ツチスガリ

安路 海途

ツチスガリ

 ――新木樟平あらきしょうへいは気がつくと自分の体を食われていた。

「……?」

 はじめは、よくわからなかった。とりあえず、どこかの薄暗い部屋にいた。横になっているらしく、立ちあがろうとしたが全身に力が入らない。まるで空気そのものが固まってしまったみたいに身動きが取れなかった。

 一度深呼吸をして、あたりを見まわす。自分は拘束されていて、どこかに縛りつけられているのかもしれない、と思った。それ以外に、体を動かせない理由は思いつかなかった。

 あまり正確にはわからなかったが、広い部屋のようだった。光源である天井につけられた二つの蛍光灯は、深海を照らす探照灯ほどの役割もはたしてはいない。長年染みついた汚れのように、そこかしこに暗がりが澱んでいた。窓は見あたらない。ここは地下室なのかもしれない。

 そこまで認識してから、新木は大きく首を動かしてみた。頭の下には何か柔らかい感触があった。枕のようなものがあてがわれているのだろう。

 首の筋肉だけで頭を持ちあげるのは、思ったよりも重労働だった。こんな重いものをいつも抱えていれば、それは肩も凝るだろうなと思う。五十肩というが、それだけの長年月を経過すれば、無理からぬことだと思える。まだ二十歳になったばかりの新木には、はっきりとはわからなかったが。

 自分の体を見てみると、何故か全裸だった。服だけでなく、下着もつけていない。たいしてたくましいとはいえない体が、憐れにも露出していた。もちろん、恥部も含めて。仰向けのこの状態では、それはなおさらだった。

 だが、想像していたような拘束具はそこにはなかった。手も体も(遠くてわかりにくいがおそらくは足も)、何の戒めも受けてはいない。ただ横になっているだけのことだった。ならば、どうして体を動かせないのだろう?

 それからふと気づくと、左手のあたりに何か丸いものが這いずっていた。最初は、気がつかなかった。しかしそれがかすかに身動きしたように見えて、その存在に気づいた。気づいたが、しかし何なのかはわからない。

 耳を澄ますと、かすかな物音が聞こえた。……こりこり、こりこり……といっているようだった。何か固いものを齧っている音に聞こえる。

 新木は注意深く、その丸いものを観察した。薄暗くてわかりづらいが、どうも人の手や足に相当する部分があるように見える。しかし体が小さすぎた。胎児、だろうか。何故こんなところに――

 そう思っていると、丸いものは新木の視線に気づいたのか、向きを変えた。途端に、新木は絶叫した。

 それは、人の子供というにはいささか不恰好な代物だった。不良品か欠陥品、失敗作といったところだ。目や鼻の位置は通常の場所とは異なっていて、右半身と左半身のバランスがおかしい。荒れ地で歪に育った植物のような、いじけた体躯をしていた。もしも神様が遺伝子の製品検査を行っていたとしたら、間違いなく不合格として廃棄されていただろう。

 だが新木が絶叫したのは、赤ん坊の容姿のせいではなかった。

 本当の理由は、その口元にあった。嬰児の口は赤く濡れていた。否応なく注意を引く、鮮紅色。それはまぎれもない血の色だった。左手を見ると、中指がそっくり途切れていた。嬰児は口元をもごもごと動かした。すると例の……こりこり、こりこり……という音が聞こえる。

 間違いない。

 この子供は

「――――」

 新木ははじめ、自分が叫んでいることに気づかなかった。スピーカーの壊れたような音が聞こえると思ったら、ようやく自分が叫んでいることに気づいた。人間にはこんなに大きな音が出せるのだと、自分で妙に感心してしまう。

 しばらくのあいだ、壊れたから空気がもれるようにして絶叫が続いた。けれど嬰児はその声に対してまるで無頓着でいる。もしかしたら耳が聞こえないのかもしれない。でなければ、こんな耳障りな音の中に平気でいられるはずがなかった。それとも、これは狂いかけた自分の頭の中だけに響く警告音のようなものなのだろうか。

 しかし、それが間違いなく新木の口から出る叫び声だということは、すぐに証明された。新木の傍らに誰かの人影が現れたのだ。誰かは新木の耳元に口を寄せてこう囁いた。

「――お静かに願えませんか」

 新木はほとんど叫び声を噛みちぎるようにして口を閉じた。途端に、あたりに響いていた物音が止む。肺から漏れだそうとする空気を無理に押さえつけようと、新木は

「――けっこうです」

 その誰かは、おそろしく抑揚のない声で言った。さきほどと同じ、囁くような小声である。

「――さぞ混乱していることと思います」

 まるで医者が患者の診断を行っているような口調だった。

「――これから二三、必要なことについて説明したいと思います」

「こ、こ、こ、こ」

「――?」

「ここ、ここは一体」

 新木はがくがくと顎を震わせていた。さっきの絶叫で筋肉が痙攣してしまったのかもしれない。

「――ここは産室です」

「さ、産室?」

「――そのことについては、おいおい話すとしましょう。まず第一に……」

「あか、赤ん坊が、ぼぼ、僕の指を食ってる」

 誰かはちらりと嬰児のほうに目をやった。が、まるで興味などないかのように顔を元に戻す。

「――その通りです」

 感想は、それだけのようだった。

「そ、その通りって。冗談じゃない。んですよ、僕を。すぐにやめさせてください。あ、あなたの子供じゃないんですか?」

「――確かに、私の子供です」

「だったら、こんな……」

 そこまで言って、新木も気づいた。子供が人間を食べているというのに、この親はそのことをまるで気にしていない。まるで、そう、まるでこの男が子供に人間を食わせているみたいに。

