第25話:物事の順位
夏祭りの後は、いつも通りの平穏な日々が続いた。
あの日の愉悦感も、あまり実感のないものになってくる。
たまに香澄に家の前で遭遇した時に、ふと思い返すくらいだ。
形があるかないか曖昧な報復は、だけども僕の気持ちを軽くしてくれているのは確かだ。
部活はほとんど毎日あり、休みはお盆くらいだった。
去年よりも休日が少なかったのは、普段以上にやる気を出している神崎先輩が原因だろう。
夏祭りの次の日から、神崎先輩は休む事なく部活に顔を出した。
でも、雰囲気は少し違った。
いつもは練習中に他の部員に話しかけるような感じなのに、先輩はただ黙々と練習をしていた。
部活内で練習試合をする時も、プレーが荒くなる時があったり、いつも以上に個人プレーが目立つようになった。
健斗も、神崎先輩の放つ威圧的な空気に驚かされることがあったみたいで、度々僕に「何かあったのか?」と聞いてくる。
多分理由はあの事なんだろうけど、僕の口から話していい事柄じゃない。
そして何より、違和感が一つだけあった。
健斗と神崎先輩の二人が、僕が千野先輩と話していても、からかってこなくなった。
邪魔が入らずに話せるからいいんだけど、それでも違和感は違和感だ。
でもそれは、夏休み前に感じたモノとは少し違うような気がした。
そして、募り続ける千野先輩への想いと、不穏な空気が僕の中でぶつかり合い、長い長い夏休みは一瞬にして無くなっていく。
最近どうも時間の流れが早い。
まるで僕が、望んでいない何かに近づいているかのような、不気味な雰囲気だ。
それでも、僕は一本道を進み続けている。そして、その先に待っているのは太陽。
こう思うと、まるで僕が間違った道を進んでいるかのような錯覚に襲われるけど、そんな事はある訳がない。
今もこうして、陸上大会の会場に足を運んでいる僕は、とても幸せなんだから。
夏休み終了一週間前の週末。残す所、後八日。
でも、最後の一週間が一番楽しみだ。
大会が終われば、千野先輩と二人で遊びに行ける。
そして、僕の気持ちをやっと伝えられる。
大会の会場は、電車で三十分ほど離れた場所にあった。
選手らしき人たちは、陸上のユニフォームではなくジャージを着ていた。
うちの高校のジャージを着た集団は見当たらないし、多分もう準備を始めているんだろう。
会場への入場料は基本的に無料。でも、競技の順番が書かれたプログラムは五百円ほどした。
選手用の出入り口は比較的空いているのに比べ、観客席はかなり混雑していた。
先輩から聞いた話では、この大会は初戦なのに県大会なんだとか。
競技人口が多く、全員一気に集めてやるらしい。それでも、横浜周辺の地域のみだけど。
運よく二階席の一番前に空席を発見し、そこに腰掛けた。
というより、前の方の席は陽が当たるから人気がないようだ。
僕の隣に座っている大きな男の人も、かなり汗をかいている……って、山内先輩⁉︎
「あ、あの、山内先輩ですか?」
同じバスケ部で、いつも飯島先輩のお守りをしている巨漢の山内一真先輩が偶然にも隣に座っていた。
「ん? あぁ、山田か。お前も誰かの応援に来たのか?」
「僕は千野先輩の応援に来たんですけど、山内先輩は、飯島先輩ですか?」
「まぁな。あいつが来いってうるさかったから、仕方なく、な」
二人はてっきり付き合っているかと思っていたけど、飯島先輩の片想いなのかな?
