第13話 初恋の記憶

 夜の十時くらいだろうか。

 

 父さんと僕は家の車まで、彼の事を連れて行った。

 

 彼は、僕のお父さんに頭を下げた。


「こんな時間まで、すいません」


「気にする事はない。知らない家にいたわけじゃないんだ。君のご両親もきっと、この方が安心する」


 父さんは、助手席のドアを開けた。


「乗りなさい」


「はい。有り難う御座います」


 二人は、車の中に乗った。


 六道君は、助手席の窓を開けた。


「片瀬」


「ん?」


「本当に良いのかい? 彼女の事を」


 僕は、彼の耳元に(父さんに気付かれないよう)顔を近付けた。


「彼女の唄は、みんなのモノだからね。僕だけが独り占めするのは、良くない」


「そっか」


 彼の目が潤んだ、気がした。


「ありがとう」


「充電器は、忘れていない?」


「うん、ちゃんと入っている」


「そっか」


 父さんが、僕達の会話に割り込んだ。


「もう良いか?」


「はい」


 父さんは、家の車を走らせた。


 僕は、そのテールライトを見送った。テールライトが道の角を曲がった時も。そして、その光がすっかり見えなくなった時も。僕は正面の道路から視線を逸らすと、真面目な顔で家の玄関に戻った。玄関の前では、母さんが僕の帰りを待っていた。

 

 僕は、家の中に入った。


「帰ったよ」


「そう」と、少し残念そうな母さん。母さんは、僕の前から歩き出した。


「明日は、学校なんだから。今夜はもう、お風呂に入って寝なさい」


 僕も、家の風呂に向かって歩き出した。「うん、そうする」


 僕は、家の風呂に入った。家の風呂は、温かかった。そのお湯から上がって、自分の部屋に戻った時も。その感覚がしばらく残り続けた。

 

 天道寺さんは、僕の寝間着姿(ジャージだ)に微笑んだ。

「行ったの?」


「はい、行きました」


「寂しくなりますね」と、理穂子さん。「彼女がいなくなると」


「うん」


「でも、良かったんじゃない?」


 天道寺さんは、ニヤリと笑った。


「これで彼女の」


「天道寺さん」


「なに?」


「その……色んな感情が台無しになるので、そこから先は」


「そう」と、落ち込む彼女。「グスン」

 が消える前に……僕は、部屋の電気を消した。

 

 天道寺さんは、その行動に驚いた。


「もう寝るの?」


「いえ、まだ。今夜はちょっと、考えたい事があるんで」


「……そう」

 の声が、少し寂しかった。


「理穂子さん」


「はい?」


「あたし達も、電気を消そうか?」


「そうですね」

 

 二人は、部屋の電気を消した。


「片瀬君」


「はい」


「お休みなさい」


「おやすみなさい」


 僕はベッドの上に寝そべって、「六道君の顔」をゆっくりと思い返した。



 彼女は俺の、初恋の女子(ひと)だった。

 俺と同じ小学生に通う、とても小さな女の子。彼女は、俺の同級生だった。俺が五年生の時、たまたま一緒のクラスになって。

 俺は、隣の彼女に好感を覚えた。彼女の態度には……こう、「計算」と言うモノが無かったから。話していて、凄く楽だったんだ。周りの女子達とは、違って。

 周りの女子達は、文字通りの「魔女」だった。好きな人の前ではニコニコしているくせに、嫌いな相手が自分の目に入ると……くっ。彼女達の悪口は、今でも忘れない。彼女達は平気で、その相手を嘲笑った。その相手がいない時はもちろん、「それ」が目の前にいる時も。彼女達は決して、その暴言を止めなかった。

 俺は、その光景に苛立った。たとえ、自分には関係のない事でも。自分の友達が罵られる光景は、見ていて気持ち良いモノじゃなかった。

 俺は、自分の席から立ち上がった。「彼女達の暴言を止めよう」と、友達の制止を振り切って。だが……くっ。彼女達は、俺の注意を聞かなかった。「それは、君の誤解である」と、「あたし達はただ、ふざけ合っているだけだ」と行って。彼女達は、僕の注意をまったく受け入れなかった。

 俺は、その光景に愕然とした。他人の注意をまさか、ここまで聞き入れないなんて。彼女達の親は一体、何を教えているんだろう? 彼女達には、人の痛みが分からないんだろうか? 他人の心を無意識に傷付ける、くっ。

 俺は、周りの女子達を嫌悪した。それに加担する男子達も。彼らは俺の顔を見下ろすと、楽しげな顔で「馬鹿」と見下した。

「なーに、正義の味方気取っているんだよ?」

「学校中の女子から告られたからってさ!」

「お前、自分の事を『王様』とか思っているの?」

 俺は、彼らの言葉に苛立った。彼らが罵る対象にも、そして……。俺は、彼らの事を殴り付けた。どっちが最初にやったのかは覚えていないけど……気付いた時にはもう、地面の上に倒れていた。

 俺は、自分の事が悔しくなった。「どうして、こんなに弱いんだろう?」と。もっと強ければ、「友達の仇が討てるのに」って。俺は、地面の上から立ち上がろうとした。

 その時!