「――おそらく、あなたの想像するとおりです」

 誰かはやはり、おそろしく抑揚を欠いた声で言った。まるで不治の病を宣告する医者のように。

「――あなたをこんなふうにしたのは私です」

 誰かの顔は、逆光になったせいで新木の目にはよく見えなかった。眼鏡をかけていて、かなり細身のように見える。体つきや声の感じから、辛うじて男だということだけはわかった。だがそれ以外はぼんやりとして、仮面のような暗がりに包まれている。そんな中で、左手の小指だけ欠けているのが妙に目についた。

「一体どうして、こんな……」

 新木がふと気づくと、嬰児は左の指先で食事を再開していた。……こりこり、こりこり……という音が聞こえて、今度は人さし指にしゃぶりついているようだった。

 ただしさっきからずっとそうなのだが、新木は痛みを感じていない。

「――あなたは『昆虫記』を知っていますか?」

 誰かはどこかからイスを持ってくると、新木の傍らに座った。

「は、え、何だって?」

 あまりに唐突な語句に、新木は思わず聞き返してしまった。昆虫記?

「――ジャン=アンリ・ファーブル、彼の書き記した書物のことです。原書は全部で十巻あります。私はまだ小さかった頃に、はじめてその子供向けのものを読みました。非常に正確で、科学的、興味深い観察がなされています。私は夢中になりました」

 夢中になった、というわりには誰かの口調は相変わらず恬淡としている。

「――例えば、オオクジャクヤママユの話があります。ガというのはメスがどんなに離れていても、オスがその場所を見つけてしまうのです。一体どうしてなのか、ファーブルは不思議に思いました。そして様々な実験の結果、それが何らかの物質によるものに違いないと考えます。今でいうところのフェロモンです。オスはこれを探知してメスを見つけるのです」

「ファーブルのことなんてどうでもいい!」

 新木はできることなら右手で地面を思いきり叩きたかったが、その意思に反して腕が動くことはなかった。

「僕は一体何がどうなっているのか聞きたいんだ!」

「――ファーブル昆虫記には、狩人バチについての記述があります」

 まるで新木の声など聞こえなかったかのように、誰かは話を続けた。

「――このハチはミチバチのような社会性は持たず、単独で行動します。ファーブルが研究生活をはじめるきっかけになった昆虫でもあります。ファーブルはこの種のハチの研究を様々に行いました」

「それがどうしたっていうんです」

 新木はうんざりして諦めたように先をうながした。そのあいだにも、……こりこり、こりこり……という音は続いている。嬰児はすでに小指にとりかかっていた。

「――狩人バチには、一つ大きな特徴があります。それは

「…………」

 しばらくのあいだ、新木は男が何を言っているのかわからなかった。……こりこり、こりこり……

 だが咀嚼した食べものがようやく胃の中に届くように、男の言葉はようやく新木の頭の中に届いていた。つまり、そういうことなのだ。

「僕は生きた餌ということなのか、この子供の?」

「――そうです」

 誰かは静かにうなずいてみせた。

「…………」

 新木は怒っていいのか笑っていいのか、とっさにはわからなかった。自分がとてつもない喜劇の中に巻きこまれているような気がした。自分は生きた餌なのだ。生きたまま食われるためにここにいるのだ。

 ……こりこり、こりこり……

 不意に何か気がついたように、誰かは自分の腕時計を見た。そして立ちあがると、こう告げる。

「――私はもう行かなくてはなりません」

「何だって、どこに?」

 新木は慌てた。男がいなくなれば、新木は自動的に嬰児と二人きりになる。そのあいだも、嬰児は自分を食べ続けるだろう。

「――仕事があるのです。ずっとここにいるわけにはいきません」

「こんなときに仕事だなんて……!」

「――Laboremusです」

 新木は首を傾げた。もっとも、それを傾げたというにはかなりの無理があったが。

「――〝さあ働こう〟という意味のラテン語です。ファーブルの好きな言葉でした。人は常に、仕事をしていなくてはいけません」

 それだけのことを言うと、誰かは光の向こうへと歩きはじめた。

 新木がどうわめきたてたところで、誰かの足に止まる気配はない。やがて扉が開き、閉まる音がして、誰かはどこかへ消えてしまった。あとには新木と、それを食べ続ける嬰児だけが残されている。

 ……こりこり、こりこり……


 覚えている最後の記憶は、公園だった。

 その日の夜、新木はいつものように近所の公園に出かけた。大学に入ってからの日課だった。半時間ほどふらふらと散歩してからアパートへ戻る。

 公園といっても子供の遊び場ではなく、自然公園のようなところなので、敷地はかなりの広さがある。大きな池があって、遊歩道がそのまわりをぐるりと一周していた。大抵は、ここを一周してから家に帰る。

