1-4

 ホコリまみれの肌に、冷たい水が染み渡る。

「ふう……」

 あまりの気持ちよさに、思わずため息が出てしまう。シャワーや風呂に比べて、簡単ではあるものの、ここしばらく落ち着いて身体を拭ける機会なんてなかった。

 それなりに豊かな双丘、なだらかな腹部、引き締まってきた脚、春菜は全身を拭くと、新しい下着に着替える。手洗い無しの新品、店頭から直接いただいてきたものだが、綺麗であるぶん、ずっとマシである。

 着慣れた制服を着て、春菜は試着室から出る。下着はレジに手持ちの金をおいて拝借したが、洋服のぶんはなかった。

 離れたところで待っていた、ネクストが声をかけてくる。彼は、変身を解き、青年の姿に戻っていた。

「もう、お金なんて役に立たないよ?」

「そういうわけにはいかないよ……食料や水をタダでもらってた人間の言う台詞じゃないけどね。お金にも限りはあるし。でも、できる限りは払いたいんだ」

 きっとこれは、都合のいい偽善だし、いつかはそれどころではなくなるのだろう。それでも、できるうちはやっておきたかった。

 春菜は試着室があったブティックの横にあった家具屋のソファーに身を預ける。

 現在、春菜がいるのは、人の気配が無いショッピングモール内部、その2階だった。話をする前に、一度、身体を綺麗にしておいたほうがいい。ネクストのアドバイスだった。

 屋上に春菜が籠もっていたことがバレ、そのあとライオコブラが暴れ、全員本能のままに上に向かったせいか、ショッピングモールの中に食人鬼はいなかった。

「それで、本当なの?」

 春菜は近くの壁に寄りかかるネクストにたずねる。

「何が?」

「この世界で実は、正義の味方と悪の組織が戦ってたって話」

「僕とさっきの怪人、これ以上の証拠があるの?」

 こう言われた以上、春菜はうなずくしかなかった。

「四十年以上前、世界征服を企む悪の組織は一人の改造人間を生み出した。その名は、クロス。だが、クロスは離反した。これが、組織とクロス、長きにわたる戦いの始まりだった。次々と組織が新たな怪人を作り、差し向けてくる一方――」

 ネクストである青年は、カードをベルトにかざす。

「組織の陰謀に巻き込まれた者、気づいた者、同じように裏切った者……組織と戦うことを決意した者は、皆クロスを名乗り、最初のクロス、クロス・ファーストの味方となった。僕もクロスの一人さ」

 青年は、改造人間としての姿であるクロス・ネクストに再度変身した。クロスに付くネクストの部分は、異名というか、型番のようなものなのだろう。

 ネクストは変身したまま語り続ける。

「僕たちクロスは世界を守るために戦い続けてきた。こんなことになるまで、君たちが僕たちクロスの存在に気づかず暮らしてきたこと、それは誇りだったんだ」

 世界が平穏無事に動くことこそが、クロスたちの成果であった。

 表に出て讃えられることは求めず、人知れず戦い続ける。たとえ、報われなかったとしても。

 傍から見れば酷な運命であっても、クロスたちはそれでよかった。

 だが、その平穏は今、人間社会の崩壊と共に終わりを告げていた。

 春菜はライオコブラにもした質問を、ネクストにぶつける。

「周りの人たちがみんなおかしくなったのも、その組織のせいなの?」

 ネクストは口に手を当て、首を横に振った。

「わからない。少しやり方が違う気はするけど、もしかしたら彼らが何かウイルスをばらまいた結果なのかもしれない。だとしたら、僕らは負けたんだろうね」

 口に手を当て、うつむくネクスト。その姿は、ヘルメットの下で泣いているように見えた。

「これから――」

 これから、どうするつもりなのか。聞こうとしたところで、春菜は言葉に詰まる。

 戦うのか、逃げるのか。どの答えも、これほど打ちひしがれた相手から求めるのは残酷に思えた。ずっと知らずに守られていた立場の人間たち、その一人である春菜に、口にできる言葉では無い。

