夜の魔法

 失恋や私たちの喧嘩なんて、もちろん周りの人には何の関係もなくて。心が壊れそうなのに、関くんは相変わらず近くにいて一緒に仕事をするというのは辛くて痛いものだった。しかも、それを悟られてはいけない。亜美ちゃんは心配そうに私を見てきたけれど、喧嘩したことだって言えなかった。……まぁ、私の顔でバレていたと思うけれど。

 仕事が終わって、一番気になるのは関くんが今日帰ってきてくれるかということだった。ちゃんと謝りたい。話したい。でも、話しかけるのもメールをするのも怖い。もう嫌われちゃったって、知るのが怖い。

とりあえずスーパーに寄ってご飯を作ろう。もちろん関くんの分も。

食欲がなくて、昨日関くんが買っておいてくれたお惣菜も食べられなかったし朝ご飯もお昼ご飯も食べていない。お腹は空いている気がするけれど、それさえも麻痺してよく分からない。でも、ご飯を食べないと。

 スーパーで買い物をして外に出ると、私を嘲笑うかのように空には星がたくさん輝いていた。この前は関くんと見ていたのにな、そう思うと孤独感が増すから必死で首を横に振った。関くんに、会いたいな。


「おかえり」


 そんな私に、横から声がかかった。 思わず期待して振り向いて。私は慌てて家路に着いた。


「っ、ちょっと、ちょっと待って辻さん!」


 声をかけてきたのは根岸くんだった。昨日無理やりキスをされたから、警戒して必死で逃げる。関くんに、隙があるからあんなことされたんだって言われたし。でも、根岸くんは簡単に追いついて私の腕を掴んだ。必死で振り解こうとしても、手は離れない。


「逃げないで辻さん」

「っ、いや、」

「もしかして、彼氏と喧嘩した?」

「……!」


 何で笑ってるの……?


「喧嘩……、喧嘩、なんかじゃ……」


 ああ、もう。絶対に根岸くんの前で泣きたくないのに。涙が滲む。目の前がユラユラと揺れて、歯を食いしばった。その隙に腕を引かれて、顔を覗き込んできた根岸くんの顔も滲んでしまった。


「泣いてる」

「泣いてない」

「泣いてるよ」

「っ、泣いてないってば……!」

「恋愛にそんなに必死になるからだよ」


 まるで蔑むような口調に、私はまた唇を噛んだ。


「あんたの彼氏、あんたのことすっげー好きなんだね」

「……っ」

「俺にはこんな地味な女のどこがいいのか、全く分かんないけど」


 今までの口調と全く違う。涙がみるみる引いていって、やっと見えた根岸くんは冷たい目で私を睨んでいた。


「今日、どこで聞いたのか俺の職場まで来てさ。七瀬さんに近付くなだって。馬鹿みてぇ。キスしただけじゃん?」

「……っ」

「でも、あんたが泣くの嫌なんだって。つーか、泣いたの彼氏のせいでしょ」


 関くん……。今日私、あんなこと言っちゃったのに。あんなこと……。また視界が涙で滲む。


「だから言ってやった。もう近付かないって。だって俺、別にあんたのこと好きじゃないし」

「え……」

「高校の時も知らなかった。あんた本当にいた?」


 衝撃だった。でも、やっぱりそうか、とも思った。あの根岸くんが私を覚えているはずない。ショックより先に、納得した。


「えっ、じゃ、じゃあ何で私に……」

「俺の従姉妹の真理があんたの彼氏のこと好きなんだ。それであんたを誘惑して別れさせてくれって」


 真理。関くんのことを好きで、私のことも知っている人。全てが頭の中で繋がった。


「……なんで?」

「え?」

「なんで教えてくれたの?その従姉妹のこと、大事だからこんなことしたんでしょ。なのにそんなこと私に言っていいの?」


 根岸くんは眉間に皺を寄せて見たことのないほど不機嫌そうな顔をした。え、な、何か変なこと言った?と不安になったけれど。そもそもここはどちらかと言えば私が怒るほうだよねと思い直した。根岸くんを見つめ返せば、根岸くんは深いため息を吐いて口を開いた。


