くんともう一人、愛ちゃんって名前の綺麗な女の子が昨日ウチに来てくれたから、後で連絡しておいてね。いい人たちばかりで、お母さんも色々安心よ」

「先輩が? どうして?」

「ん? ただのお見舞いだと思うけど……」


 神崎先輩だけなら未だしも、千野先輩まで来てくれたのか。

 そう言えば、最後に会ったのは……って、やるべき事があったんだった。


「ごめん母さん、僕今から学校行ってくる」

「ちょっと涼ちゃん、今日は日曜日よ。落ち着いて」

「あ……」


 さっき確認したばかりの日付を、もう忘れかけていた。

 もう少し冷静に行動するようにしないと。でも日曜なら日曜で都合がいい。

 昼過ぎに学校に行けば、千野先輩の部活帰りに会えるかも知れない。

 取り敢えずKINEで送っておこう……


《昨日家に来てくれたと聞きました。寝ていたみたいで、すいません。それと、突然で悪いのですが、今日の部活終わりに会えますか? お話ししたい事があって》


 と躊躇いもなく、先輩を傷つけるであろう誘いを送った。

 再確認すると、現時刻は朝の八時。先輩が部活に向かっている直前あたりだけど……


 そう思っていると、数秒もしない内に既読マークがついた。


《ええよ! ウチも話さなアカンことあるねん。一時ごろに学校で集合な!》


 普段通りの文面。だけど、いつもよりも不吉な気がした。

 先輩が話さなきゃ行けない事……この前の続きか、もしくは……


「じゃ、じゃあ昼頃に香澄のお見舞いに行ってくるね」

「うん! 早く起きてくれるといいわね……」


 目が覚めても、もう自由に歩くことはできなくなってしまう。

 そして親もおらず、親戚もいない。

 香澄を一人ぼっちにさせたくないという思いが、徐々に大きくなっているのは、いい事なのだろうか?

 

 千野先輩には、まだ直接気持ちを表現したことはない。でも、それは言い訳でしかない。

 僕は出来るだけ、募り続ける本心を千野先輩に伝えたい。

 悲しませてしまうかも知れない。でも、それが今一番僕がするべきだと思う事。

 香澄を待つ前に。絢香さんに抗えるような力をつける前に。僕は、楽しい現実を見させてくれた太陽から離れなければならない。


 これが僕の、最後の三つのうち、最初の我儘だ。



 時の進みは僕を後押ししてくれた。緊張や不安を募らせる前に、約束の時間となり、僕は一人で校門前に立っている。

 千野先輩は、大会が終わっても部活動を続けると言っていた。

 継続は力なり、とはよく言ったものだな。最大の長所を伸ばし、独自の力を手に入れるために、先輩は終わりのない努力を続けている。

 僕が辿り着けていない道を歩んでいる先輩は、やはり憧れの存在だ。そう、僕の憧憬なだけ……


「お待たせな、涼太くん!」


 ぼんっと背中を叩かれ、なんとなく懐かしい笑顔に、僕は少し戸惑った。

 考えてきた言葉が全て飛んでしまった。という訳ではなく、先輩を香澄の所へと連れて行くのが辛くなってきた……


「こんにちは千野先輩。この前はなんだか申し訳ありませんでした。家の方は大丈夫なので……ってえ?」


 思わず呆気の取られたような声が出た。

 汗で少しだけ湿ったジャージ。なのに何処と無くいい匂いが顔の真横からする。

 優しく抱擁され、不覚にも赤面しているのが自分でも分かるほどに、顔が熱い。


「涼太くんはやっぱりええ子やね……」

「せ、千野先輩?」

「ウチはそんな涼太くんが大好きや。でも、大っ嫌いや」


 涙声でもなく、ただ冷淡に告げられたのは、矛盾した言葉だった。

 理解が追いつかない。これが先輩の話ってやつなのか?

 いや、でもやはり意味が……


「ホンマ、大っ嫌いやで……」

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