鍵を開けて【なずみのホラー便 第30弾】

なずみ智子

鍵を開けて

 カーテンの外は、まだ夜明け前であった。

 だが、あと数刻で夜は明けるであろう。

 昨日までの朝と同じように。


 ベッドから起き上がろうとした菰田(コモダ)サトコであったが、突如襲ってきた眩暈によってドサッと倒れ込んでしまった。

 そんな母の様子に気づいたのか、同じシングルベッドで眠っていた13才の娘のアイリが即座に起き上がった。


「お母さん、大丈夫? 私のこと、分かる?」

「……もちろんよ。自分の子供を忘れるわけないじゃない」


 そう言ってアイリの頭を撫でたサトコ。

 眩暈。これは単なる体調不良か、老化現象の一つであるだろうと予測づける。

 ここ数か月の間、サトコはどれだけ寝ても疲れがとれなかった。

 さらに言うなら、鏡を見るたび、目元や口元の皮膚のたるみと顔色の悪さが前よりも一層目に付くようになっていた。

 人生80年だとしたら、40才であるサトコはちょうど数字的には折り返し地点にいるはずなのに、明るくはつらつと人生の後半を楽しむ気力を振り絞る力すら残っていなかった。


「ねえ、アイリ。もう少しだけ、眠っていよう」

「うん……ほんの少しだけなら……お母さんがそう言うなら……」


 目を閉じたサトコは、そういえば、と思い出す。

 アイリがお腹に宿った時より一日も欠かさずに書いていた日記を、昨夜は書かなかったことを。

 書くのを忘れていたわけじゃない。書こうと思っていたのだ。

 だが、書かなければ、と思ったところでサトコの記憶はプッツリと途切れている。



 やはり、今まで1人で踏ん張って生きてきた疲れがたまり過ぎているのだろう。

 約1か月前まで、派遣社員として働いていたサトコであったが、あまりにも体調が優れなかったため、派遣会社に登録だけは残しているも仕事はセーブしていた。

 幸いにもアイリと2人でしばらくの間は暮らしていけるだけの蓄えだけはあったし、借金などもなかった。

 

 たった1人の娘・アイリの父親とは、理由があって結婚することができなかった。

 仮に、14年前にサトコが「専務、私、妊娠したんです。奥さんと別れて、私と結婚してください」と、全身全霊でぶつかっていっていたなら、それが道徳的や倫理的に間違っているいないは別にして、自分たちは2人だけではなかったかもしれない……


 けれども、アイリが信じられないほど育てやすい子供であったのは幸運だ。

 穏やかな性質で聞き分けも良く、我儘など言ってサトコを困らせたことなどもなかった。アイリとは性格だけでなく、趣味嗜好も似通っており、まるで1つの魂を2つに分け合って生まれたかのようにも思えた。



 サトコとアイリが、まるで溶け合うように、シングルベッドの中で身を寄せ合った時であった。


 ピンポーンとチャイムが鳴った。まだ、夜明け前だというのに。


「?」


 この家に――自分たちが暮らしているアパートの一室に訪ねてくる者に心当たりは全くない。ここ数年のことを思い返しても、訪ねてきたのは大家さんか、宅配便か、宗教や新聞の勧誘かのいずれかであった。



「おはようございます。隣りのスズキですけど」

 

 玄関からは聞こえてきたのは、お隣のスズキさんの奥さんの声であった。

 スズキさんの奥さんは旦那さんと2人暮らしである。還暦手前ほどの年齢だと推測されるスズキさん夫婦に子供がいるのかいないのかすら、サトコは知らない。さらに言うなら、サトコはスズキさんの奥さんの下の名前は知らない。それに、スズキさんの奥さんだって、サトコの名字は知っていても名前は知らないであろう。


 廊下などですれ違う時に、互いに隣人として挨拶を交わすぐらいで、個人的な付き合いなどは一切ない。サトコも、そして鈴木さん夫婦も、自分たちの間の距離感はそれでいいと思っていたから、数年間、このままの状態が続いていた。

 サトコは、スズキさんの奥さんとは、昨日の夜も、玄関先で顔を合わせ、「こんばんは」と挨拶をかわしただけであった。



「いないんですかぁ。ねえ、菰田さぁん」


 違和感。

 玄関から聞こえてくるのは、確かにサトコの記憶の中にある、スズキさんの奥さんの声だ。

 しかし、外見は町でよく見かけるような中年女性そのものであるも、立ち振る舞いからは中年女性ならではの厚かましさや押しの強さをあまり感じさせなかったスズキさんの奥さんの声に、”昨日までは違う”妙な違和感を感じてしまった。



「……何か御用でしょうか?」

 まだ眩暈の残る体で起き上がり、玄関へと向かったサトコは、扉ごしに問う。


 しばしの沈黙。

「いえ、ちょっと鍵を開けて欲しいなって思って……」

「?!」


 べっとりと粘りつくような声が聞こえてきた。

 サトコの後を心配そうについてきていたアイリの顔にも、サッと怯えが走った。

 

「あの……申し訳ございません。ちょうど眠っていたところでして……」

「そうですか、それは残念です。でも、また来ますね」


 そう言ったスズキさんの奥さんが去っていく足音が、玄関の扉ごしに聞こえた。


 今のは何だったの?

