土塊の怪 2

(しくったな……)


 荒い息をつきながら、廊下の隅でかずいが身を潜めていた。

 隣には緊張した面持ちの絢香がいる。

 先程まで彼らがいた生徒会室から、携帯の着信音が鳴っているのが微かに聞こえている。慌てて落としてしまい、それきり回収できていなかった。


 たーん、たーん。


 その音色に混じり、廊下の奥で、床や壁を打つ不規則な音が聞こえる。近づき、遠ざかり、こちらに出方を伺わせないつもりのようだった。

(こういう事態を避けるために、二人で行動していたはずなんだけどな……)

 今日はやることが尽く裏目に出る。

 恐らく今頃、藍が能力で声を送っているのだろうが、教室からこれだけ離れてしまえば流石に範囲外だろう。かずいの頭の中に、幼馴染の念話は届いてこない。


 かずいの袖の端を握る綾香の手が、その力を強くしたのが分かった。

「日野先輩。やっぱりわた――」

「いや。今そういうのいいから」

「っ……」


 私が時間を稼ぎますから、その隙に……と言いかけた綾香の台詞を強引に遮って、かずいが面倒くさそうに後輩の女子に向き合う。

「君が今飛び出していれば、十五秒後にやられてた。その三秒後に俺の番だ。悪いが、俺の運動神経だと君に稼げる時間ぐらいじゃ逃げ切れない」

 視線を微妙に外しながら、何でもないことのように言う。


「そんなの――」

「わかるさ。そういう能力なんだ」

 未来予知。その希少能力の存在を、改めて目の当たりにした綾香の胸中に何とも言えない複雑な感情が入り混じる。

 馬鹿にするな。というか、自分の運動音痴を自慢げに語るな。一応『男』で『先輩』だろ!


 しかし、遺憾極まることながら、確かに自分の力だけでこの状況を切り抜けられるようには思えなかった。


 言い訳はしたくないが、自分の能力の生命線である文房具を、今はほとんど持っていないのだ。

 せめてテープ類があれば防御線を張れるのだが、今手元にあるのは消しゴムとシャープペンが二本だけ。

 これで、あの素早く動き回る敵を制することができるだろうか。


 服の端についた土汚れを叩き、綾香は唇を噛んで視線を下げる。

(こんな時、巽先輩がいてくれたら……)

 情けなさに思わず湧き上がりそうになる涙を必死に堪える綾香の様子を気にしているのかいないのか、かずいはやはり、感情の伺えない平坦な声で言う。


「このままじゃ逃げ切れない。戦う気があるなら、協力してくれ」

 その声に、綾香ははっと顔を上げた。

 その、虚ろな表情から発される言葉には、何か不可思議な『力』があった。


「……はい」

 そして、自分でも意外なほどすんなりと、綾香は頷いていたのだった。


 ◇


 数分後、絢香の頭には、驚きと猜疑心が綯い交ぜになっていた。

(この人、本当に何者なの?)

 かずいから伝えられた作戦を、何度もシミュレートする。

 机上においては、完璧と言っていい。成功するか否かは、全て絢香の両手にかかっていた。


「あと十五秒だ」

 感情の篭らない声で、かずいが囁く。

「……はい」

「大丈夫か」 

「やってみます」

 絢香の手に、冷や汗が滲む。


 たーん。たーん。


「カウントするぞ。五、四、三――」

 バウンド音が、一際近くで響いた。


「二」

 だん。だん。


「一」

 ずん。


「0!」

「やぁ!」


 かずいたちの隠れていた防火扉から、六メートル程離れた廊下の壁。

 その暗闇に懐中電灯の明かりが咲くのと、その光にサッカーボール大の影が重なるのは同時だった。

 がしゃん!

 そしてその影の脇を、二メートルはあろうかという巨大なシャープペンが射抜いたのも。

 シャープペンのクリップには、白いロープのようなものが巻きついていた。ロープは絢香の手元に伸びている。

 硬質な音を響かせた壁から、影が離れたのが見えた。


「外しました!」

「二歩先! 右下!」

「はいっ!」


 そして次の瞬間。

 再びライトが照らした床に丸い影が重なり。

 ずん。

 地響きのような音をあげて、それを白い壁が叩き潰した。


 暗闇の中、ライトに照らされた空気に埃が舞うのが見える。

 耳鳴りのように残響が漂う以外、音はなかった。

「仕留めた……んで、しょうか」

 廊下を覆い尽くす程巨大化した消しゴムに手を置きながら、恐る恐る絢香が言う。


「ゆっくり小さくしてくれ」

 じわじわと、消しゴムが縮んでいく。

 かずいは数秒先の未来を覗き、このまま小さくし続けても何も起こらない事を確認した。

「もういいぞ」

 消しゴムが一気に縮み、絢香の手の中に収まった。


 そこには、植木鉢を引っくり返したように、灰色の土が散乱しているだけだった。


「………っはあぁぁぁ〜〜〜」

 全身を脱力させた絢香が、床にへたりこんだ。


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