信頼と悪意

 次の日。会社に行ってPCをつけると、大事なデータが全て消えていた。頭が真っ白になって昨日のことを思い出す。確かに亜美ちゃんと飲みに行くっていうので浮かれてたけど、仕事はちゃんとしたはず……。焦りながら別の場所に保存していないか探したけれどやっぱりない。


「センパイどうしたんですかぁ?」


 私の様子がおかしいことに亜美ちゃんが気付いて、周りの人も注目し出す。そしてザワザワしている中心に、部長が入ってきた。


「どうした?」

「あの、実はデータが消えていて……」


 部長の鋭い視線が痛い。


「……お前何年目だ」

「はい」

「全部やり直せ」

「申し訳ありません」


 深く頭を下げると、部長や周りの人は自分の席に戻った。でも、一日中視線は痛かった。ありえないくらいの凡ミスだ。データを保存せずにPCを消してしまうなんて。一心不乱に作業していたけれど、やっぱり残業は免れないだろうな。お昼も亜美ちゃんが誘ってくれたけれど、今日は断った。お昼ご飯を食べている時間ももったいない。亜美ちゃんは心配そうにしていたけれど、何とか説得して関くんたちと行ってもらった。

 定時の頃、関くんが手伝いますと言ってくれた。心配してくれたことが嬉しかったし、正直手伝ってもらえたらすごく助かるけれど。


「航佑、帰ろ。部長が全部自分でやらせろって言ってたよ」


 横谷さんの言葉を無視してでも関くんはやろうとしてくれた。でも、部長がそう言った以上、バレたら関くんに不都合なことが起こるかもしれない。だから私は関くんに大丈夫、と言って笑顔を見せた。もうすぐ終わるから、と。本当は半分も終わっていなかったけれど。

 定時から一時間が過ぎても、全く終わる気配はなかった。一人、一人。残業していた人も帰っていく。孤独を感じる暇もないくらい没頭していたけれど、やっぱり疲れは感じる。はぁ、とため息を吐いたら。


「疲れてんな」


 部長が私のデスクに缶コーヒーを置いた。もしかして部長は私のために残ってくれているのだろうか。そう思うと申し訳なくて、謝った。


「手伝うわ」

「えっ、一人でやらせろって言ったんじゃ……」

「は?俺そんなこと言ってないよ」


 え?一瞬疑問を持ったけれど、きっと横谷さんは関くんと一緒に帰りたくてああ言ったんだと自分を納得させた。部長は私の隣の亜美ちゃんの席に座り、手伝ってくれた。ちなみにデータには全てのPCからアクセスできるようになっているけれど、完成するまで閲覧と編集はパスワードがないとできなくなっている。そのパスワードは、私が管理している。


「パスワードって誰が知ってるっけ?」

「えっと、門倉さんと関くんと横谷さんです」

「うーん、じゃあやったの三人のうちの誰かだな」

「え?」


 やったって……え?目を見開いていると、部長はふっと笑った。30代後半という歳相応の色気を感じて何となく少し後ずさる。部長はそれを気にすることもなく、あっけらかんと言い放った。


「お前がミスしたとは思ってない」


 と。え?え?私がミスしたんじゃないの?どういうこと?頭の中がハテナでいっぱいになって、それが顔にも出ていたのだろう。私を見て、部長は笑った。


「お前はもっと人を疑うことを覚えたほうがいい」


 え、じゃあ、誰かがわざとデータを消したってこと……?


「お前のPCの使用履歴見てみろ」


 部長に言われた通り、使用履歴を開いてみる。すると、昨夜の20時頃に私のPCを使った形跡があった。昨日の20時頃。私は亜美ちゃんと一緒に居酒屋にいた。でも、関くんと横谷さんも一緒にいたはず……。やっぱり私がミスしたんだ、そう思ったけれど、なら昨夜PCを使ったのは誰なんだろう。


「三人のうち、誰かに頼まれて他の奴がやったんだろうな」

「……!」


 な、なんで……?私嫌われるようなことしたんだろうか……。


「辻」

「はい……」

「悪意ってな、思わぬところから知らない内に向けられてるもんだ。信じきっていた人が突然悪意を向けてくる」

「……」

「あまり人を信じすぎるなよ」


 部長の言葉が、重く胸に響いた。

 部長に手伝ってもらい、何とか仕事を終わらせた頃にはもう21時を回っていた。関くんは晩ご飯食べたかな。今から作る気にはなれないから何か買って帰ろうかな。そんなことを考えながら最寄駅で降りて、関くんに電話をする。すると、スーパーでお惣菜を買って私の分もあると言ってくれたのでどこにも寄らずそのまま帰ることができる。早く帰りたい。関くんが迎えに行く、と言ってくれたので少し小走りになりながら駅からアパートへの一本道を帰った。途中、いつも寄るスーパーの前を通る。すると。


「あ、辻さん」


 名前を呼ばれて。振り返ると根岸くんがいた。


「今まで仕事?今日は遅いね。お疲れ様」

「うん、根岸くんもお疲れ様」


 じゃあね、と振った手を、根岸くんが掴む。振り返ると、やけに真剣な顔の根岸くんがまっすぐに私を見ていた。


「辻さん」

「な、なに?」

「俺、高校の時に辻さんの気持ちに気付いてればよかったって本気で思う」

「え?」

「彼氏いるって知っても止められない」

「え、えっと」

「俺、辻さんのこと好きだ」


 足音が聞こえて、関くんの姿が遠くに見える。咄嗟に振りほどこうとした手を、根岸くんは強い力で引いた。そして。


「……!」


 唇が、重なった。 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ離して。必死でもがいて離れようとしても、根岸くんの力が強くて離れられない。目の端からポロポロと涙が溢れる。関くんじゃなきゃ、嫌だ。関くんじゃない男の人の感覚に嫌悪感が体を走る。その時、また強い力で腕を引っ張られて。ようやく根岸くんの腕の中から解放されて、私は関くんの背中に隠れた。関くんは私を隠すように立ち、根岸くんを睨み付ける。


「……嫌がってるでしょ。つーか、あんた誰ですか」

「ああ、彼氏?俺は、辻さんの初恋の人らしいよ。聞いてない?昨日も一緒に飲んだんだけど」


 関くんの私を掴む手が、ぴくっと動いた。


「俺、辻さんのこと好きだから。絶対奪う」

「……させるか」


 関くんは低く呟くと、私の手を引いて歩き出した。泣きじゃくる私を振り向きもせず、ズンズン歩く。怒ってるよね。他の人にキスなんかされて。怒ってるよね。


「ごめんなさい……」

「……」

「ごめんなさい……」


 お願い、嫌いにならないで。

 家に着くと、関くんはやっと私を見てくれて。頬に流れる涙を手で拭った。


「ごめんなさい」

「……」

「ごめんなさい」


 いいよ、って。大丈夫だよ、って抱き締めて。お願い、目を逸らさないで。


「……ごめん」

「せき、くん」

「今日は友達の家に泊まらせてもらう」

「っ、いやだ」

「ごめん」


 縋る私の手を振り払って、関くんは家を出て行ってしまう。頭が真っ白になる。行かないで、お願い。私を嫌いにならないで。

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