第4話 物体

 京都の夜は十月でも冷える。

あたりは暗くなり、"鴨川名物・カップルの等間隔" もずいぶんと広がっていた。


 俺は足早に人並みをそそくさと抜けていく。


 あれから優に二時間は経ったが、いまだにあのコーヒー店から半径五百メートル以内をぐるぐると練り歩いていた。


 店を出た後、俺の怒りは二分も継続しなかった。

怒りは光の速度で焦りへと変わり、不安と融合。さらに後悔へと形を変えてあっさりと俺の元へと返ってきた。


 高校生の時、好きだった女の子に好きな男子のタイプを聞いた。その女の子はプライドがある人と答えた。

あんなに自分自身を肯定した日はなかった。

そして、その工程を全て捨てたい日が今日である。


「どこか遠くへ行きたいな」



「どこか遠くへ行きたい」

 それを思う前に、何か想うことがあるやろ

「あれをこう言っていたら」

 結果が全てと言ったのは誰や?

「やっぱ、あれは嘘や」

 最低やな

「すまん」

 ほんとに言えるのか?


 このやり取りを二十周も三十周もくり返している内に、何がプライドで俺は何がしたいんだと心の中で何度も叫んだ。


「たった一言だ!謝りに行こう」

 出した答えを胸にコーヒー店に何度も近づくが、その度に俺のプライドは「それは雑念」だと、都合のいい指令を送り続けた。


 思わずニヤッと笑ってしまった。失笑か苦笑いか。

 俺は、ただいま絶賛クズだ。


「あー遠くへ行きたい」


 願い事は叶う



 反抗期のように、無尽蔵に湧き上がってくる負のエネルギーの発散場所が見つけらいままの俺は、足早に人ゴミを抜けていく。


 鴨川、三条寺町、四条河原町、鴨川。

 円を描くように何度も何周も、早足で歩き続けた。


【蛸薬師】


 ふと、青と白の案内標識が目に入った。


 京都初心者の人は読みづらいだろうが《たこやくし》と読む。ついでに烏丸も《からすま》だ。

 以前、街中で観光客と思われる20歳くらいのカップルが俺の前を歩いていた。

彼氏と思われる男は「これは "鳥" に見えるけど、よく見たら四角の中に横棒がないだろ?だから『カラスマル』だよ」と自慢げに話をしていた。

 俺は2人が、がっちり繋いでいる手のゴールテープを切り、彼らの前に立ちはだかり漢字の授業を始めてやろうかと思った。

 もちろんやってはいない。



 早足を緩めると、肩甲骨から背骨のくぼみに沿った一滴の汗が仙骨あたりまで滴った。


 歩行者のみが通れる道路の真ん中に、いかにも休憩してくださいと言わんばかりに植樹されている一本の木を見つけた。

 木の根の部分は三段くらいの石段が円形状に積み重なって覆われている。


 自然と引き寄せられるように俺の足はそちらへ向く。


 疲労困憊のため息を吐いて思い描いた通りに腰を掛ける。


「フーッ」


 両腕を後ろに突き出して、上半身を少し反らす。両腕は土の上。

 全て自分のせいで重くなった頭も少し反らす。頭頂部が木の幹に触れる。


 口の中で少し鉄分の味がした。かすかな緑の匂いに嗅覚も反応した。


 なんとなく右手を見た。

手をあげたら土が掌にくっついてるんだろうな、と想像できた。


(あとで、あそこで洗えばいいか。)

 この近辺では唯一トイレが使用できるコンビニの外観を思い浮かべながら、右手を少し浮かし、掌に付いた土の気配だけを感じてまた下ろした。


 左手も気になった。

同じような土の気配と一緒に、

「土の気配?」という感じを覚え、左手を反射的にビュッと上半身へ引き戻した。


 時間的には0.数秒


 田んぼの石を上げた時、予想だにしない無数の虫に出くわした時の様なゾクっとした感情。


「えっ...」


 反射的に戻した左手と同時に、視線は元々あった左手の場所へと移動した。


 土に浮かんだ左手の跡、より先に視覚が捉えた情報は「緑色の物体?」


 視覚からの情報を光速で脳が受信した。

 今までの経験や知識から、その物体とは。という答えを導き出すと同時に、今度は脳が「危険だ!」という情報を全身に向けて一斉送信した。

 俺は反射的に立ち上がり、身体が「安全だ」と感じる一定の距離をとっていた。


 ここまでは数秒の出来事。


 雨上がりの公園、座ったベンチがまだ乾ききっていなかった場面と同じような時間感覚。


 距離を置きつつも半分のけぞった上半身から、先ほどと同じ場所に視線をおろすと間違いなく緑色の何かがあった。


 少し光っている?

 粘り気もありそうだ、、


 意外と冷静な俺の精神状態に、逆に不安になりつつも左胸あたりを右手で覆ってみる。


 凄い速さの心拍数と、尋常ではない汗。

 心配はいらない。しっかりとビビっている。


「なんや...?」

 うっすらと白い息が視線の前を下から上へ通り過ぎる。


 おそらく、通り過ぎるほとんどの人が俺を見ていたに違いない。街中の道路の真ん中で中年大男が目を点にして佇んでいたわけだから。


 漫画のような生唾を飲んだ俺はハッとなって顔を上げた。

 奇妙な目で俺を見てた彼らは、まるで合図があったかのように目を逸らし、各々の日常生活に戻った。


(そりゃ皆、見てくるか。街中の道路の真ん中で中年大男が目を点にして、佇んでるんやから...)


「...」

「なんで、皆この緑色を見いひんのや?!」


 緑色が何なのかという問いは、なぜ皆がこの物体に気づかないのかという疑問に切り替わった。そう考えると、躊躇なく物体を直視することが出来た。


 ・物体の色

 緑色・少し光っている

 ラメの様な少しドロドロとしているようにも見える

 ・物体の匂い

 ない

 ・物体の形

 規則的な丸や四角ではなく不規則な自然物の形

 昔、実家に置いてあったバランスボールを1/10くらいにした感じ



 とてつもなく気になった。

 この物体が何なのかではない。なぜ周りの人たちがこの物体に視線を送らないのか。


 俺はその物体を凝視しながら、触る、触らないの押し問答を頭の中で一通りした後、植樹の周りを数周、物体の前で右往左往を数往復。

時間にして二、三分くらいだろうか。


 俺は足を止めて物体の前に仁王立ち


 ふふふっと溢れだした笑み。唇の右側と右口角が45度引っ張り上がるのを感じながら、フーと一呼吸


 二拍おいた後

「ダーーー!!」


 今日の全ての出来事が、もうどうにでもなれ!というあきらめを後押しして、人生で最高の「もうええわ!!」を帯びた右腕を振り上げ、正体不明微光緑色のその物体へ振りかざした。


 俺の直感ではこうなるはずだ。

 この物体を握りしめる。この道路の左手にあるたこ焼き屋で、せっせとたこ焼きを焼いているアルバイトらしき青年に「これ見えますか?!」と差し出す。

 仮に、温度が著しく高温または低温で握れなかった場合でも、持った瞬間に感情のまま声をあげ、道路の真ん中に投げつける。道路の真ん中にこんな得体の知れない物があれば誰だって避けるはずだ。



 物体の前に仁王立ち、溢れだした笑みと右45度に引っ張り上がった口元からフーと一呼吸。二拍おいた後、


「ダーーー!!」


 人生で最高の「もうええわ!!」を帯びた振り上げた右腕を、正体不明微光緑色の物体へと振りかざした手は、その物体に触れたと同時に俺は消えた。

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