 その日(つまり、新木が男に捕獲された日)もやはり、池の周囲を歩いていた。夏の夜で、月が皓々としていた。虫の声が賑やかで、砂利道が銀を塗ったように白々としていた。

 新木は歩きながら、特に何かを考えていたわけではなかった。ただ習慣的に足を動かし、森の影や銀盤のような池の水面を眺めている。水面はさざ波一つなく、立って歩けそうなくらいまっすぐだった。

 道の合流点のところで、突然衝撃を感じ、意識が昏くなった。

 その時のことを、新木はよく覚えていない。後頭部に殴られたような衝撃があって、視界が白くフラッシュした。同時に意識を失い、この部屋で目覚めるまでのことは何も知らない。

 ただ、今から思い出してみると、襲撃者は道のどこかで待ち伏せしていたのだろう。あとをつけられている気配はなかったし、足音も聞こえなかった。公園にいたのは自分一人で、たぶん目撃者はいない。

 新木はそこまで思い出して、それ以上考えるのはやめにした。おそらく、これ以上考えても何の意味もないだろう。

 男が出ていってから、どれくらいの時間がたったのかはわからない。室内に時計はなく、目立った変化もなかった。空気は澱んで、不治の病に冒されたような蛍光灯の光があたりを照らしている。空調が機能しているのか、熱さも寒さも感じなかった。

 新木は何度か体を動かそうとしてみたが、やはりそれはできなかった。肩をすくめる動作が精一杯で、動くのはそれより上だけである。他は動かすこともできず、感覚も存在しない。

 そして嬰児は疲れることも知らず、その体を食い続けていた。

 相変わらず、痛みはない。目を閉じていれば、何が起こっているのかはわからなかった。……こりこり、こりこり……という音が聞こえるだけだ。はじめは気づかなかったが、新木の左腕には止血処置が施されていた。失血死させないためだろう。

 詳しく観察してみると、嬰児はやはり辛うじて人間の子供に見える、という代物だった。そのぶよぶよとした肉塊は、まさしく幼虫を思わせる質感をしている。明らかな発育不良にもかかわらず、歯だけが不釣合いな成長を遂げたようで、嬰児は新木の体から苦もなくその肉を噛みちぎっていた。

 新木は何度か、この嬰児に話しかけてみた。もちろん、こんな赤ん坊に話しかけたところで言葉が通じることはないだろう。だが、何らかの反応はあるはずだった。しかしどんなに大声で怒鳴ったところで、結果は同じだった。……こりこり、こりこり……

 すでに新木の左腕は、ほとんどが骨に変わっていた。具体的には腕撓骨筋が食いつくされ、いわゆる二の腕あたりまで骨が露出している。指骨のような小さな骨は噛み砕いてしまったようだが、中手骨のあたりからはきれいに肉だけが食いちぎられていた。白い骨が、骨格標本のように正確に並んでいる。当たり前の話ではあったが。

 四肢の自由が利かない以上、新木にできることは何もなかった。誰かの言ったとおり、生きたままこの子供に食べられ続けるしかない。だが、何か方法はないだろうか?

 声は、無駄のようだった。どんなに大声を出したところで、嬰児が食事を中断するようには見えない。新木はドラえもんに出てきた声が固まる道具を思い出していた。が、こんなことを考えている時点で、すでに見込みはない。

 唯一可能性があるのは、こちらも口を使うことだった。古代から連綿と言い伝えられ続けているとおり、目には目を、歯に歯を、だ。嬰児がこちらの首の可動域に入ったところで噛みついてしまう。

 今、左腕にとりかかっている嬰児は、このまま行けば首筋のあたりまで食事を進めるだろう。もちろん、頚動脈や気管を食い破られてしまえば新木は死ぬ。だが、そうなる前に嬰児を噛み殺してしまうのだ。

「…………」

 しかしそれができるかどうかというと、新木には自信がなかった。実際問題としてそれが可能なのか、ということもあるが、主に精神的な問題として。新木にも昆虫を殺したくらいの経験はある。だが生き物を噛み殺した経験はない。そんなことは想像するだけでも気が滅入った。例えこんな状況だとしても。

 不意に、S・キングの『ミザリー』を思い出した。あの話は最後、作家が女を殺してしまうはずだ。作家は足を負傷していた。それに比べると、新木は全身が麻痺状態にある。だが泣き言をいっても仕方がない。

 新木はじっと、嬰児が食い進んでくるのを待ち続けた。……こりこり、こりこり……。嬰児は上腕骨の下のほうを舐っている。新木はふと深い疲労感を覚えて目をつむった。まるで悪い夢でも見ているようだ。


 気づいたとき、新木の目の前には誰かの姿があった。

 新木は何故か叫び声を上げてしまった。誰かの顔は相変わらず暗がりになってよくわからない。

「――健康状態に問題はないようですね」

 と、誰かは冷静な声で言った。

「問題ない?」

 新木は噛みつかんばかりの勢いで食ってかかった。が、頭がわずかに持ちあがっただけで、それもすぐ首がつりそうになったのでやめてしまう。

「それは皮肉ですか、先生? だとしたら最高ですよ。きっと人類最高の皮肉です」

「――ただの事実です」

「体を食われていたって、そりゃあ健康ではいられるでしょうね」

「――四肢の欠損と健康とは、必ずしも対立する概念ではありません。あなたは身体障害者を不健康だと言うつもりなのですか?」

 新木は眉をしかめ、皮肉に笑っておくだけにしておいた。それよりも、もっと大切なことがある。

 首を左に傾けると、そこに嬰児の姿はなかった。そして新木の左腕は、肩より先がすっかりなくなっている。骨もなかった。どうやら止血縫合を施されているらしい。誰かのほうを見ると、血のついた手袋を外しているところだった。