 そもそも、”今のは”本当にスズキさんの奥さんだったのか?

 スズキさんの奥さんのふりをしていた誰かではなかったのか?


 顔を見合わせたサトコとアイリの背中を、ゾワリと冷たいものが隙間なく覆っていく。

 念のため、玄関の鍵のみならず家じゅうの鍵がしっかり閉まっていることを確認したサトコたちは、この日は一日、家から出ることはなかった。



※※※



 しかし、次の日も、夜明け前にチャイムが鳴らされた。

 まだ月の名残が夜空に残っているであろう、こんな非常識な時間の訪問者。


 玄関の扉の向こうから聞こえてきた声は、またしてもスズキさんの奥さんでものであった。

「ねえ、今日は鍵を開けてくださいよ」


 昨日と変わらぬ、べっとりと粘りつくような声。

 サトコの背筋は昨日以上にゾワッと冷たくなり、まるで周りの空気にまでその冷たさが浸み込んでいくようにも思われた。


「申し訳ございませんが、お引き取りください。そもそもこんな時間に迷惑です」


 サトコはきっぱりと断った。

 できるだけ目立たないようにひっそりと、つまりは近所などでも揉め事など起こさないように努めて生きてきたサトコであったが、自分の子供を守るためにも、ハッキリと”迷惑です”と彼女に伝えた。

 しかし、スズキさんの奥さんには”糠に釘”か”馬の耳に念仏”でしかなかったようだ。

 玄関から聞こえてきたのは「そうですか。じゃあ、また、来ますね」という言葉であったのだから。

 


※※※



 よって、スズキさんの奥さんの不気味な訪問から3日目にあたる今日も、全く同じ時間にチャイムは鳴らされた。


「ねえ、今日こそ鍵を開けてください。”私を”家の中に入れてくださいよ」


 おかしい。

 絶対におかしい。

 玄関の向こうにいるのは、明らかに数日前までのスズキさんの奥さんじゃない! 

 まさか、彼女は、何か精神的な疾患を急激に発症したのだろうか?!


 サトコも正直、こんなことはしたくないが、鈴木さんの旦那さんに直接、奥さんの振る舞いに困っていることを伝えた方がいいのかもしれない。

 それに、彼女の振る舞いがこのままエスカレートしていったのなら、最終的には警察を呼ぶ案件になるになるかもしれない……


「菰田さん! いるんでしょお!? 鍵を開けてくださいよ!! あなたは鍵を開けて欲しいんでしょお!?!」



―――!!!


 ついに、スズキさんの奥さんは、玄関の扉をガァンガァンと力の限り叩き出し始めた!!!

 

 サトコは携帯電話へとバッと手を伸ばした。

 もう警察を呼ぶしかない。

 しかし、スズキさんの奥さんは一体、どうしてしまったというのだ?!

 「狂」という文字が、サトコの頭の中で恐怖とともに渦巻き出す。

 大人の自分でも恐怖を感じているのだから、子供であるアイリはもっと怖いであろう。可哀想に。


 

 なんと、外部の助けを呼ぶ何よりのツールである携帯電話は電池切れとなっていた。

 固定電話だって引いていないため、家の中にある電話は”これ1台”しかないのに、いったい、いつから電池切れとなっていたのであろう?

 それに……

 サトコは気づいた。いや、思い出した。


 今の時流に乗ってスマートフォンを使いこなしたいところではあるも、自分1人だけの暮らしなら――両親もすでに揃って鬼籍へと入り、碌に友人も知り合いと呼べる者もいない自分1人だけの暮らしなら、この携帯電話1台で事足りていた。



 だが、アイリは13才の子供だ。

 アイリが本当に中学校に通っていたなら、本当にこの世に存在している子供であったなら、ネットトラブルやネットいじめがとてつなく心配ではありつつも、親として子供に不自由な思いなんてさせたくないため、自分はアイリにスマートフォンを買い与えていたはずだと。

 それに、各々の家庭環境にもよるだろうが、一般的な13才の思春期の娘が、母親と狭いシングルベッドで身を寄せ合うようにして、眠ることなどあまりないであろう。



 まさか……まさか……!!!