 ぴしりと、何か硬いものが砕けた音がした。

「なにより悔しいのは、僕らが守ってきた世界を……食べたくて仕方がないんだ」

 ネクストの頭部を覆うヘルメット、口蓋を覆うクラッシャーがネクスト自らの手で破壊される。

 むき出しとなった、人としての口。ネクストの口は、真新しい赤とどす黒い赤、血の色を重ね合わせた赤で汚れきっていた。

「アンタも……!」

 ソファーから身を起こし、立ち上がろうとする春菜。だが、春菜が動くより先に、ネクストの腕が、春菜の身体をソファーに倒し、その身で覆いかぶさった。

 もがく春菜であるが、ネクストの腕力はか弱い人間の抵抗も脱出も許さなかった。

「僕たちクロスも、大半が食欲のとりことなった。もともと強化されていたせいか、僕たちクロスは普通の人間と比べて意識も残っているし、難しいこともできる。でもダメなんだ、この程度の意識じゃ、ブレーキにならないんだ。食べ物を捕まえるために罠をはる。食べる前に綺麗に洗う。結局、食べ物のことしか考えられないし、止まらないんだ」

 最初、味方ヅラをしてあらわれたのも、春菜にひとまずカラダを洗うことを薦めたのも、すべては僅かな理性がさせたことだったのだ。

 食欲という本能に従いながら、策を練り武器を扱う超人。理性なき食人鬼まみれのこの世界で、これほどやっかいな存在がいるのだろうか。

「離して……!」

 春菜が訴えかけても、ネクストの耳には届かなかった。

 いや、彼は聞こえている。だが、強烈な食欲が、理性も知性も心も、抑え込んでしまっているのだ。

「今の僕にできることは、ごめんねと言うことだけなんだ……ごめんね」

 謝罪の言葉を述べたネクストの口が、そのまま大きく開き、うめく春菜の首筋を狙う。

 目をつぶる春菜。だが、いくら覚悟を決めても、首筋に熱い痛みが届くことはなかった。

 おそるおそる春菜は目を開ける。ネクストの口が、開いたまま近づいてなかった。

「何がごめんねだ。どうせ食うんなら、胸を張って食った後に、あー美味しかったとでも言ってみやがれ。それが、悪事ってもんだ」

 ネクストの首筋を、若干たてがみが焦げたライオコブラが左腕で掴んでいた。

 ギリギリと、軋んでいくネクストの首。ライオコブラの手を引き離そうと、ネクストが春菜から手を放した瞬間、ライオコブラはネクストの身体を投げ捨てた。

 真一文字に飛ぶネクストは、マネキンや家具やショッピングモールの壁を巻き込み、遠くの方へすっ飛んでいった。

 起き上がった春菜は、ネクストが吹き飛んだほうをにらみながら、ライオコブラに叫ぶ。

「アンタ、生きてたの!?」

「まあな」

 全身うっすら焼け焦げ、胸に若干の傷はあるものの、ライオコブラも右腕のコブラもピンピンしていた。

 ライオコブラは春菜の前に立つと、ガードの姿勢を取る。銃弾がその身を襲ったのは、直後のことであった。

『ジュウゲキ! レンゲキ!』

本性をあらわにしたネクストが、武器を連射モードにし、乱射したままライオコブラの方に走ってくる。

「セオリーとしては、悪くねえが」

接近してくるネクストを見ても、平然としているライオコブラ。

ネクストが無様にコケたのは、突然のことであった。

「なっ……」

転んだネクストは、自分の足元を確認する。

ネクストの足に引っかかったのは、進行方向上に横に張られたロープ。いや、コブラの胴体であった。ライオコブラは密かに、右腕のコブラを伸ばし、罠をはっていたのだ。

『ケンゲキ! ザンゲキ!』

「真っ二つにしてやる!」

 ネクストは武器を双刃にしてコブラを斬ろうとする。

だが、商品棚を突き破り飛びついてきたコブラの頭が、ネクストの両手に一撃を加えたまま通り過ぎる。

体勢を立て直そうとするネクストを、再び襲うコブラの牙。コブラが通過するたびに、ネクストの周りが伸びたコブラの胴体に包囲されていった。

「頃合いだな。いくぜ!」

 ライオコブラが気合を入れた途端、ネクストを囲んでいたコブラの胴体が、中心にいるネクストめがけ一気に縮む。コブラの四方八方からの攻撃に翻弄されていたネクストは、周りの棚や商品ごと、一気に押しつぶされてしまった。