 その時の事は、今でも覚えている。俺が太陽の光に目を細めた瞬間、「彼女」が地面の俺に手を差し伸べたんだ。「大丈夫?」って。俺は、彼女の手を掴んだ。本当は掴みたくなんかなかったのに、俺が彼女の手を握った時にはもう、何故か地面の上に立ち上がっていた。

 俺は、彼女の目から視線を逸らした。友達の彼女に、今の姿を見られたくなくて。俺は、彼女の前からいなくなろうとした。でも……でも、うん、「女の子」ってのは、どうしてあんなに強いのかな?彼女は、俺の腕を掴んだ。俺の腕を決して放さないように。彼女は俺の体を引き寄せると、優しげな顔で俺にこう囁いた。「彼らの事を恨まないで」と。

 俺は、その言葉に苛立った。「どうして、そんな事を言うんだ!」って、彼女達にやられているのに。彼女は、クラスの女子達から酷い扱いを受けていた。自分の上履きを隠されたり、あるいはその上履きを捨てられたり。彼女は、その行為をじっと耐えていた。

 俺は、彼女の肩を掴んだ。

「君は、悔しくないのか?」

「悔しい?」

「そう、『アイツら』にやられて。君も!

「ワタシは」

 悔しくない、と、彼女は答えた。

「みんなの事を恨んでも仕方ないし、それに」

「それに?」

「ワタシは、そう言うのが一番嫌いだから。誰かの事を恨むのも、そして」

 その誰かから恨まれるのも。

「ワタシは、みんなの事が好きだよ? みんなと一緒に」

 俺は、彼女の肩から手を退けた。今の言葉があまりに純粋すぎて。俺は彼女の言葉にしばらく項垂れると……まあ、こう言いたくなるのも分かるよね? 目の前の彼女に「それじゃ」と聞いた。「俺は一体、どうすれば良いの?」

 彼女は、俺の質問に「クスッ」と笑った。「人の幸運を祈れる人になって」

 俺は、その言葉に胸を打たれた。人の幸運を祈れる人になる……それはつまり、彼らの罪を「許せ」と言う事だ。多くの不幸を取り巻く、彼らの罪を。

 俺は、その願いにしばらくうなずけなかった。

「う、ううう」

「お願い」

 の言葉に折れた。

「分かったよ。でも」

「うん?」

「君と同じには、ならない。俺は俺のやり方で、人の幸運を祈る」

「分かった。ありがとう」

 彼女は「ニコッ」と笑って、俺の頬から手を離した。

 俺はそれ以後……本当はずっと前から見ていたのに、彼女の事を目で追うようになった。彼女がクラスの女子に虐められている姿を、そして、その彼女が自分と同じ境遇のクラスメイト達を慰めている姿を。

 彼女は、不幸な被害者達を癒し続けた。俺が見ている目の前で、「これが慈悲だ」と言わんばかりに。彼女は決して、その行為を止めなかった。

 俺は、その光景に胸を痛めた。「彼女はああして、他人の心を救っているのに。俺は一体、何をしているんだ?」と。俺には、周りを救う力が無かった。それを物理的に止める力はあっても、その心を癒す力までは無かったんだ。

 俺は、彼女の力を羨ましく思った。「自分にも、ああいう力があったら」と。そして……その気持ちに気付いたのは、彼女が一人の女子を抱きしめた時だった。彼女は優しげな顔で、相手の頭を撫で始めた。

