第27話:分岐路

 展望台から降り、昼食のしらすご飯を食べ終えた僕たちは、江ノ島本島の裏側にある岩場へと向かった。

 ゲジゲジのような不気味な虫が大量にいたけど、荘厳な岩場に打ちつけられる波の迫力にしばらく心を奪われた。

 その間に千野先輩はゲジゲジを捕獲しようとしていたけど、見事に失敗に終わっていた。

 ほんと、どこにいても太陽のように明るい人だ。


 岩場から展望台への帰りは一本道。でも、その道には様々な分岐路があった。

 小さな社があったり、恋愛成就を願うための鐘など。

 色々な場所をただ散策していただけなのに、友達と遊園地に遊びに行く以上の楽しみを感じた。


 今日も僕の脳内麻薬は絶賛稼働中。

 そのせいで、過去にあった嫌な事も、楽しい事も全て忘れてしまいそうになる。

 でも、それでもいいと思ってしまう。そっちの方がいいと思ってしまう。

 

 そのお陰で、僕の決意は段々と強固になっていくのが分かる。

 緊張はするけど、早く日が沈んでくれないか、と心の底から願っている。

 きっと、次に行く水族館から出た時には日が暮れ始めるだろう。

 下調べによれば、到着してから三十分後くらいからイルカショーが始まるらしい。

 そして、何よりクラゲの展示が綺麗なんだとか。

 最後の海辺での告白までには、きっといい感じのムードになっているだろう。

 そうならなくても、実行はするつもりだけど……


「涼太くん、こっちでええんか?」

「え、あ、はい。ここを左ですね。ごめんなさい、ぼーっとしてました」


 危うく間違った道を行こうとした僕に、先輩が声をかけてくれた。

 隠しきれない緊張のせいで、何度も何度もプランを確認してしまう。

 その度に上の空だと、そのうち赤信号の横断歩道を渡ってしまいそうだな。


「なんか今日はいつもよりボケーっとしとるけど、どっか悪いんか?」

「いえいえ。そんな事はないですよ。今日のために体調は万全にして来ましたからね」

「そうか? ならええんやけど。でも、なんかあったら直ぐに言ってな」

「もちろんですよ。本当にいつも……」


 ありがとうございます、と言いかけた瞬間に、スマホがブルブルとなり始めた。

 手に取ってみると、ロック画面に表示されているのはセットしていたアラームの終了通知。

 何のアラームだったんだろう……って、イルカショー十五分前のやつじゃないか。


「先輩、ちょっと急ぎましょう。ショーが始まっちゃいます」

「そりゃあかん。走るで!」


 また先輩に手を引かれて進んでいる僕。

 もっと足が速ければ、自信を持って先輩の手を引くことができたんだろう。

 でも今はそれどころじゃない。先輩に走ってもらわないと、普通に間に合わない。


 数分後に到着し、急いで入場券を購入してからイルカショーの会場へと向かった。

 時間で入場制限がかかるギリギリの所で間に合い、息を切らしながら前の方の席に腰掛けた。

 

「いやー、危なかったな。でも間におうてよかったわ」

「先輩が足速いお陰で助かりましたよ。僕なんて足手まといしにかなってませんでした」

「まぁ涼太くんなんかには負けれられへんな。ウチは人生全部懸けてやっとるんやもん。でも、足手纏いなんかじゃあらへんよ」


 僕の冗談じみた自虐も、先輩はすかさずフォローしてくれる。

 そんな優しい先輩に出会えた事を感謝していると、スウェットスーツを着たお姉さんが壇上に登場した。

 お姉さんは軽く自己紹介を終えると、まずはアシカとの一芸を披露した。


 笛の音に合わせて頷いたり、くるんと回転して愛想を振りまいている。

 なにも考えずに見ると、とても賢くて、お姉さんとの信頼関係があるように思える。

 でも、それは餌の魚目当ての行動だ。アシカが本当に望んでいるのは、お姉さんからの信頼でもなく、お客さんの歓声でもない。

 ただ、毎日餌をくれるトレーナーの人に媚を売っているだけ。


 そう考えると、本当に凄いのはアシカに思い通りに行動させているお姉さんなんじゃないだろうか。

 

「見て見て涼太くん、あのアシカ手パタパタやっとるで!」


 先輩の無邪気な言葉を聞くと、自分が今していた邪推に羞恥する。

 こんな事を考えてしまうのは、きっと誤魔化しきれていない違和感に対する不安のせいだろう。

 昔香澄と違う水族館に行った時は、素直にアシカの芸を見ていた気がするし……

 何だかいらない部分が成長してしまったような、後悔にも似た気分に襲われる。

 物事の裏側を知りたがる欲求の表れなんだろうけど、現実を見つめ続けるには邪魔でしかない。

 