「……ムカつく」

「え?」

「なんで恋愛にそんなに一生懸命になんの?あの関って人のどこがそんなにいいの?」


 一生懸命に、見えるんだろうか。確かに私は関くんが初めての彼氏だし、嫌われたくない、幻滅されたくない、だから好きでいてもらえるように努力はしたいと思う。でも、それでも根岸くんの言っている言葉の意味はよく分からなかった。


「……あんた、高校の時俺のこと好きだったんでしょ」

「え、えええ、あの、」

「なんで高校の時、俺に必死になってくれなかったの」


 まるで拗ねるような口調で、根岸くんはそう言った。自然と高校生の時のことを思い返す。私は根岸くんを見ているだけでいいと思っていた。華やかな世界にいた人だから、私が彼の視界に入りたいと願うことなどおこがましいと思っていた。もし付き合えたらと妄想したことはある。でも、届くなんて思ってなかった。

 じゃあ、関くんは?関くんだって普通にモテるだろうし、あの日出会っていなかったら一生縁がなかっただろう。それに、二年前に私は一度彼から逃げている。今私が関くんといられるのは、


「関くんだ……」


 関くんが、追いかけてくれたからだ。


「は?」


 怪訝そうな顔をする根岸くんに、私は口を開く。どうしてだろう。関くんのこと、すごく好きだって改めて実感してる。


「関くんだから」

「……」

「関くんだから私、もっと綺麗になりたいと思う。いい彼女でいたいと思う。幸せにしたいと思う」


 関くんが追いかけてくれたから。私は大好きな人に抱き締めてもらう幸せを知った。頭を撫でてもらった時のドキドキを知った。手を繋いで眠る安心を知った。体を重ねる優しさと温かさと切なさを知った。私が一生懸命に見えるならそれは、相手が関くんだからだ。


「……ごめん、私行かなきゃ」

「……」

「教えてくれてありがとう、根岸くん!」


 私は根岸くんに手を振って走り出した。怖がっている場合じゃない。私は関くんを好きになったこと、絶対に後悔なんかしない。

 走りながら関くんに電話をかけた。緊張で喉がカラカラだ。もし出てくれなかったら。もし今、横谷さんと一緒にいたら。ネガティブなことを考え出せばキリがない。でも、それでも……


『もしもし』

「……!」


 出て、くれた……。鼻の奥がツンとして、涙の味がする。ちゃんと喋りたいのに、止まらない。


「っ、せき、くん」

『……』

「ごめん、なさい」

『……』

「わかれたく、ないよお……っ」


 酷いこと言ってごめんなさい。本当にごめんなさい。お願い。もっともっと、関くんのそばにいさせて。


『……七瀬さん』

「っ、うう、う」

『泣きながら走ると息できなくなるからやめたほうがいいよ』

「っ、え……」

『七瀬さん』

「な、なに……」

「ごめん、好き」


 電話の向こうから聞こえた声と、後ろから聞こえた声がシンクロした。ふわりと抱き締められた時、すぐに関くんだと分かったのは関くんの香りがしたから。私と同じ、シャンプーの匂い。密着している背中から関くんの鼓動が聞こえる。関くんの息が荒いのは、追いかけてくれたからだろう。


「関、くん……」

「俺のほうこそ、酷いこと言ってごめん」


 安心してまた涙が出た。


「関くん……?」

「なに」

「こんなところで、抱き合ってたら……」

「夜だから見えないよ」

「関くん……」

「お願い、もうちょっとだけ。こうさせて」

「関くんの顔、見たい……」


 関くんは腕の力を少しだけ緩めて、私の体の向きを変えた。正面から見た関くんは、当たり前だけど変わらず関くんで。それが嬉しくて愛しい。コツンと額同士がぶつかる。関くんの腕に手を添えて、私は目を閉じた。少しだけ涙の味がするキス。

 大丈夫。夜が、私たちのことを隠してくれる。

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