 俺は、その姿にドキッとした。「彼女は」

 そう、俺が守らなきゃならない。みんなの心を支える、彼女を。俺には……。俺は校舎の裏に彼女を呼び出すと、彼女に有りっ丈の気持ちをぶつけた。

「俺は、君が好きだ。君の見せる優しさも、君が掻き上げる前髪も。みんな、君の全てが好きなんだ」

 俺は、彼女に頭を下げた。

「『付き合ってくれ』とは、言いません。でもどうか、俺の彼女になって下さい!」

 彼女は、しばらく何も答えなかった。

「ごめんなさい」

 を聞いて、頭の中が真っ白になった。

「彼女には」

 俺は、その返事に苦笑した。

「そうだよね。俺なんかが」

「違うの!」

「え?」

 彼女は、俺の肩を掴んだ。

「そう言う事じゃないの! ワタシは」

 彼女の瞳が震える。

「こらから言う事、『誰にも言わない』って約束できる?」

 僕の答えは当然、「もちろん」だった。

「約束する。絶対に言わない」

 彼女は「そう」と笑って、自分の秘密を話し始めた。

 俺は、その話に愕然とした。

「『あと半年しか生きられない』って! それは」

「うん。ワタシも、良く分からないけど。なんか、遺伝子の病気らしくって」

「治療法は、無いの?」

「うん」

「それじゃ!」

「うん。ワタシは、絶対に助からない」

 俺は、彼女の病気に腹を立てた。

「どうして?」

 どうして、彼女だけが? 彼女は、みんなの心を救っているのに。

 俺は、喉の嗚咽を飲み込んだ。

「悔しくないの?」

「え?」

「君だけがこんな目に遭って。俺は、死ぬ程悔しい。自分の好きな人が」

「ありがとう」

 彼女は、俺の涙を拭った。

「やっぱり、君は優しいね。だからワタシは、君の彼女にはなれない。これから死んでいくワタシには」

「そんな事、関係ないよ!」

 俺は、彼女の肩を掴んだ。

「これから死んでいく人が、彼氏を作っちゃいけないのか!」

 彼女は、その言葉に涙を流した。

「ありがとう。でも」

「なに?」

「それじゃ、君だけが」

「『悲しむ事になる』って? 冗談じゃない! 悲しいのは、君も同じじゃないか?」

 俺達は、互いの目を見合った。

「そうだね」

「そうだよ」

 彼女は、俺の手を握った。「お願いします」

 俺も、彼女の手を握り返した。「こちらこそ、お願いします」

 俺は、彼女の笑顔にうなずいた。

 それからの日々は、本当に最高だった。二人で色んな所に行って……今日の昼間に行った喫茶店も、その時に見つけた店だった。彼女は一目でその喫茶店(みせ)を気に入り……学校が休みの日には、二人で良くその店に行った。

「うっ」

 彼女が死んだのは、それから半年後の事だった。彼女は自分でも言っていた通り、比喩的な言葉を使うなら「真っ白な世界」に旅立ってしまった。

 俺は、その現実に悲しんだ。どんなに覚悟していても、「人の死」って言うモノはやっぱり辛いからね。しばらくは、何も考えられなかった。学校の授業も、上の空。授業中に彼女の事を思い出すと、担任の先生から「コラッ」と叱られた。

 俺は、自分の心に喝を入れた。これ以上悲しみ続けたらきっと、天国の彼女が「心配する」と思ったから。俺は、自分の顔を殴り付けた。

「彼女の事は、今も時々思い出す。あれから三年が経った今でも。彼女は、永遠の五年生だから。俺の小学校時代を知る、掛け替えのない。片瀬」

「なに?」

「彼女の事は、大切にしろよ?」

「それは、当然! 理穂子さんは、大切な人だから」

「す、進くん」

「うわぁ、顔が真っ赤だぁ」

「ちょ、こころちゃん!」

「えへへ」

「可愛い笑顔だね」

「ふぇ?」

「可愛い?」

「うん、今の笑った顔が。死んだ彼女に良く似ている」

「……」

「……」

「……」

「ねぇ?」

「なに? 片瀬」

「こころちゃんは……その、君の彼女に似ているの?」

「うん、声や雰囲気は違うけど。彼女を二次元にしたら、たぶん」

「こんな感じになる?」

「はい。俺の感覚では」

「そう」

「……」

「……」

「……」

「ねぇ、こころちゃん」

「なーに、スーちゃん?」

「君がもし、嫌じゃなかったら。彼の家に行って貰って良い?」

「え?」

「それは、俺に対する同情かい?」

「違うよ」

「なら!」

「これは、僕の相談に乗ってくれたお礼。今の僕ができる」

「片瀬」

「彼女の歌は、本当に素敵だよ。僕も、その歌に何度も救われた」

「う、くっ」

「こころちゃん」

「……良いよ」

「え?」

「この人の家に行って! ワタシは」

「ありがとう。あとは」

「くっ! 遠慮しても、どうせ聞かないんだろう?」

「まあね」

「片瀬は、以外と頑固だな」


 僕は、自分の記憶から意識を戻した。部屋の天井を見つめる、自分の視線と共に。僕は両目の瞼を閉じると、真剣な顔で一週間後のデートを考えた。

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