それにしても山内先輩と二人で話すのも久しぶりだな。
そんな事を考えていた僕に、山内先輩が唐突な質問をしてきた。
「山田は千野と付き合ってるのか?」
「え、僕ですか⁉︎ そ、それは、その……付き合っては、いません」
「それは意外だな。千野はお前に初めて会った時から、いつもお前の話ばかりしてるからな。てっきり、結構前から付き合ってるもなかのかと思ってたぞ」
なんか色々ネタバレしちゃってるけど、山内先輩は無意識なんだろう。
そういう人だってことだけは良く知っている。
「それは、なんと言いますか、嬉しいですね」
でも僕は、赤裸々な発言に苦笑いを浮かべることしかできなかった。
からかわれている訳でもなく、ただただ率直な言葉。一番反応が難しいやつだ。
話すことがもう無くなった僕たちの所に、ポニーテールの幼女と千野先輩がやって来た。
飯島先輩は、大会の時は流石にツインテールではないみたいだ。
「あー! 一真! 来てくれてありがと。それに、涼太くんも……ってあぁ、愛ちゃんね」
飯島先輩の元気な声に、山内先輩は無表情で会釈しただけだった。
そして千野先輩は、いつも通りの笑顔と一緒に、軽く手を振ってくれた。
その反対側の手には、陸上のスパイクが入った袋が握られている。
紐の部分には……僕があげたニャンコと四つ葉のクローバーのストラップが付いていた。
「千野先輩、それって……」
「見せてへんかったっけ? あれからここに大事に付けとるんよ。そのおかげで怪我もないし、あのお祭りの後から調子上がってきたし。やけん、今日は期待しててな」
「頑張ってくださいね。応援してます」
「もちのろんや。あと、予選は午前中なんやけど、決勝は午後からやから、お昼休みになったらまたここ来るな?」
「分かりました。じゃあまた後で」
最後に笑顔とピースサインを残して、飯島先輩とともに去っていった。
決勝まで勝ち上がるのが余裕だと言わんばかりの態度。
やはり、千野先輩はすごい人だ。
容姿端麗でスポーツ万能。僕みたいな平凡な男と釣り合っているとはとても思えない。
でも、千野先輩はそれでもいいと言ってくれた。
僕が知らないところで、励みになっていると教えてくれた。
香澄と付き合っていた時だって、周囲の反応も僕が密かに感じていた格差も、今と大差なかった。
だったら、あまり気にしなくてもいいかもな。
恋愛感情は形や地位なんかよりも余程大きくて、全てを埋め尽くすモノ。
テレビで誰かが、脳内麻薬とか言っていたけど、それは本当なのかも知れない。
何もかもを後回しにしてでも、それを掴み取りたいと僕は心の底から思っている。
隣で無表情で座っている山内先輩にも、きっと同じような感情があるのだろう。
会場のざわめきの中でも、ひっそりと成長し続けている特定の個人に対する想い。
口に出さなければ、行動で示さなければ決して他人に伝わる事はない。
そして、自覚するまでは、自分自身でさえも本質を理解できない。
さっき飯島先輩の頭を撫でていた山内先輩の表情は、何処と無く嬉しそうだった。
こんな感じに、自分よりも他人の方が早く気がつく事もある。
僕だって、千野先輩に対する想いは、健斗たちにからかわれていなかったら早期に知ることはなかった。
でもそれは、決して他人に言われたから好きになったんじゃない。
最終的に決断するのは自分だ。
幸せになるのも、後悔するのも全ては自分次第。
そして僕の選択肢は今、百メートル走のスタート地点でスタブロをセットしている。
千野先輩は今緊張しているのだろうか?
それとも、他人と競争するのを心から楽しんでいるのだろうか?
どちらにせよ、僕に出来ることは一つしかない。
「千野せんぱーい! 頑張ってくださーい!」
聞こえる筈はない。それでも、叫ばずにはいられない。応援せずにはいられない。
言葉にして、行動にしないと、その気持ちでさえ伝わらないのだから。
先輩は、僕が精一杯応援している姿を見て、軽く手を振ってくれた。
