最終話彼女の物語

平日に喫茶店でのんびりできる幸福感。

グラスを揺らしながら香りを楽しみ、そして少し口に入れる。


「うん、今日も最高だよオーナー」

「ありがとう、でもそれただの麦茶だよ」

学校がなく暇でやることがない与太郎だった。


否―――。

家にいるとどうしても考えてしまうため行きつけの喫茶リトライで時間を潰している。

そのことが何なのかは言うまでもないだろう。



「こんにちは」

「あら真理、いらっしゃい」

朝のピークを終え、客のいなくなったこの店に懐かしい人物が顔を出した。

飯田真理、以前彼が出会った記憶喪失少女の母親。


「リサちゃん今日卒業式でしょ?」

「そうそう」

聞きたくなくても二人の会話は全て耳に入ってくる。


「久しぶりね、与太郎君」

「…ども」

「さ、行きましょうか」

「はい…、はい?」

彼の腕を優しく掴む真理。

何の事かさっぱり理解できない与太郎は真理と雪の顔を交互に見た。


「私の娘の卒業式に」

「いやいやいや!」

この女は一体何を考えているのだろうか。

もう関わる必要のない彼を何故そんな場所へと連れて行こうとするのか。

可愛い娘の晴れ舞台に、彼女達からすればゴミみたいな存在の彼を連れていく理由がわからない。


「ゆ…雪さんっ」

「いってらっしゃい、お代は結構よ」

「おほっ」

唯一の味方だと思った雪までも爽やかな笑顔で彼を追い出そうとする。


「雪さんは俺の味方だと思ったのにぃぃいいぃぃ…」

真理に引っ張られながら彼は店を出て行った。



「味方だよ、あなたたちの…」

もう誰もいなくなった店内で雪は小声で呟いた。







初めて乗るオープンカー。

風になったようで少し気分が良かった。

運転する真理の横顔を見ると、本当に彼女と似ていると実感する。


「んなことより、俺が行ったら恥かきますよ」

金持ちが集まる高校の卒業式に正装もしていない庶民行ったら当然笑いものになる。

その事は真理もわかっているはず。



「ね、あなたにとってリサはどういう子?」

正面を向いたまま真理は彼に問う。


「わがまま、口が悪い、態度も悪い、性格も当然悪い」

悩むことなく彼は答えた。

それは与太郎が知っている飯田リサであって飯田リサでない。


「…でもそれは」

本来の彼女ではないと言おうとした時、真理は彼の言葉を待たずに答えた。


「昔は活発な子だったのよ」



幼い頃のリサは元気でおてんばな少女だった。

真理もそんな娘を見ているのが幸せだった。


  「品のない子」

  「育て方を間違えたのね…」


周囲から冷たい眼で見られたのはリサではなく母親の方だった。

あの家の子とは付き合ってはいけない、と周りから距離を置かれ始めた。

うまくいくはずだった契約もそのせいでいくつも駄目になった。


楽しい人生を歩んでほしい、と願った真理はリサに怒ることはできなかった。

リサがそれを知ったのは学校で流れ始めた噂を耳にした時だった。


―――自分のせいでお母様が辛い思いをしている。


その日から彼女は今までの自分を捨てた。



清楚可憐な飯田リサは決して嘘の顔ではない。

もうそれが形となり、当たり前な姿となってしまったのだ。


「記憶を失ったあの子を見た時、昔に戻った気がしたの」

「…」

「だから以前のリサについて本人に詳しくは教えなかった」

真理の言っていることはわかる。

それを理解したところで今の彼にはどうすることもできない。


運動音痴が一生懸命頑張ってスポーツ選手になれた後にまた運動音痴に戻れるわけがないように、今の彼女はもうすでに出来上がっている。


「ストレス」

「…」

「本人すらも気がついていない大きなストレスが原因だろうって」

真理は医者から言われたことを娘に告げることはできなかった。


「俺に何を期待してんスか」

「わからない…だけど連れて行きたかったの」

どうすればいいか、今のままで本当にいいのか。

与太郎を連れて行く、それが何もわからない真理が取れる唯一の行動だった。








「春の暖かな日差しが体全体に感じられ、校庭の…」

体育館の舞台上。

まるで女神のような少女を周囲は眼を輝かせて見つめていた。


彼がこの土地に足を踏み入れた時はさすがに注目を浴びたが、今では空気みたいな存在になっていた。

開いた窓から爽やかな風が入り込み、読み上げるリサの金色の髪をなびかせていた。



卒業生代表に選ばれたリサは、緊張しないよう今日という日の為に何度も練習してきた。

日ごろの感謝を込めて彼女は進める。


「そして優しくご指導くださいました先生方」

顔を上げて穏やかな表情で周囲を見渡す。


「…ぇ」

一瞬彼女の視界に何かが入り込んだ。

言葉を詰まらせてしまうようなもの、それが何なのかはわからない。

だけど今、確かに何かを見た。


ざわつく周囲に気づいたリサは慌てて続けた。




「卒業生代表、飯田リサ」

大きな拍手が鳴り響く。


そしてそれと同時に一人の卒業生が立ち上がる。

黄色い女子の声、何が起きているかは誰もが理解していた。