 戦いを見守っていた春菜は、ライオコブラに問いかける。

「……やったの?」

「いや。まだだ」

 ライオコブラの右腕のコブラが、瞬時に解け主の元に戻る。

 全身を押しつぶされ、ボロボロとなったネクストの一撃が、宙を切った。

「クジラも押しつぶす圧力で締め付けられても、反撃を狙う。流石はクロスの後輩なだけのことはあるな!」

 ライオコブラは惜しみない賞賛をネクストに与える。

「で。もっと凄いのは、そんな相手の反撃を見抜いて、コブラを戻した自分だ。って言いたいんでしょ?」

「だが、もっと凄いのは……スゲエな! おめえ、エスパーかよ!」

 春菜に台詞を言い当てられ、驚くライオコブラ。

 大ダメージを負ったネクストは、両膝を笑わせながら、ライオコブラに問いかける。

「なんでだよ」

「何がだ」

「お前は、屋上で僕の必殺技を食らっただろ! 今まで何体もの怪人を倒したのに、なんでお前は無事なんだ!」

 ライオコブラは、自分の胸をトントンと叩きながら答える。そこには、四十年以上前にクロス・ファーストに敗れた際についた古傷があった。

 この傷跡に比べれば、ネクストにつけられた傷など、かすり傷のようなものである。

「以前、似たような一撃を食らったんだよ。一度くらえば、多少なりとも受け身ぐらいは出来るし、それにどうも……一度ぶっ壊されたせいか、治って丈夫になったらしい。いやまあ、こんなことは俺様の嫌いな理屈の話でよ。一番デケえ理由は」

 胸を張り、ライオコブラは真の理由を宣言する。

「一度ぶっ殺された技と似たような技で負けてたまるか」

 ライオコブラがネクストのキックに耐え抜いた理由。それは、根性であり意地であった。思わず後ろで聞いていた春菜が吹き出すくらいに、なんとも純粋で人らしい理由である。

 それは、人らしい部分をすべて食欲に捧げてしまったネクストにとって、恐慌を招くぐらいに眩しい理由であった。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 歪んだヒザを無理やり叩き、ネクストは再び疾走する。

「ウォォォォォォ!」

 ライオコブラもまた、咆哮を上げネクストめがけ突っ込む。

 ネクストの斬撃と、ライオコブラのショルダータックル。武器と力のぶつかり合いは、力の勝利に終わった。

 双刃を取り落とし、吹っ飛んでいくネクスト。壁を何枚も突き破り、最後は窓を破り空中に投げ出される。だが、ネクストが落ちることはなかった。

 ネクストの首に、限界まで伸びたコブラが食いついていた。

 ライオコブラは、ネクストに食いついた右腕のコブラを、左腕で手繰り寄せる。高速で戻ってくる、ネクストの身体。待ち構えるライオコブラの左腕からは、敵を微塵に切り裂く凶爪が生えていた。収縮自在のこの凶爪。

 最大時の爪の長さは、もはや大太刀クラスである。

「だいたい……」

 戻ってくるネクストを見つつ、ライオコブラがつぶやく。

 当時はわからなかったが、今ならわかる。

 組織に一人立ち向かったクロスには、矜持があった。どんな逆境においても折れない、不屈の心。

 ライオコブラとて、組織のために尽くしたいという心はあった。だが、クロスの信念と矜持には及ばなかった。

 きっと、ネクストも本来は、クロスの名と信念の強さを受け継いだ後輩なのだろう。本来ならば、今頃ライオコブラは、二度目の敗北を喫していたに違いない。

 だが――

「テメエの大事なモンを全部捨てたやつが、最強怪人たる俺様に勝てるものかよ!」

 これは、悪が負けるヒーロー対怪人の戦いではない。

 これは、悪が負ける自由の戦士対組織の一員の戦いではない。

 なぜなら、ネクストは本能に負け、正義も信念も矜持も失ったのだから。

 獣の身体を持つ怪人と、食欲に負けた獣同然の喪失者。

 この混沌とした世界にあるのは、善も悪も定まらぬ、純粋な力の比べ合いであった。

 ライオコブラの爪が、勢いよく戻ってきたネクストの胴体に突き立てられる。

 カウンターの原理そのままに突き立てられた凶爪は、ネクストの装甲と胴体を容易く貫いた。

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