「赤ん坊はどうしたんです?」

「――あなたからは見えにくいでしょうが」

 誰かは手袋をゴミ箱に捨てるような動作をした。

「――左足の腓腹筋、いわゆるふくらはぎを食べているところです」

 新木はあえてそれを見たいとは思わなかった。

 いずれにせよ、嬰児が近づいたところで咬殺するという計画は失敗に終わったようだった。しかし新木が眠らなかったとしても、結果は同じだったろう。嬰児は肩先のあたりまでしか食い進んでいなかった。男がそれ以上食べさせなかったのか、嬰児自身がそうしたのかはわからないが、これでは新木がどれだけがんばっても噛みつくことはできない。

「今、何時ですか?」

「――夜の十時半というところです」

「僕がここに来てから、どれくらいがたつんですか?」

「――丸一日というところです」

「それじゃあ今頃、大騒ぎになっているでしょうね」

「――それはないでしょう」

 誰かはやはり抑揚のない声で、しかし断言するように言った。

「――騒ぎにはなっていないはずです」

「どうして? 丸一日、僕は行方不明になっているんですよ。そろそろ誰かがおかしいと思いはじめる頃でしょう」

 誰かが急に覗きこんできて、新木は思わずぎょっとした。誰かは瞳孔や脈拍でも調べるようにして、新木のことをじっと見つめている。

「――あなたはアパートに一人暮らしをしています。家賃はこの前払ったばかりです。同じアパートに親しい人間はいません。アルバイトなどもしていない。大学の文学部に所属していますが、友人と呼べるほどの人はいません。実家から荷物が送られてくる様子もなく、従ってあまり頻繁に連絡を取りあっている間柄とは思えません。……騒ぎになっていますか?」

 新木は答えられなかった。

「――それに例え騒ぎになっていたとしても、ここが見つけられる可能性は非常に低いでしょう。私は目撃者も証拠品も、何一つ残さなかった」

「何の痕跡も残さないなんて、人間にできるはずがない」

「――私は人間ではないのです」

 その言葉がどういう意味なのか、新木は問い返そうとしなかった。誰かのその口ぶりには、疑義を許さない、妙な真実味があった。

「……僕はこれからどうなるんです?」

「――最終的には、すべての体を食べつくされることになります」

「つまり、死ぬってこと?」

「――主要器官が損傷を受けるまでは、おそらく生き続けるでしょう」

 新木は言葉が口元に詰まって出てこなくなるのを感じた。頭の中を様々な疑問が渦巻いていた。タンスの中身をいっぺんにひっくり返したみたいに、それらの一つ一つは形がはっきりしない。結局、新木が質問したのは次のことだった。

「あの子供は、一体何なんです?」

「――私の子供です」

「それはもう聞いた。でも普通の子供は人間を食ったりなんかしない」

 誰かはそこで、正体不明の間をとった。暗がりのせいで、新木には誰かの顔は見えない。どんな表情をしているのかさえわからなかった。

「――あの子は母親の体を食べて成長しました」

「何……?」

「――あの子は胎内で、母親の肉を食べながら育ったのです」

 誰かの声はあくまで淡々としていた。新木にはその話が本当かどうかわからなかった。

「――妊娠三ヶ月ほどのことです。その頃には、胎児は概ね人の姿をしています。この子もやはり、そうでした。しかしそれは姿形は似ていても、人とは別の進化を遂げた生物だったのかもしれません。妻はその頃から、急に苦しみだしました。実のところ、その頃から妻の体は食われていたのです。この子はどうやら、人の体の食べかたというものを知っていたらしい。生命維持に必要な部位は避けて、ゆっくり時間をかけて成長を続けました。そして胎児の正常な妊娠期間を経て、この子は誕生しました。もちろん、誕生と同時に母体は絶息しました。しかしそれが、妻の希望でもあったのです。ある種のクモは、生まれたばかりの子グモが母グモを食べて成長します。あるいはこの子も、そうした習性を持つにいたったのかもしれません」

 誰かの話はなおも続いた。

「――無事に生まれた子供でしたが、ここで困ったことが起こりました。健康状態には問題ありませんでした。生命維持に関わる障害も、感染症の発生もない。しかしこの子は、通常の食べものを受けつけませんでした。つまり、ミルクを飲まないのです。当然ですが、栄養失調によりこの子はどんどん衰弱していきました。途方に暮れた私は、ある試みを実行してみました。私は自分のを与えてみることにしたのです。私は抱きかかえた子供の口に、小指をあてがってみました。すると赤ん坊はしばらく匂いを嗅いだり、ひとしきり舐めまわしたすえに、私の小指に食いつきました。その瞬間の、私の歓喜。私は涙を流しました。

 しかし残念ながら、私の体をすべて食べさせるというわけにはいきません。そんなことをすれば、この子を養うものがいなくなります。私は小指を丸々食べさせたあと、さっそく計画の実行に移りました。そうです、簡単に言ってしまうと、私は〝餌〟を探しに出かけたのです。