言葉で伝わらなかったけど、行動で伝わった。
そして、僕の期待への返事は、強者の笑顔だった。
「ON YOUR MARK」
周囲の歓声が一気に静まり帰った。
先輩から事前に伝えられていた、陸上大会でのマナー。
千野先輩だけでなく、他の選手一人一人の緊張が伝わってくる、緊迫した雰囲気。
「GET SET」
自分の決めた道へ、真っ直ぐと走るための姿勢をとる選手たち。
そして合図が鳴らされた。
バンッ。
その雷管の爆発音が、彼女達を前に進ませた。
始まるのは、十三秒にも満たない接戦。
そして、千野先輩は始まりから一つ、いや、二つ以上頭抜きん出て風に乗った。
僕も必死に声を上げて応援するも、それよりも速く先輩はゴールラインを切った。
表示されているタイムは十一秒台後半。
僕には基準が分からないからなんとも言えないけど、僕の何倍も速いんだろう。
ゴール地点で深く頭を下げた千野先輩は、後輩の女の子から靴を受け取り、直ぐに観客席に上がってきた。
ここは選手達の通路でもある。だから、決して僕の方に向かってきたわけじゃなかったけど、自分から先輩の方に行くことにした。
僕の姿を見ると、先輩は先ほどのような明るいピースサインを見せてくれた。
「お疲れ様でした。一位だなんて、やっぱり先輩は凄いですね」
「そりゃ予選やもん。だいたいこんなもんや。でも、応援してくれてありがとな。ちゃんと聞こえとったで」
「え、本当ですか? でも走ってる途中じゃ……」
「っぷ。冗談やって。全く涼太くんは相変わらずやなぁ」
情けなくもいつも通りにからかわれた僕は、自分に向けて苦笑いを浮かべた。
「もう午前中は出るもんないからさ、ちょっと早いけどお昼にしよか?」
「そうですね。僕、お弁当持ってきたんですよ? よかったらどうですか?」
と言ったと同時に、荷物を席に忘れてきたことに気が付いた。
「なんやそれ。そりゃ女の仕事とちゃうん? あ、もしかして涼太くんはソッチ系なんか?」
「ち、違いますよ。僕にはちゃんと好きな人が……」
勢い余って余計なことを口にしそうになった。
今、先輩は陸上に集中しなきゃいけない時だから、僕の想いを伝えるなんて無粋な真似はできない。
「そ、そうか。涼太くんもちゃんと男の子やもんな」
先輩が赤面する様子も見て、僕も異様な恥ずかしさに襲われた。
嫌じゃない羞恥。どちらかというと、幸せな気分になれる。
「じゃ、じゃあ僕は荷物取ってきます……」
「ちゃうやろ、ウチがそっち行く話になっとったやんか」
「そう言えば、そうでしたね……あはは」
動揺していて、ダメだ。まともに頭が働いていない。
きっと脳内麻薬のせいだろう。
「じゃあ待っとってな。直ぐ戻るから」
走ったばかりで疲労しているだろうに、先輩は駆け足で荷物を取りに向かってくれた。
そして、僕が歩いて席に戻った数分後に、千野先輩は小さな手提げを持って走ってきた。
そんなに焦らなくてもいいのに。
「走らなくても時間はありますよ?」
「ええからええから。はよご飯にしよ。話したいこともあるし」
山内先輩は飯島先輩の所に行っていて今はいない。
その空いた席に千野先輩が腰掛けた。
でも話したいことってなんだろう。
「この前、お祭りの時に遊びに行こうて話してやん? それ来週でも大丈夫か?」
「来週って、それだともう夏休み終わっちゃいますよ?」
「三十日ならまだ夏休みやろ? ウチ、いっぺんおばあちゃん家行かんとあかんのよ。部活でいそがしかったやろ? やけんお母ちゃんが行け言うてな。三十日は忙しいか?」
「空いてると思いますよ。と言うより空けておきますね。どこに行きますか?」
「んー、この辺はもう嫌やし、神奈川で行ったことないっちゅうたら……あ! 江ノ島や!」
江ノ島か。僕もあんまり行った事ないんだよな。
あそこにも水族館なんかが色々あるし、大丈夫かな。
「僕もあんまり行った事ないんですけど、別にいいですよ。じゃあ江ノ島に……」
ん、三十日?
そう言えば三十日は香澄の誕生日だったっけか?