「あ、次は鯱が出てきましたよ。って何だかこっちに近づいて来るような……」


 ショーが進むに連れて、盛り上がりを見せる会場。

 目玉として登場したイルカと鯱が、観客席側にだんだんと近づいてくる。

 そして、お姉さんがなにやら水面に手を当てて合図をすると、大きな尾ひれを水面に思いっきり叩きつけ、偽りの雨を降らせた。


「わぁっ。ビショビショや。でもおもろいな」


 あはは、と笑って楽しんでいる千野先輩。その笑顔は見たかったけど、水に濡れてやや透けている下着が僕の視線をブロックする。

 長袖の上着を持ってきていれば、先輩に貸してあげられたのに。


 でも先輩は、浮き出ている白色の下着の事など気にせずに、ただショーを見続けていた。

 僕もできる限りショーに集中した。でも、たまにチラ見してしまうのは仕方がない。ダメだけど、どうしようもない事だ。

 

 その後も迫り来る海の哺乳類たちによって、僕らはかなりびしょ濡れになった。

 屋根の隙間から差し込んでくる陽の光がとてもありがたい。

 沈み始めているからこそ、その日光は僕らを温めてくれる。

 そして同時に、刻々と歩み寄ってくる、一本道の終点を僕に再認識させた。


 濡れた事以外は特に何の問題もなく、三十分程のショーは終了した。

 この後はクラゲを見に行く予定だったけど、この格好だと冷えてしまうだろう。

 水族館内はかなり冷房が効いているし、これだったら浜辺で時間を過ごした方がいいかもしれないな。

 雰囲気の流れ的には、あまり望ましくないけど。


「楽しかったですね。先輩はどうでしたか?」

「おもろかったで! ウチもあんな風に慕ってくれる仲間がいればええのに、って思ってしまうよ。お姉さん楽しそうやったしね」


 さっきの自分への恥じらいが、千野先輩に無意識に掘り返された。

 

「そ、そうですね。それで、この後はどうしましょうか? 予定では館内を周るはずだったんですけど、濡れちゃったし、きっと寒いですよね?」

「そんなん気にせんでええって。せっかく涼太くんが考えてくれたんやもん。ちゃんと全部周るで!」


 本当はここで紳士的に断った方がいいのかもしれない。

 でも、何となく甘えたくなってしまう。


「じゃあなるべく早く周りましょうか。風邪引いたら大変ですからね」

「涼太くんはたまにどっかのオカンみたいな事言いはるな。でも、ウチはそういうの嫌いじゃないで」

「それは何と言ったらいいのか……あはは」


 嬉しいけど、何だか喜ぶのも間違っているような気がした。

 オカンではないけど、一応売っていたタオルを買って、体を拭いてから館内へと入った。

 時刻はもう夕暮れ時。ここまで予定通りに事が運ぶと、何だか逆に気味が悪い。

 まぁ結構時間かけて練ったプランだったし、努力が報われたのかな。


 水族館内は、かなり暗く、一つ一つの水槽がかなり丁寧に展示してあった。

 今回の目的であるクラゲまでの道のりはまだ長い。そして、先輩はそこに辿り着く前に色々な魚類に引っかかっていた。


「これなんか美味そうやな。刺身にして食いたいわ」

「それは流石にアレですよ、先輩」

「冗談や冗談。でも、食べられんのにただ閉じ込められるってのも可愛そうやね。せめてウチが美味しくいただいて、そのまま天国に行ってもらった方がええな」


 冗談なのか本気なのか。先輩は僕の困惑した顔を見て楽しんでいる。

 こういう部分は神崎先輩そっくりなんだよな。


「きっと魚たちも生きていた方が幸せですよ。多分ですけどね」

「うーん、そうなんかなぁ? でも、もし涼太くんが部屋に閉じ込められたままご飯だけ食べさせてもらってたら、嫌やろ?」

「……確かに、そうかもしれませんね」

「そんな真剣に考えとかんといて。全く、涼太くんは真面目さんなんやから。ウチが困らせてる厄介者みたいになってまうやろ?」

「いやー、すいません。多分もう癖なんでしょうね。でも先輩は厄介者なんかじゃないですから、安心してください」


 すると先輩は少しそっぽを向いて、呟いた。


「そーゆーとこが真面目なんや。全く」


 機嫌を損ねたのか、はたまたただ僕をからかっているだけなのか。

 選択肢のない僕は、ただ先輩の手を取って、クラゲの展示場へと向かうしかなかった。


「真面目でも、嫌いにならないでくださいね?」

「……しゃーないな」


 暗がりでよく見えないまま、さらなる暗闇が広がるクラゲの展示場へと足を進める。

 先輩の手はかなり冷たい。やっぱり、体が冷えてるんだろう。

  

 でも、そんな肌寒さをも払拭する程の幻想的な光が、目的地には広がっていた。

 前に香澄と来た水族館よりも数倍綺麗だ。千野先輩と一緒だからそう見えるのではなく、本当に、神秘的な光景だった。

 

 しばらく目を奪われていると、先輩が唐突に呟いた。


「なんか、お月様がいっぱいあるみたいやね」

「月、ですか? 星じゃなくて?」

「そう言われればそうかもな。でもなんでか分からんけど、最初はお月様みたいに見えたよ。クラゲが動くたびに形が変わって、その、なんていうんやろうな。こういうの説明すんのはウチ苦手や」