 計画の実行には、慎重を期しました。けれどあまり時間をかけすぎるわけにはいきません。この子が餓死してしまいます。私は苦労して、何とか最初の人間を手に入れました。成瀬文絵なるせふみえという女の子です。しかし結果から言うと、これは失敗に終わりました。あの子は彼女を食べようとしなかったのです。煮ても焼いても同じことでした。調理方法の問題ではないのです。私は考えました。もしかしたこの子は、同一血族しか食べないのかもしれない。それなら、母親と私を食べた理由がわかります。しかし同時に、私はその仮説は間違っていると思いました。理由はおそらく、別のところにあるのです。

 しばらくして、私はひらめきました。自室で、本棚に収まったファーブル昆虫記を見たときのことです。私は狩人バチのことを、そしてその幼虫のことを思い出しました。彼らの幼虫は、生きた餌しか食べないのです。

 これは正解でした。私はさっそく、生きたままの人間を赤ん坊に与えてみました。思ったとおり、赤ん坊はむさぼるように食事をはじめました。この子は生きた餌しか食べないのです。

 その後、試行錯誤を重ねてより効率的な食事方法を考えました。はじめの頃は鉄製の寝台に鎖で拘束していたのですが、これは被食者の抵抗が激しく、また大量の叫び声もあげました。場合によっては赤ん坊に危険が及ぶかもしれず、あまり賢いやり方とはいえません。いくつか方法を考えたすえ、結局今のようなやり方に落ち着きました。これなら被食者が暴れることも、苦痛のために大声で無闇にわめきたてることもありません」

 誰かの長い話は、それで終わりだった。新木は質問をした。あまり聞きたくはなかったが。

「……一体、今までに何人くらいの人間を?」

「――三十人ほどでしょうか」

 そのあいだに、この男は一度も捕まらなかった、ということだろうか。

「この赤ん坊とひきかえに、三十人も人間を殺したんですか?」

 新木は一瞬混乱して、首を振った。「もっとましな方法はあったでしょう」

「――これがもっとも自然な方法でした。この子は生きた人間しか食べません。何故かは不明です。しかしそういうふうになっているのです」

 その時、部屋の中にいきなり電子音が響いた。新木が音源を探っていると、誰かはポケットから小さな機械のようなものを取りだした。

「――行かなくてはなりません」

 そう言って、立ちあがる。

「――今度は両足を食べ終えた頃に来ます。心配しなくとも、この子は決してあなたを殺したりはしません。どこをどう食べるべきか、きちんと知っているのです」

 新木は皮肉を言う気力すら湧いてこなかった。

 やがて扉に手をかけたところで、誰かはふと振り返って訊いた。

「――ところで、さっきあなたは私のことを〝先生〟と呼びましたね? あれは何故ですか」

「そうでしたか? よく覚えてませんけど」

 新木はどうでもよさそうに言った。

「――――」

 誰かはしばらくのあいだ、様子をうかがうように立ちどまっていた。が、やがて行ってしまう。室内が静かになると、また例の……こりこり、こりこり……という音が聞こえてきた。


 誰かが次にやって来たのは、発言したとおりに新木の両足が食い尽くされる頃のことだった。そのあいだ、新木は一度眠っている。どれくらいの時間が経過したのかはわからなかった。

「――今、大腿二頭筋の長頭部分を食べているところです」

 と、誰かは報告した。

「誰も聞いてませんよ。それに僕は何も感じません」

 そう言ってから、新木は気になっていたことを訊ねた。

「どうして、僕の体は動かないんだ?」

「――ツチスガリという虫を知っていますか?」

 誰かは相変わらず眠っているような声でしゃべった。イスに座っていて、顔は逆光で見えない。

「――前にも言った、狩人バチの一種です。これらはタマムシやゾウムシといった甲虫を狩ります。狩人バチは種類によって狩る虫が決まっています。そして狩った獲物に卵を産みつけ、生餌としてしまいます」

「今まさに、実感しているところです」

 新木は力なく笑った。そのことは、何度も聞きたくなるような話ではない。

「――ツチスガリがどうやって甲虫を狩るか、知っていますか? 当然ですが、捕まった甲虫は生きていても、身動きすることはできません。自由に動かれては、卵のほうがやられてしまいますからね。あくまで新鮮なまま、しかし体の自由は失われているのです」

「僕みたいに、ということですか?」

「――その通りです」

「今度そのツチスガリを見かけたら、生きたまま食ってやりますよ」

 誰かは新木の凡庸な発言を頭から無視して言った。

「――ある人はこれを、何らかの防腐作用によるものだ、と考えました。つまり甲虫は死んでいて、ハチはその肉を腐らないようにしているのだ、と。しかしファーブルはそうは思いませんでした。彼は様々な観察の結果、甲虫が確かに生きていることを確信します。しかし、ハチは一体どうやって甲虫を動かなくしているのでしょう? あなたにはわかりますか?」

「麻酔のようなものを打ってるんじゃないんですか」

 僕みたいに、という言葉を新木は飲みこんでおいた。

「――そう、それで半分が正解です」

 誰かの声は、かすかに興奮してきているようだった。

「――ファーブルは観察を続けました。しかしハチが処置をほどこす場面を見ることはできませんでした。それはそうです。運良くそんな場所を見ることはできない。できたとしても、詳しく見ることなどはできないでしょう。そこで彼はあることを行います。わかりますか?」

