暫定2位のランナー

ジト目ネコ

第1話

木漏れ日の落ちている山道の、無人のアスファルトを一人の男が走りすぎて行き、少し遅れてもう一人がやってきた。いずれも息遣いは深く荒くなっている。


限界は近づいていた。足の筋肉が極度の疲労のために柔軟さを失っていた。エネルギーを大量に消費し、酷使したためにふくらはぎに鈍い痛みを感じる。口の中はカラカラに乾いていて、ザラザラとした舌の感触がうっとうしい。脇腹が鋭い痛みを発し始めた。

もう、だめかもしれない。という考えが熱を帯びた頭の中にふと生じる。


走れ!あきらめるな!ネガティブな考えは捨てろ!


けれども僕の心の、気合いとか根性とかをつかさどる部分が励ましてくれる。大丈夫だ。僕はまだ頑張れる。

足を動かし続ける。力強く、決まったペースで。

視界の中に、先頭を独走するトップランナーの後ろ姿が見えてきた。あともう少しだ。あともう少しだけで。


マラソンは厳しいスポーツだ。己との戦いだ。ランナーたちは常に選択をし続けねばならない。リタイアの甘い誘惑と、ゴールへ続く苦難と痛みの道とを。

途中で心が折れてリタイアしてしまう者もいる。また、転んで怪我をしてリタイアを余儀なくされる者もいる。しかし、すべては自己責任だ。

そして、だからこそ諦めなければいい。

心が折れた?折るな、走れ!

足が折れて動けない?知らん、唾でも付けとけ!這いずってでもゴールしろ!

気合いと根性があれば何とでもなる!という風に。


先頭を行くあの男も同じようなことを考えているのだろうか。僕は思った。走るという苦痛についてどう思っているのか?

それとも、あの男はゴールした後のことしか頭にないのかもしれない。

開会式で見た、あの女性は本当に美しかったのだから。

僕は知らずのうちに開会式の光景を脳裏に浮かべていた。


村の広場に設置されたステージの前で、大勢の人がひしめき合っていた。皆、カクヨム村と近隣のヨクカム村の男たちで、体力、気力ともに十分といった風に、屈伸したり飛び跳ねたり、仲間内で豪快に笑いあっていたりしていた。僕は集団から少し離れたところでそんな彼らの中から、自分よりも速そうな奴を探していた。

ステージに取り付けられているスピーカーから声が聞こえた。「皆さん、ステージにご注目してください。第一回カクヨム村マラソン大会開会式を始めます。」

皆が注目する中、ステージの後ろ、「カクヨム村マラソン大会」と書かれた緑の幕の中から禿げ頭の男が登場した。カクヨム村の村長だ。彼はマイクに向かって、堅苦しい話し方であいさつを述べた。「本日は絶好のマラソン日和で」とか、「皆の健闘を祈って」とか、そんな類の。

彼は話の最後に気になることを言った。「本日皆様にお集まりいただいたマラソン大会は実は私の愛娘の婿探しのために開かれたものです」

若者たちの集団がにわかにざわめき立った。

村長はステージの脇を見て、手招きした「ほら、来なさい。」

先ほど村長が現れた幕の中から一人の女性が現れた。その女性は真っ白のウエディングドレスを着ていた。薄いヴェールを頭に被り、その奥で少しうつむき気味に顔を伏せていた。

若者たちの反応は様々だった。大多数が俄然やる気を増した者、指をさして仲間たちと何事か話している者。そして、少数の、花嫁の姿に見とれて声を失っている者。僕はその一人だった。

そうして彼女は注目を浴びていたが、そのうち恥ずかしくなってきたようだった。化粧を施した左右の白い頬っぺたがうっすらと赤みを帯びてきて、ほんの少し瞳がうるんできた。

彼女のその照れた表情を見たのはほんの一瞬だけだった。けれども、ただの田舎者で今までの人生に美人とは無縁の僕が彼女に惚れるには十分な時間だった。

「娘の名前はヨカという。」禿げ頭の村長の声を聞いて僕は気を取り直した。「マラソン大会で一番にゴールにたどり着いた者に、結婚する権利を与える」

彼は娘の父親として話しているつもりらしく、敬語をやめていた。

村長は続けて言った。「見ての通り、花嫁の準備は整ってある。大会の優勝者の準備が整い次第、すぐに挙式するからそのつもりで。」


僕はほんの少し、ペースが乱れない程度に力強く、次の一歩を踏んだ。そうすることによって今は邪魔な彼女に関する思考を振り払った。

とにかく、負けられない。

二番目ではだめだ。一番にならないといけない。

前を行くトップランナーはそれほど遠くない。コースは終盤に差し掛かろうとしている。

ペースを上げるべきだ。と、思った。

今からペースを上げて、トップに食いついていけば、ゴール直前のラストスパートでチャンスが生まれる。

僕はそう決めて、それからはとにかく走ることに専念した。一歩、また一歩と繰り出していく。足に無理やり言うことを聞かせて。痛みを無視して。

そうしているうちにトップとの差はほとんどなくなってきた。手を伸ばせば届く距離にトップランナーの背中がある。

とんでもなく苦しかった。苦しいなんて言葉は生易しいぐらいだった。でも僕が苦しいということは、トップのこの男も苦しいはずだ。

僕は絶対に頭を動かさず、眼球だけの動きでトップランナーの足を盗み見た。彼のふくらはぎは筋肉の形が詳細にわかるほどに膨れ上がっていて、青い動脈がいくつも浮き出ていた。

思った通りだった。この男は限界を迎えようとしている。いや、とうの昔に限界を迎えていてすでに気力だけで走っているのかもしれない。

僕と同じように。

そう思うと、何となく、前を行くトップランナーの背中にかすかな友情を感じた。隣に行って「君、調子はどうだい?」と、声をかけたくなった。背中と後頭部とふくらはぎしか知らないというのに。

とはいえ、叶わないことだ。それに今は友情よりも恋心を優先すべきだ。それが賢い判断というものだろう。

僕は心の中で「お互いにベストを尽くしてマラソンを最後まで楽しもう」と言って、空想の腕で彼の背をバシバシと叩いた。彼と本当に友達になれる気がした。

そうして彼と走っているうちにゴール地点である村の広場が見えてきた。マラソンに参加していないカクヨム村の人々がゴールテープの両脇にズラリと並び、一直線に人の道が作られている。笛の音や太鼓の響きに交じって、彼らの声援が伝わってくる。ここまで一人か、もしくは二人だけの孤独な闘いだった。「がんばれ!がんばれ!」という声が僕らを励ましてくれる。

声援が僕らの力になってくれている。

心地よい感覚だった。

僕らは全力を振り絞った。力の限り地を駆けた。肉がちぎれんばかりに、骨が砕けんばかりに。呼吸が荒く、深く、大きくなり、知らずのうちに声が出ていた。

人の道に突入した。もう50メーターもなかった。

足が地を蹴り、体を揺らし、一歩を刻むごとに力強く加速する。ペースなどもう関係なかった。

ゴールテープが見えた。声援を上げる人たちが見えた。結果を見守る花嫁が見えた。

そして、僕らはゴールした。僕らは地に倒れ伏し、胸を大きく上下させて息を吸った。

青い空の下、大歓声が上がった。


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暫定2位のランナー ジト目ネコ @kotaturingo

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