 静かに苦笑いを浮かべた先輩に、僕はかける言葉を失った。

 何の因果か、香澄はクラゲを太陽みたいだと言っていた。

 そして理由は同じくよく分からないらしい。

  

 肌寒さ以外の悪寒に一瞬襲われたけど、やはりここまで来てよかった。

 普段明るくて告白できる隙なんて見当たらない先輩に、少しだけ突破口が見えたような気がした。

 僕からすると、星のように見えるクラゲが、偽物の夜空の中で僕を導いてくれたんだろう。

 やっと、運命のゴールに辿り着ける。ここからゆっくり歩いて外に出れば、最後に待っているのは静かな漣と人気のないビーチの一角。


「そろそろ寒くなってきたので行きましょうか?」

「そうやね。連れてきてくれてありがとな、涼太くん」


 まだ終わっていないのに、その言葉は別れの挨拶のように聞こえた。

 でもそれで普通だろう。先輩は、花ちゃんのために夜遅くなる前に帰らなくちゃいけないらしいし、この先の予定はまだ伝えていない。

 

 それを伝えるためにも、落ち着いた歩調で水族館を後にし、夕日が海に反射して赤く染まった空間へと出てきた。

 

「いやー、楽しかったなぁ。また来れるといいな!」

「そうですね。でも、最後に浜辺に寄って行ってもいいですか?」

「ん? ええよ」


 なるべく平静を装い、数分歩いて浜辺へと降りた。

 隣を歩いている千野先輩は気づいていないんだろうか。

 気づかれない方がいいけど、僕だけこんなに緊張しているのは何だか虚しい。


 波の音も静かで、人ももう少ない。

 鳴り響いているのは僕の心臓音だけ。

 これが聞こえてしまったらどうしよう。そんな事を無意識に考えてしまう僕の歩行速度は、無意識に上がっていった。


 そして完全に人気のない一角。そこに千野先輩よりも少しだけ早く到着した僕は、両手を強く握りしめて、一人静かに決意を固めた。


「どうしたん、涼太くん? もう帰るんか?」


 その声に応じるように、僕は振り返った。

 平気な顔をしているんだろうと思っていた先輩の顔も、少しだけ紅潮している。

 流石に分かってしまうものか。それなら気が楽になりそうだけど、逆に言いづらい。


 ただ、少し距離を開けて見つめあったまま、波の音が虚しく響き続けた。


 もう言わないと。そう、言うって決めたんだ。

 今言わないと、手遅れになってしまうかもしれない。

 何たって、絶対はこの世に存在しない。

 先輩の気持ちが分かっていても、それが百パーセントと言う保証がどこにもない。

 僕の気持ちを伝えて、望んだ答えをくれる確証もない。

 

 でも、この行き止まりが、僕のゴールの筈だ。

 やっとここまで来たんだから。最後くらい自分の力で乗り越えたい。


「せ、先輩!」

「……あぁい⁉︎」


 困惑して、意味のわからない返事をしてきた先輩に、僕はこの想いを伝える。


「僕は、先輩が……」


ブルブルブルブルブルブルブルブルブル


 その悪魔の着信音は、僕の決意を遮った。

 メッセージの通知じゃない。KINEの呼び出し音ではなく、普通の電話の呼び出し音。

 無情にも鳴り響くその音に、僕ら二人は呆気に取られてしまった。

 

「すいません、切ります……」

「ええって。出て。もしかしたら重要かも分からへんやろ?」


 これがもし健斗のイタ電だったら、今度仕返しを……って、母さん⁉︎

 電話してくるなんて珍しい。それに遊びに行くときは特に何も掛けてこない筈なのに。


「母さんみたいです。ちょっと出ますね」


 電話の先からの声は、まるでスピーカーホンにしているかのように大きく、そして誰からでも聞こえた。それは勿論千野先輩にも。


「涼ちゃん。大変なの。早く帰ってきて」

「どうしたの母さん?」

「いいから早く帰ってきて。お母さんは先に出てるから、駅に着いたらお父さんが車で待ってるから。とにかく急いで!」

「ちょっと、事情くらい説明して……」


 プツっとそこで電話が途切れた。

 こんなに焦ってる母さんは初めてかもしれない。

 そして僕は、居ても立っても居られない気持ちになった。


「涼太くん、急がな!」

 

 僕の言葉を待っていたであろう千野先輩は、僕よりも必死な形相を浮かべて、僕の手を掴んだ。


「で、でも……」

「なに躊躇っとんねん! お母ちゃんが大変なんやろ? いいから行くで」


 母親が心配。それは千野先輩が最も気にすることだろう。

 そして僕も、母さんの異常事態に冷や汗が止まらない。

 

 違和感を見て見ぬ振りをしていたせいだろうか。

 知らなくていい事を知っていれば、防げたんじゃないだろうか。


 まだ何も事情を知らないのに、自然と後悔の波が心の底から押し寄せてくる。

 僕は一体、何を見落としていたんだ。

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