 わかるわけがない。

「――巣穴にハチが戻って来るのを待って、ハチが持ってきた獲物を新しいものとすり替えたのです。これが見事に成功しました。ハチは甲虫のある部分を針で一突きにしました。それだけで、甲虫は動かなくなったのです」

「やっぱり毒だったんでしょう」

「――違います」

 出来の悪い生徒を前にしたように、誰かの声はかすかな不機嫌さを帯びた。

「――甲虫にはその部分に、神経節があったのです。ハチはそれを破壊したわけです。神経節を壊された甲虫は、もう身動きをとることができない」

「…………」

「――ところで、人間に脊髄があることはご存知ですね?」

 誰かは当たり前のことを言った。

「――これは上から頚髄、胸髄、腰髄、仙髄、尾髄と別れます。そのうち頚髄は、部位によってC1からC8に区別されます。番号の若いものほど上部、つまり脳幹部に近くなります」

「…………」

「――この頚髄のうち、C3からC4に損傷を受けた場合、多くは全肢麻痺の状態となります。つまり、甲虫における神経節の働きと同じです」

「まさか、僕は……」

「C3からC4には横隔膜を司る神経が存在するため、場合によっては呼吸障害を引き起こします。つまり、これより上部の神経を破壊するわけにはいかない」

「つまり、僕は……」

「――そうです」

 と、誰かは言った。

「あなたの脊髄は、私が切断しました」

 新木は一瞬沈黙してから、そっと笑い声を上げた。

「なるほど、どうりで動かないし、何も感じないわけだ。なるほど、なるほど」

「――――」

「これなら暴れて赤ん坊を傷つける心配もないし、苦痛に大声でわめきたてることもない。麻酔のようにいつ切れるか不安になる必要もないわけだ……ところで今、僕はどの辺を食べられているんですか?」

「――右の鼠蹊部付近です」

「つかぬことを訊きますけど、この子は僕のペニスも食べるんですかね?」

「――前例では、食べます」

 新木はさらに質問を重ねた。

「毛が邪魔になったりしないんでしょうか?」

「――体毛はすでにすべて剃りおとしてあります」

 途端、新木は爆笑した。耳障りな笑声が室内に響きわたる。

「すみません、不謹慎でしたね」

 新木は笑い声を押さえるのに苦労するようにして言った。

「――いいえ」

「ところで先生は、『アガメムノーン』を知っていますか?」

 いきなり、新木はまるで関係のないことを言った。

「――トロヤ戦争における、ギリシャ方の総大将のことですね。私は神話には詳しくありませんが」

 誰かはなかなかの博識らしく、即座に応答した。新木は可能なかぎりの動作でうなずいた。

「『アガメムノーン』はアイスキュロスの書いた悲劇です。戦争から帰ってきたアガメムノーンは、その妻と姦夫によって殺される。その遠因は、彼の父親にあります。彼の父はその弟に、弟の子供の肉を煮て啖わせました。姦夫は弟の孫でした」

「――?」

「結局、アガメムノーンを殺した二人も、彼の子供のオレステースに復讐されます」

「――一体、何を言いたいのです?」

「何も」

 新木はまた発作的に笑い声を含みながら言った。

「ただ何故か、その話を思い出しただけです」


 新木がひとしきり笑い終わったあと、嬰児はゆっくりと右手のほうに這いずりはじめたようだった。この子供は確かに人間の食いかたを知っているらしい。臓腑に手をつけるのは一番最後、ということなのだろう。

「僕のはまだついていますかね?」

 痙攣的な笑い声を立てながら、新木は訊いた。

「――いえ、残念ながら」

「あれですかね、やっぱりおいしいんですかね? フグの白子なんかは絶品だって聞きますけど」

「――私は食べたことがないのでわかりかねます」

「わかりかねる、か。そりゃあそうだ。食べられてみなけりゃ、食用牛や食用豚の気持ちがわからないのと同じですよね」

 誰かはどういう反応もなく黙っていた。新木の軽口に閉口しているのか、怒っているのか、それとも何も感じていないのか。

 そのあいだに、嬰児は新木の右手にとりかかっていた。……こりこり、こりこり……。例の骨を噛む音が聞こえる。嬰児の咀嚼速度は、むしろ最初の時よりも速くなっているようだった。人間一人の四肢を食い尽くしてなお、その食欲が衰えることはないらしい。何かに似ている気がした。

「ところで、聞き忘れていたんですけど、この子供は男の子ですか? それとも女の子ですか?」

「――男性器を所有しています」

「男かどうかはわからないんですね。しかしまあ、〝彼〟と言ってもいいでしょうね、とりあえずのところは」

「――ご随意に」

「ではその」

 と、新木は一度咳をしてから、

「彼は今、いくつくらいなんですか?」

「――ちょうど十ほどになります」

「Pardon?」

「――Ten years oldです」

 新木は皮肉っぽい笑顔を浮かべた。

「とてもそうは見えない。それより十歳は若く見えますね」

「――この子は成長しないのです」

 誰かは新木のことなどまるで意に介さずに告げた。

「――この子の体重は、生まれたときから少しも変わっていません。こうして食事はしますが、排泄することもありません。食べたものがどうなっているのかは、私も知らないのです」