「お母さん……”私のこと、分かる?”」

 アイリがサトコへと問う。

 最初の違和感が始まった日と同じ言葉で。


「……もちろんよ。自分の子供を忘れるわけないじゃない」

 サトコも答える。

 娘へと。

 この世で、産声をあげることすら出来なかった娘へと。

 いや、娘が産声をあげることを阻止してしまったのは、他でもない母であるサトコ自身なのだ。



「お母さん、もういいんだよ……お母さんはずっと私のことを思っていてくれた。ずっと1人で、私のことを背負ってくれていた……それだけでもう充分だよ。お母さんは、『自分なんて幸せになる資格なんてない、自分なんて笑顔で生きる資格なんてない、罰として自分はひっそりと朽ち果てるしかない』って、自分の内側にある部屋の中に頑なに閉じこもり続けていた。でも、お母さんは本当は”鍵を開けて欲しかった”んだよね。誰かに鍵を開けて、寄り添って欲しかったんだよね。そして…………お母さんが最期に言葉を交わした人が”スズキさんの奥さん”だったから、お母さんは”鍵を開けて見つけて欲しかった”んだよね?」



※※※



 菰田サトコが1人で暮らしていたアパートの一室の玄関の鍵が、”外側から”開けられた。


「……ここのところ数日、菰田さんの姿をお見掛けしなくてなっておりまして……数日前の夜に玄関先で挨拶したのが最後だったかなと思いますね。もともと近所付き合いのない人でしたから、そう親しくはないんですけど、お1人暮らしの方だし、もし万が一のことがあったらと思いまして……」


 スズキさんの奥さんが言う。

 そう、”本物の”スズキさんの奥さんが。

 心配そうな顔をした彼女の傍らには、このアパートの大家さんの姿があった。


「菰田さん、失礼します。大家ですが、家の中にいらしゃいますか?」

 禿げ上がった頭をひょいと前へと突き出し、丸まりかけている背中をさらに丸めて大家さんが問う。

 だが、”当然ながら”静まり返った家の中からの返事はない。


 ”あちゃー”といった感じで大家さんは顔をしかめる。

 そして、スズキさんの奥さんも、大家さんの表情の意味することが分かったらしく、顔を曇らせた。


「確か、この部屋の人……菰田さんって、まだ40の前半かそこらだったでしょ? 明るい感じの人には見えなかったけど、そんなにおかしい人でもなさそうだったから、やっぱり借金とかで蒸発した可能性は低いよね?」


「ええ、そうですよね。いつも挨拶もゴミ出しも、きちんとされていましたし……本当に普通の人って感じで……実はあの…………私、”菰田さんと中学生ぐらいの女の子が、この家の玄関の鍵を開けて一緒に外に出てくる”という夢を、3日ぐらい続けて見たんです。それも3日とも、明け方のちょうどうつらうつらしていた時に。そんなこともあって、菰田さんのことがとても気になって……」


「ちょっとちょっと、後出しでそういう霊感少女みたいなこと言うのやめてよ。菰田さんには子供なんていないこと、分かってるでしょ。大家にとっちゃ幽霊物件や事故物件とかで面白おかしく噂になったり、ネットに載せられてしまうのが何よりも怖いんだから……」


 菰田サトコの家の中は綺麗に片づけられており、単なる整理整頓上手ではなくもはや殺風景という域に達しているかのようであった。

 生きる楽しみなるものを徹底して排除し、ひっそりと朽ち果てるためだけの場所であるかのように。

 そして、生活感はまるでないのに、どこか埃っぽいうえ、通常は滅多に嗅ぐことなどないであろう独特の臭いが、彼女たちが足を進めるにつれ強くなってきた。


 スズキさんの奥さんは綺麗にアイロンがかかっている百合の花が描かれたハンカチを、大家さんは使い古されて黄ばんでいるうえシワシワのハンカチを、思わず鼻に当てざるを得ないほどの”死の臭い”であった。

 人型に盛り上がっている寝室のシングルベッドへと近づいた彼女たちが見たのは、やはり自分たちが想像していた通りの”菰田サトコの抜け殻”であった。



※※※



 40才の若さでひっそりと孤独死した菰田サトコ。

 遺体には外傷などは一切なかったため、事件性はないものと判断された。


 綺麗に整理整頓されたチェストからは、約14年分にも渡る、死亡推定日の前日までは1日も欠かしていない彼女の日記が見つかった。

 26才の時、当時勤めていた会社の既婚者の上司との間で子供を身籠り、誰にも言わずに中絶したということが、最初に記されていた。

 そして、もともと人付き合いが得意ではなかったも、不倫の末、子供を堕胎したという罪を背負い続けながら生きてきた彼女は、産むことができなかった自分の娘「アイリ」が自分とともに暮らしながら時を重ねていっているかのごとく、日記には書き記していた。


 誰も知ることのなかった秘密の子供。

 アイリは、サトコの罪悪感と後悔が創り出した幻であったのか?

 それとも、この部屋の中で、アイリの魂はサトコとともに生きていたのであろうか?

 


―――完―――

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鍵を開けて【なずみのホラー便 第30弾】 なずみ智子 @nazumi_tomoko

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