2番目の恋人

月波結

2番目――sideA

 好きになってしまうことって避けられないと思う。ある日、目と目が合って、隣り合って、その手に触れてしまったりしたらもう止められない。想いはただ溢れ出るばかりだ。


 わたしと佐山くんの始まりもそうだった。


 大学に入ってすぐ、学科のオリエンテーションで番号順に並んだ時、わたしの後ろが佐山くんだった。資料を回す時に知らない人だからちょっと緊張して、ささっと回してしまおうと思ったんだけど受け取ったその手があまりに魅力的でつい、止まってしまった。

「どうしたの?」

「あ、いえ。なんか緊張しちゃって」

「するよね。知らない人ばっかだし」

 顔を起こすと、佐山くんはにこっと人懐こい笑顔でこう言った。

「オレは佐山岳さやまがく。君は?」

香坂こうさかみのりです。よろしくお願いします」

「敬語とかいらないから。もう知り合ったんだし緊張しないで」


 わたしはすっかり彼の言葉にまいってしまって、大学生活はバラ色に見えた。佐山くんはその爽やかで物事に動じない、こだわらない性格でわたしを魅了した。




 まずいことなのはわかっていた。

 でも気持ちというのは体の言うことを聞かない。脳みそが一生懸命、「やめようよ」とがんばっても、どんどんどんどん、佐山くんに傾いて行った。


 佐山くんがわたしを「みのり」と呼び捨てにするのにそれ程時間はかからなかった。わたしは依然、「佐山くん」を「佐山くん」と呼んでいたけれど、彼は親しみを持って「みのり」と呼んでくれた。

 周りの男子も女子もわたしたちの仲を疑ったけれど、疑われるようなことはその時点では何も無かった。呆れるほど何も無かった。

 それでいいんだよ、とわたしはわたしに納得するよう声をかけたけれど、心はひどく痛んだ。




 前期試験が始まる前にみんなでノートを貸し借りして、レポートの参考文献を回しまくった。わたしも佐山くんも、ごちゃまぜにいろんな人と貸し借りした。

 図書館の同じテーブルで、グループで珍しく勉強をする。学生なんてテキトーで、こんな時でもないと集まって真剣に勉強なんてしない。誰かが、「疲れたー、休憩にしない?」とテーブルに突っ伏してそう言って、「じゃあ学食行ってちょっと食べよっか」と男の子たちはそう言った。そもそも男の子たちはバリュー価格の第一食堂いっしょくに生息していて、女の子たちは、男の子に言わせるとちょっとだけ洒落たカフェテリアを利用していた。ところがその日は女の子たちも面白がって一食に行こうと言い始めた。一食のカレーも豚汁も、具が入ってないことで有名だったのでその試食会となった。

「みのりも行くんでしょう?」

 と誘われたけれど、

「ごめん、この後用事があって帰るから」

 と断った。アユミちゃんは「残念」と言って、みんなの後について行った。ふうっとため息をついて荷物を持って立ち上がろうとすると、わたしの斜向かいにいた佐山くんはまだそこにいた。

「佐山くん、行かなかったの?」

「うん、オレもバイトあるから」

 彼はさりげなく自分の荷物を持って、わたしに合わせるように立ち上がった。ふたりきりはドキドキする。いくら呼び捨てにされる仲になったと言っても、わたしと彼だけの空間はやけに温度が高かった。

「みのり、荷物すげーな。持ってやるよ」

「や、大丈夫だよ。テキストいっぱいなだけ」

「ちゃんと家でも勉強しろよな」

 と冗談を言うと、彼はひょいっとわたしの手から荷物を取り上げた。その時ふたりの手がほんの少しだけ触れ合ってしまって、「あー、これはいけない」と思った。思ったんだけど……。

「持ったらまずかった?」

「ううん、ありがとう」

「駅まで一緒だろう?」

 どこまでもジェントルな彼は駅までの道のり、重い荷物をふたり分持って歩いてくれた。もうこれは本当にいけないパターンだ。胸の鼓動が高鳴るとかそういう次元ではなく、神様はわたしたちをそういうふうに巡り合わせたんだ。

「……手、繋いでもいい?」

 セミの声がわたしたちを遮るように大きく響く。

 ふと触れ合った手の感触を思い出す。

「ふたつも荷物持ってるのに、わたしの手まで繋いだらもっと重くなるよ」

「やっぱ、迷惑か」

「迷惑なわけじゃない、けど」

「呼び捨てとか、馴れ馴れしかった? 女の子ってよくわかんなくて」

 わかんなくて、と言う彼の横顔が少し寂しく、叱られた子供のようで、そっと手を差し出す。

「……繋いでくれる?」

 そう言うと彼は荷物を持ち直してわたしの手をそっと取った。まるで宝物のように。




 わたしの佐山くんへの想いはじわじわと熟しながら腐っていく果実のようで、それは芳醇な香りを醸しつつ、美味しいお酒なんかには決してなりそうになかった。熟せば熟すほど、この想いがダメになっていくような気がして落ち込むしかなかった……。