まぁどうでもいいか。きっと何も知らないまま和人と過ごすんだろう。
「大丈夫か? やっぱ嫌か?」
一瞬意識がそれた僕の顔を覗き込むように、先輩が顔を近づけてきた。
普通でもドキっとしてしまうのに、不意打ちだと……
「だ、大丈夫ですよ。江ノ島、行きましょう。色々調べておきますね」
「ホンマ! ありがとな、涼太くん!」
赤くなった顔を隠す必要もない程に、先輩は喜んでいた。
その後は雑談しながら昼食を終え、先輩は準備に向かった。
そして、決勝までの待ち時間は本当に一瞬だった。
選手で走るわけでもない僕は、今から参加するかのように緊張している。
何かをしたいけど、スタブロをセットした先輩を、ただただ遠目で見守る事しかできない。
予選では手を振ってくれた先輩も、決勝では終始下を向き、全神経を研ぎ澄ませて最終レースに臨んでいる。
あんなに大勢いた選手の中から、たった八人しか出られないこの決勝。
僕があの場に立っていたら、きっとビリでも大喜びだろう。
でも、先輩が狙っているのはもっと上。頂点だ。
先輩ならやってくれると、僕は信じている。
でも、先輩はなんとなく自信がないみたいだった。
昼食後、去り際に、「ダメかもしれん」と弱音をはいていた。
一位を狙わなければ、そんなに重たく捉える事もないんだろう。
僕のように、競走ごとが苦手なヘタレには、先輩の気持ちは一生理解できないかもしれない。
「ON YOUR MARK」
「GET SET」
バンっ、と先ほどよりも静まり返る会場の中、八人のファイナリストがブロックを蹴った。
最初にリードしていたのは千野先輩。
でも、段々と隣の人に追いつかれていった。
二人の接戦。
そして、十数秒の戦いで、二人は同時にゴールしたように見えた。
でも、そんな事はありえない。
必ずどちらかが負けている。
それが勝負の世界。勝つ覚悟も、負ける覚悟も持たなければ参加できない、天上の戦い。
そして、会場アナウンスが流れた。
「ビデオ判定の結果、ただいまのレースの一着は……」
結果を聞いた僕は、観客席からトラックへと続く階段を、無意識に降り始めていた。
その先にいるのは、同時にゴールした女の子と軽い握手を交わしている千野先輩の逞しい姿。
そして、僕に気づかないまま選手用の出入り口から走り去っていった先輩。
でもそれは、僕の足の速さでも追いつける程に疲労し、弱った脚力による走り。
特に困る事もなく、会場のすぐ外で先輩の肩を捕らえた。
でも、何も言葉をかけられない。
振り向いた先輩の綺麗な瞳には、皮肉にもその美しさをより一層引き立てる湖が出来上がっている。
そして、同じ立場にいるでもなく、根本から勝負師の心情を理解していない僕には、言葉を発する権利はなかった。
自分の胸の中で疼くまっている、華奢な少女の体を包み込む事しかできない。
「涼太くん。負けてもうた……」
何を言えばいいんだろうか。
僕が同じ立場だったら、悲しい事があったらなんて声をかけて欲しいだろうか。
「二位なんて、一番最悪や……」
二位はダメじゃない。でも、そう言ってしまうと先輩を否定することになる。
「あんなに頑張ったのに……」
そう言いながら、先輩は僕の服で鼻をかみ始めた。
そして、何故だか小さな笑い声が聞こえる。
「やっぱり涼太くんは優しいな」
さっきまでとは違う、いつもと同じような明るい声と共に、先輩が顔をあげた。
まだ涙は残っている。でも、偽物じゃない笑顔が、本物の太陽がそこにはあった。
「え、えーと、大丈夫、ですか?」
「全く、涼太くんは困りすぎや。言ったことは本気やったけど、涼太くんにどうかしてくれなんて言えるわけないやろ? でも、来てくれるっておもっとったよ。ありがとな」
そして、最後の涙を拭い、先輩は僕の胸部を直視した。
「それにしてもそれ、ごめんな。後でウチのジャージ貸したるから、それまで我慢してな?」
僕はまだ、状況の理解ができていなかった。
先輩は悔しがっていた。本気で泣いていた。
でも、今は笑顔だ。そして、僕のシャツについた先輩の鼻水を見て笑っている。
「は、はい。分かりました」
と、よく分からないまま返事をした僕の足は、勝手に進んでいた。
先輩の手が僕の手に重なり、またいつものように引っ張られている。
「そんな間抜けやと転ぶで? ちゃんと歩幅合わせなあかんよ」
先輩は自分で悲しみを乗り越えた。
僕にはできない決断ができる、何よりの証拠。
いつになったら、僕は先輩と歩調を合わせられるようになるんだろうか?
そんな相手に、自分の愛を告白してもいいんだろうか?
いや、それとこれとは違う問題か。
「そうですね。なるべく頑張ります」
「なんやそれ。全く涼太くんには、いつも調子狂わされるわ。まぁそれも楽しいんやけどね」
小走りをして、先輩の横まで行くと、何も変わらないはずなのに違う世界が見えたような気がした。
服に鼻水がついていても、ヘタレでも先輩の隣にいてもいい。
自分が決断したことに、初めて自信が持てたかもしれないな。
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