「それは親としては、さぞかし心配でしょうね」

「――問題なのは、この子の生命が維持され、存在し続けているという事実です。そのほかのことは、私にとっては瑣末なことでしかありません」

 誰かは静かに、ごく静かにそう言った。……こりこり、こりこり……

「そりゃあ、豊田重明とよたしげあき医師としてはそうでしょうね。親というのはそういうものだと思います。多少の欠点や欠陥があっても、そんなものは気にならない。自分の子供に人肉の嗜好があっても、成長過程に難があっても、たいした問題じゃない。きっとこの子は、世界と同じくらいの重さを持っているんでしょうね。何しろ目に入れても痛くないって言うくらいだ。もっとも、先生にとっては小指をやっても惜しくない、というところでしょうけど」

「――今、何と言いましたか?」

「え、何のことです? 先生は小指をやっても……」

「――そこではありません。その前です」

「親にとっては子供が」

 誰かは首を振った。

「――いいえ、あなたは私の名前を知っていました」

 ……こりこり、こりこり……

「――何故です?」

 ……こりこり、こりこり……

 新木はついさっきまで冗談を口にしていたことなど忘れたような、まじめな顔つきで言った。

「脊髄の切断なんて外科処置を、ただの素人ができるわけはありませんよね。ポケベルで呼びだされたのは急患が入ったせいでしょう? それに先生のしゃべりかたは、まるっきり医者そのものです」

「――私が医師だということは、推測がつくかもしれません。しかし私の名前が当てられるはずはありません」

「悪魔がうっかりしゃべってしまったんですよ。そのせいで魂を取りそこなったんです」

「――私はまじめにきいているのですよ」

「何故です? これは喜劇じゃないですか」

 新木は皮肉っぽく笑った。

「アリストファネスだってきっと認めてくれますよ。古代ギリシャから、時々は現実にも現れてくる、ただのよくある喜劇です」

「――私にはそうは思えません」

「でもこれ以上話を進めるなら、そこにはカタルシスが待っているんですよ。これは一種の報復劇なんです。僕はオレステースなんですよ」

「――あなたは何を知っているのですか?」

 やれやれ、というふうに新木はため息をついた。あるいは古代における、数多の予言者のごとく。

「ではまずは、認知といきましょう。いわゆるアグノーリシスというやつです。先生は前に、成瀬文絵という女の子の名前を口にしましたね。一番最初に先生が殺して、死んでいたので食べられなかったという女の子のことです。

「――しかし、名前が違います。あなたな新木樟平だ」

「そのことについてはおいおい話していきますが、とりあえず本当の名前ではありません。偽名です。免許証やパスポートも偽造、アパートの保証人や経歴や家族関係や預金通帳や保険証や恋人の有無も偽造。僕は本物ではありません」

 豊田はようやく、うろたえはじめたようだった。が、声だけはいつもの淡々とした調子で、

「――何故、そのようなことを?」

 と、訊いた。

「簡単です。あなたを見つけるためです」

 新木は――新木という名前の誰かは、さも当然のことのように言った。

「僕は姉が行方不明になって以来、その犯人を捜していました。僕と姉には不思議な結びつきがありました。僕は夢で、姉が殺される場面を何度も追体験しました。何百回となく、です。僕はその一つ一つをこと細かに記憶しました。そして現場を見つけだし、徹底的に調べました。すべては姉の仇をとるため。つまりは、復讐のためです」

 まるで重力そのものが変化したように、部屋の中を重い空気が包みこんでいた。……こりこり、こりこり……

「やはり初犯だったということでしょう、先生はいくつかのミスを犯していました。それに僕には、夢の力があります。そのおかげで、重要な点をいくつか知ることができました。しかし残念ながら、先生を特定するまでにはいたりません。僕は同じような事件が起きて、手がかりが増えるのを待たなければなりませんでした」

 ……こりこり、こりこり……

「結局、そのためには十年がかかりました。僕はとうとう、犯人は先生であることを確信しました。それこそ様々な観察や実験で事実をつきとめたファーブルみたいに。しかし、証拠はありませんでした。例え警察に訴えたところで、信じてはもらえないでしょう。個人的な報復を加えたとしても、犯罪者として裁かれるのは僕のほうです。何か、決定的な証拠が必要でした」

「――だから、捕まったというのですか、?」

「そうです」

「――しかし」

 豊田の声からは、あくまで感情を読みとることはできない。

「――あなたにできることは、何もありはしません。すでに四肢を失って、出すべき手も足もない状態です。おそらく失血によって、もうすぐ死ぬことになります。そしてあなたは、首から上以外については身動きすることすら不可能なのです」

 ……こりこり、こりこり……

「そのことについては、先生のおっしゃるとおりです。僕にできるのは、でした。……ところで先生、僕は一つ言っておかなければならないことがあるんです」

「――何でしょうか?」

 ……こりこり、こりこり……

「最初、僕が絶叫したときのことを覚えていますか? いえ、あれは決して演技ではありません。本当に気が狂いそうだったんです。けれどそのあと、僕がのには気づきましたか?」

 新木という名前だった誰かの目は、すでに閉じかかっていた。もうすぐ死のうとしている。

「――いえ」

 ……こりこり、こりこり……

「実はあの時、僕は奥歯に仕込んであったんです。そのカプセルには、遅効性の神経毒が含まれていました。毒はすみやかに体内に広がったのち、時間をかけて感染者の命を奪います。その毒は感染者の体内に蓄積され、消えることはありません」