 夏休みは最後のレポート提出と共にやってきて、学科の仲良しグループで伊豆の海に遊びに行くことになった。ビュー踊り子は車窓から伊豆の青い海がずっと見渡せて、電車での旅行なんか、なんてとても思えないほど快適だった。

 宿に着くととりあえず荷物を置いて、海へ飛び出した。男の子たちは女子の水着姿を検分して、女の子たちを怒らせた。佐山くんは戸惑いながらみんなのジョークに薄く笑っていた。そんな佐山くんをわたしは見ていた。


 ご飯をたらふく食べて、男の子たちがご飯をお櫃ごとお代わりした後、お腹いっぱいになってみんなだらけたムードになった。伊豆の外れの民宿ではWi-Fiも繋がらず、それでもだらだらとスマホを弄ったりしていた。わたしも入っていたメッセージにレスをつけていた。

「みのり、ちょっと歩かない?」

 さも自然な成り行きというように佐山くんがわたしを誘いに来る。ちょっと待ってね、とだらしなくなった浴衣を直し、半乾きだった髪を結び直す。彼はそれをそっと見ていた。


 夜の海辺を歩く。

 波音だけが目に見えるようで、波頭はうっすら発光していた。ざざーんと波が浜辺を打つ度、ぶわっと風が起こった。髪の毛が潮風に湿っていく。

「手、繋いでもいい?」

 きちんと答えることができない。何か喋ろうとしたけれど、小さく「あ……」と言ったきり、声はつかえて出てこない。

「やっぱ、ちゃんと言わないとダメか。この間、手を繋げて一人で勝手に盛り上がっちゃって」

「……ダメじゃないんだけどね」

 ん? という顔をして彼はわたしの手に、その手を差し伸べる。心がキリリと痛む。内側からわたしを責めている。

「初めて会った日から好きなんだ」

「ありがとう」

「つき合ってくれない?」

「佐山くん、わたしでいいの? わたし鈍感だし、傷つけたりするかもよ」

「……みのりなら、何でもいい」

 繋いでいた手をぐいっと引くと、その軽い力でぽんとわたしを優しく抱きしめた。ふたりともじっとり汗ばんでいたけれど、イヤじゃなかった。むしろ、彼を好きだった。


 ――佐山くんを好きだっていう気持ちは宙ぶらりんだ。


 その夜、短い恋を抱いてその迫る重さに怯えながら布団に入った。神様は意地悪だ。こんなに彼が好きだなんて。




 翌朝はわたしから彼を誘った。

 寝る前に覚悟をして彼のスマホにメッセージを送った。彼がそれに気がついたなら、朝早い海が見える民宿の入口に彼は立っているだろう。


「朝の散歩?」

 真夏の朝に似合う、少しだけ悲しい朝顔のような笑顔を彼は浮かべているように見えた。パッと開いた花は、昼には萎んでしまう。

「うん、行こう?」

 躊躇うことなく手を繋いで歩く。昨日、何も見えなかった海は、空と手を組んで共に水色を纏い寂しかった。べっとりと肌に絡みつく潮風の中を、一寸先の岩場まで並んで歩いた。髪が風に飛ばされる。

「なんか、静かだね」

「元々あんまり喋らないよ?」

「みのりは大人しいよね」

 微笑んでその指先でわたしの頬についた髪を除ける。その指先が風に吹かれて少し冷たい。

 わたしたちの距離は滑るように近づく。頬から顎に辿られた指先が、ごく自然な流れで唇をなぞる。いけないことなのに、彼を感じて唇をそっと薄く開く。……受け入れてしまっていいのかしら? いいわけがないじゃない、と思いつつ、時は止まらない。もう気持ちを固めてきたのに。


 口づけを、してしまった。

 それは思っていた以上に甘美で、どれだけ彼を想っているのか、思い知らされてしまう。ただ触れただけのキスひとつなのに、彼の全てがなだれ込んでくる感じがした。

「……すごく好きなんだ」

「その話をしたくて。昨日はいいよって言っちゃったんだけど、やっぱり」

「ああ、考えたらダメだったとか? でも、もう一回考え直してほしい。オレ、みのりしか考えられない」

 そうなるよね、と下を向く。どんなふうに気持ちを伝えたらいいのかわからない。狡いけど、涙目になってくる。

「騙したみたいでごめん。わたし、彼が、彼がいるの。ずっとつき合ってる……」

「……あー、みのりくらいかわいかったらそうだよな? 先に確かめるべきだった。悪い、オレが勝手にこんなに好きになっちゃって」

「違うの。わたしも佐山くんのこと、好きになっちゃって、それでずっと……。佐山くんのことがほんとに好きなの。でも何回考えても彼と別れるのは無理で」

 気がつくとさっきまでゼロだったわたしたちの間には潮風が吹き抜ける距離があった。繋いでいた手が、もう離れてしまっていた。

「ああ、そうか。……みのりが辛くならない方がいいよ、オレにとっては。って、カッコつけ過ぎだよな。奪っちゃえればいいのにさ」

「ごめんなさい」

 帰ろう、と彼はわたしを促してわたしは彼のあとをついて歩く。縮まったふたりの距離は永遠に縮まることはないように思えた。



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