花束を持った伊集院はゆっくりと段差を上がる。

舞台上の中央にいるリサの横に立ち花束を差し出した。


「この日を心からお待ちしておりました」

「はい」


―――この光景を見ていられない。

与太郎は黙って下を向くしかできなかった。



「正式に言わせていただきます」

「はい」

爽やかな笑顔で見つめ合う王子と姫。



「僕と、結婚してください」

「…っ」


急に何かがリサの胸を叩いた。

答えは決まっているはずなのに、言葉が表に出ない。


はい、の一言。

たったそれだけなのに。


  “本当にいいの?”

伊集院との結婚は周りから認められ、とても光栄なもの。



  “だったら口に出してみなさいよ”

言われなくてもわかっている。

リサは伊集院の眼を見て答えた。


「ごめん…なさい」

「…え?」

リサは大きく頭を下げ謝罪する。


彼女自身わからなかった、何故自分は周りを裏切るようなことをしているのか。

伊集院は花束を落とし口を開けたまま立ちすくんでいる。


膝をついて泣き出すリサ。

さっきから頭の中で何かがチラついている。

それが何かもわからないのに不思議と涙があふれ出てくる。


「…お…様!」


しゃがみ込んだ彼女の元に転がってきた物。


クマのキーホルダーが付いた鍵。


リサはそれを見たことがある。

退院した時に病室に忘れていった菜月の物。


リサは拾い上げて強く握り締める。


…違う、これは私の―――。

大切な物のはずなのに思い出せない。

これは一体何の鍵なのか。


「私は…何を…忘れているの?」


次々と流れ出る涙の理由がわからない。

心が砕けてしまいそうだった。



「飯田っ!!」

保護者席から一人の男性が立ち上がる。

その隣にはリサの母親が座っていた。



真理は立ち上がってくれた彼に感謝をした。

菜月は彼にチャンスを与えた。


与太郎は泣き崩れる彼女の元へと歩いていく。



―――確か、あの方は病院で。

いや、もしかしたら記憶を失っていた時に出会っていたのだろうか。


  “違うでしょ”

「…え?」


  “もっと前から知ってるじゃない”


彼女は知っている、記憶喪失になる前から。

思い出そうとしなくても勝手に頭の中で過去の出来事が映像化されていく。



車に乗って下校しているリサ。

駅前で信号待ちをしている時に視界に映ったのは同年代くらいの制服を着た少年少女。

その中の一人の男性に何故か眼が離せなかった。


彼は本当に楽しそうで、青春をしていて、そして恋をしている眼。

今の彼女にはないものを彼は持っていた。


いい家で育ち、素敵な婚約者までいる彼女。

幸福だと思っていたことに少しずつ違和感を感じ始めた。



突然正体のわからない不安に襲われた彼女は家を飛び出した。

人見知りの彼女は顔を隠して街を歩き回る。


駅の周りには人がたくさんいた。

住む世界が違う人たちの中で孤独を感じ始める。


諦めて帰ろうとした時、噴水前で捜し求めていたものが見つかった。


彼は写真を見ながら笑っている。


話しかけたい、だけど怖い。

異性に自分から話しかけたことのない彼女は前に進むことができなかった。

もしここで声をかけなければ何も変わらない。

だがそれは彼女の身勝手な行動。


迷惑をかけるかもしれない、

自分には婚約者がいる、

話しかける勇気が湧かない。

いろんなプレッシャーが彼女を襲う。


だから、


  “アンタはアタシに”

―――私はあなたに。


  「アタシ記憶喪失みたいなんだけど…」


全てを託した。





気がつけば彼は目の前にいた。

教師達が彼を止めようとするが、黒い服を着た男たちがそれを阻止する。

リサには見覚えがある、母親のボディーガード達だ。


すでに卒業式はめちゃくちゃになっていた。



「なんて面してんだお前は」

涙を流すリサに彼は少年のような微笑みを向けた。



「なぁ飯田」

「え…?」

与太郎は大きく深呼吸をして手を差し出した。



「結婚を前提に俺と付き合ってくれ」


史上最悪な場面でのプロポーズ。

誰もが皆そのありえない光景を呆気に取られて見ていた。



「…本当にあなたは」

「…」

リサは差し出された手を握り締める。


「バカなんですか?それとも…大バカなんですか?」

「それはお前が一番理解しているだろ?」

引っ張り上げられたリサは与太郎の胸に飛び込んだ。


騒ぎ出す周囲の声はもう彼らには届かない。



「絶対に離れませんからね、与太郎」

「おう」




恋をしていた与太郎の物語に土足で踏み込んできた彼女を決して彼は認めない。

言いたい放題で、自分勝手なこの女を。


だけど―――。

いくら彼が認めなくても、



彼女の物語のヒーローは彼しかいないのだ。

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俺の物語のヒロインがコイツだなんて認めない! @hiroma01

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