土塊の怪 1
夜の中庭に咲き乱れる紅蓮の豪火を、藍は教室から呆然と眺めていた。
蓮の一際大きな一撃を受けた髪の毛の中心は内部から大爆発を起こし四散すると、無数の小さな火花を散らしながら、やがて闇に溶けて見えなくなった。
(すごい……)
最近は蓮が闘う時といえば、生徒会長との一騎打ちが殆どだった。実力が伯仲している彼らの闘いに見慣れていたせいで、すっかり忘れていた。
他者を寄せ付けない、圧倒的な暴力。
これが、『問題児』の力。
成程、必要なのはスペースだったのだ。確かに、ここであれだけの戦闘が繰り広げられたら、間違いなく教室は壊滅する。
藍の隣には、退屈そうな目で外を眺める響がいた。眉一つ動かさず、最低限の手助けをしただけで、彼はそれきり傍観者に徹していた。
(私、余計なことしちゃったかしら……)
先ほど、空中を飛び回る蓮から隠れるように地面を這っていた一本の触手が、中庭の花壇から煉瓦を掴み上げたのを見て、藍は咄嗟に能力で声を送ったのだ。
しかし、果たして本当に自分の助けが本当に必要だっただろうか……。
それにしても、さっきは危なかった。
かずいの警告があと数秒遅ければ、藍はあの髪の毛に絞め殺されていたかもしれない。藍にあれを引きちぎる力はないし、蓮だって、内側から爆発させなければ拘束を解けなかった。自分があれを食らっていたら、外側から助けてもらうことは出来なかっただろう。
その想像は、藍の背筋をじっとりとした冷感で侵した。
結局、あの髪の毛は何だったのだろう。
まさか、本当に化け物?
もし能力者の仕業だとしたら、明らかに『肉』の能力だ。しかし、そういう能力者はこの学校にはいないと、先程蓮が言っていたではないか。いや、カツラの髪の毛を操ったのだから、『山』になるのだろうか。それとも、『森』?
駄目だ。
自分がいくら考えたって分かるはずがない。
とにかくかずいに連絡を……と、そこまで考えて、藍は思考伝達がいつの間にか切れていることに気付いた。先程パニックを起こした拍子に、無意識に解いてしまったのだろうか。
――かずい? ごめん。今久城君が、髪の毛のお化けを……
改めて思考を繋ぎ直すために声を送った次の瞬間で、藍の顔色が変わった。
繋がらない。
――ちょっと、かずい。かずい!?
いくら声を送っても、かずいからの返事がない。
慌てて携帯を操作し着信をかけるが、コール音が空しく鳴り続けるだけだった。
(どうしたのよ、かずい……)
悪寒が背筋を這い廻る。
窓の外から、ジェット音と共に蓮が近づいてくるのが見えた。
◇
数分前。
藍からの最初の電話を受け取った時、実のところ、かずいには今宵の事態の大凡の概要は掴めていた。絢香と藍の捜し物が失くなっていることは予想外ではあったものの、その理由にも見当がついた。
問題は、どう収集をつけるか。
迎え得る未来はいくつかあるが、このままでは次善策に落ち着くしかなさそうだった。
最善手を取るには、どうにかして二人の『問題児』の力を借りる必要があるが、藍に聞く限り、教室でカツラを見つけた彼らは露骨にテンションを下げてしまったようだ。このままでは普通に頼んで動いてくれるとも思われない。
さあ、どうする。
かずいの脳内で天秤が揺れた。
自分が守るべきものは何か。
それを守るための手順は。
失敗は許されない。
とにかく、詳しい情報を集めなければ。
そう思ったかずいは、教室に落ちていたという証拠品について、あれやこれやと藍に訊ねた。しかし、途中で向こうが焦れったくなってしまったらしく、能力で映像を送るから、と、通話を切られてしまった。
仕方なしにかずいが目を閉じると、その瞼の裏には、数秒先の未来、今にも藍を飲み込まんとする、黒い触手の群れが映った。
慌てて警告を送ったかずいの行動は、藍にとっては救いの一手となった。しかし当のかずいにとっては、今宵最大の痛手となったのだ。