「――――」

「つまり現在、僕自身が毒物というわけです」

 ……こりこり、こりこり……



 豊田重明は狼狽した。そのようなことは、かつて一度も彼にはなかったことだった。そのため、豊田は何故自分の脈拍がこれほど上がり、動悸が激しくなっているのかを理解することができなかった。

 気づいたときにはイスから立ちあがり、今では誰なのか名前さえわからない男に詰めよっていた。誰かは目をつむっていた。すでにそこには生命の残滓が残り少ない。

「――一体、何の毒を飲んだのです? 毒物の名前を教えてください」

 だが、誰かはほとんど何の反応もしなかった。ただその唇が弱々しく動いただけである。豊田が耳を近づけると、誰かはこう言っていた。

。すでに立場は逆転しています」

 最後のセリフが終わったみたいに、誰かはもう動かなくなった。首筋に手をあてると、脈が触れない。瞳孔の反射もなかった。死んでいる。

「――――」

 豊田ははっとしたように、嬰児のほうへ駆けよった。誰かの横たわるテーブルを回りこんで、嬰児を抱きかかえる。一見したところ、毒物を特定できるような所見は得られなかった。ただ、嬰児の呼吸は次第に浅くなり、その目は閉じかけられている。

 この場所では、有用な診断を下すことはできない。豊田は嬰児を抱きかかえたまま、車に乗って病院へと向かった。市立の総合病院、その脳神経外科に豊田は勤務している。

 事故を起こさなかったのが僥倖というスピードで、豊田は車を走らせた。信号を二つ無視し、対向車とすれ違って右のサイドミラーを破壊した。ガードレールに派手に車体をこすりつけもした。

 病院に着くと、顔見知りの看護士が声をかけてきた。

「あら、先生。今日はどうしたんですか? 非番だって聞いていましたけど」

 彼女は豊田の抱えたものをのぞきこんで、ぎゃっと声をあげた。馬鹿が、と豊田は思った。人の子供を見て悲鳴を上げるやつがあるか。

 処置室に向かう頃には、院内は騒然としはじめていた。ロビーで診察待ちをする健康そうな老人たちは、豊田の血相に不穏なものを感じていた。途中ですれ違う医師や職員を乱暴に押しのけて、豊田は目指す場所へと急いだ。

 まず、採血を行わなくてはならない。それから、いざというときのために人工呼吸器の準備。カウンターショックも必要かもしれない。心電図への接続――何故、骨折なんて緊急性の低い患者が処置室にいるんだ。豊田はそいつを蹴落として、医者ともども部屋から追い払った。

「――ああ、ああ」

 自分でも訳のわからない嘆息をもらしつつ、豊田は準備を進めた。その嘆息は、絶望だったか、それとも悔悟だったろうか。

 豊田がコードを接続しているうちに、処置室の扉が開けられた。豊田は激高した。ちくしょう、どうして鍵をかけなかったんだ。

 部屋に入ってきたのは、見たこともない男だった。くたびれた、灰色のスーツを着ている。オールバックにした髪には白いものが混じり、その痩身は骸骨か死神を思わせるものだった。が、目の奥にある光は思いのほか鋭い。少なくとも、患者には見えなかった。

 男は豊田の前に小さな手帳を広げた。

篠田一彰しのだかずあきといいます。県警のほうの刑事です、捜査一課の」

 豊田は興奮していた。

「――一体何の用です。私は今忙しいのです」

 篠田は手帳を懐にしまいながら、対照的に落ち着き払っていた。

「あなたを逮捕しに来ました。罪状は拉致・監禁、ならびに殺人です」

「――私は忙しい。あなたの話につきあっている暇はありません」

 篠田はひょいと、嬰児のことをのぞきこんだ。

「よく眠っているようですな」

「――何?」

「よく眠っているようだ、と言ったんです。すやすやと、穏やかな寝息を立てているみたいですな」

 そう言われて、豊田はあらためて嬰児の様子を観察した。血色におかしなところはない。皮膚にも異常はなく、脈拍、血圧も安定していた。眠っている……

「失礼ながら、あなたのお宅を調べさせてもらいました。結果、地下室から身元不明の男性遺体が一つ、発見されました。現場の状況から見て、あなたが犯人であることに間違いはなさそうだ」

 豊田はそんな話など聞いていなかった。

「――あなたがたは、はじめからそのつもりだったのですか?」

「証拠がまったく存在しない、というのがネックでした。もちろん、我々としても彼の死は非常に残念です。だがそれも、彼自身が望んだことでした。成瀬直之なおゆきくんが、ね。悲劇の終わりとしては、これも仕方のないことだとは言えるんでしょうな」

 彼は毒物など持っていなかった。あれは最後の一芝居だった。豊田はまんまとそれにひっかかり、証拠品を残したまま家を飛びだしてしまった。そして彼と捜査を続けていた刑事が、自分を捕まえた。

「――なるほど」

 と、豊田はつぶやいた。これは、喜劇以外の何ものでもない。

 ……こりこり、こりこり……

 眠った嬰児の口から、骨を噛む音が小さく聞こえた。

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