かずいは二手に分かれてからずっと、常に数分先の未来を精確に予知し続けながら行動していた。これだけの時間的余裕があれば、どれだけの危険が襲いかかっても、十分対処できるはずだった。
しかし、ここに誤算が起こった。
かずいが未来の世界を見るには、『今』の世界を『見る』必要がある。
故に、藍の能力で繋がれた2―Fの教室の未来を見た瞬間、かずい本人のいる場所の危険に対し、彼は無防備な状態となっていだ。
後は、タイミングの問題だった。
常に周囲への警戒を怠らない彼の気が逸れる瞬間を。
「くぉっ」
藍からの思考伝達が切れた瞬間、かずいは、床に倒れ伏す自分の未来を見た。
咄嗟に飛び退ったかずいの眼前を、それが掠めた。
まるで目で追えない速度だった。
かずいの手から携帯が零れ落ちる。
ごん、と、ロッカーに激突したその影の姿をかずいが捉える前に、それは再び闇の中へと潜った。
「ふぇっ」
突然の事態に絢香の驚いた声が小さく響く。
次にかずいが見た未来は、絢香の頭がサッカーボール大の影に打ち抜かれる映像だった。
「退がれ!」
「え、え」
かずいの叫び声に、絢香は反応出来ない。
「くそっ」
絢香の腕を掴み、強引に引き立たせる。
「わ、わ」
未来が切り替わる。
混乱する絢香が、それでも咄嗟に、腰のポケットから消しゴムを取り出した。
「さ、下がって下さい!」
生徒会役員としての使命感が働いたか、かずいを後ろ手に押しやった。
どす。
とん。
たーん。
闇の中で、質量を持った物体が跳ね回る音が聞こえる。
武器を構えた絢香の顔は、しかし、怯えと不安に彩られていた。
右か。左か。
いつ来るのか。
「おい……」
「大丈夫です!」
かずいの声掛けを遮るように、虚勢に満ちた声で絢香が叫ぶ。
「くそ」
かずいが床に転がった懐中電灯を掴み取った。
「右っ」
鋭く叫ぶと同時に明かりを向ける。
「え、……うわぁ!」
理由も分からず、照らされた方向に向けて消しゴムを突き出す。
一瞬で二メートル程の壁と化した消しゴムに、どちゃ、と、何かの激突する音が響いた。
分厚い壁越しに、絢香の手に重い衝撃が伝わる。
「まだだ。左上!」
「えぇっ」
息つく間もなく、かずいの声が飛ぶ。
絢香の右手が白い壁から離れると、壁は元の消しゴムに戻り絢香の手中に収まった。
反対側の手で後ろ髪からシャープペンを抜き取り、一メートル程に伸ばす。
天井に跳ねた影をかずいのライトが捉える。
それは、
校庭の土と同じ色をした灰色の塊が、細かな土埃を撒き散らしながら、襲い掛かってくる。
絢香はシャープペンを八相に構え、振り切った。
しかし。
「うぅっ」
スイングは見事に空振りし、絢香の顔の横を影が掠めた。
消しゴムからシャープペンへ、能力の切り替えが間に合わず、振り遅れてしまったのだ。
後ろにいたかずいは屈みこんで飛来した影を避けると、再び闇に紛れたそれには目もくれず、絢香の袖を掴んで引っ張った。
「きゃ」
間一髪、後ろに引っ張られた絢香の胸の前を、またもや影が横切る。
「一旦退くぞ」
反対の手で手近な椅子を掴み、無造作に放り投げる。
何かの潰れる音。
それを目で追いもせず、かずいは絢香の袖を引いたまま、廊下へ飛び出した。
「ちょ、離してください!」
「いいから戸ぉ閉めろ」
「私戦えます! 日野先輩はサポートを……」
「いいから!」
絢香の手を掴むかずいの顔は、真剣そのものだった。それまでの彼の様子からは想像もつかないその剣幕に、絢香が怯む。
かずいはそのまま絢香の手を引き廊下を駆けると、階段前の防火扉の影へと滑り込んだ。
扉の向こうでは、不気味に響くバウンド音が、呪いの言葉のように漏れ聞こえていた。
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