第29話【聖夜のエピローグⅤ】




「ガレット・デ ・ロワ 、ヌガー 、 フィナンシェにマードレーヌにそれから…マカロンというのもあったね」


それは、彼女が生まれて初めて聞く、魔法のような響きの言葉だった。


「国や呼び方は違えど、みんな同じ粉を使った焼き菓子だ。作り方をひとつ覚えさえすれば、出来るようになるもんさ」


焼き上がったアーモンドを、口にひとつ放り込んでバブシカは言った。


「余った果実の実を捨てるのは忍びないね」


それで酒を作る方法も教えてくれた。


バブシカは普段酒も嗜むが、ビールや果実酒の類いは口にしなかった。


弟子のキルシュを連れて野に出て、ハーブや薬草を摘んだものを漬け込んで、アブサンに似た酒を作ることはあった。


彼女がそれを好んだかはわからない。


たまに来客があるとそれはふるまわれた。


バブシカのハーブ酒は客達に好評で、皆上機嫌で彼女の屋敷を後にした。


その酒には様々な効能があるらしい。


酒をふるまわれた、ある魔法使いの男は急にひどく怯えた様子になり、わけのわからないことを口走りながら外に出たきり、二度と戻って来なかった。


おそらく彼女の機嫌をひどく損ねたか、元々会いたくない男だったのだろう。


バブシカが好んで口にするのは、ハンガリーから送られて来る、糖蜜のような色をしたワインだった。


葡萄の皮を剥かず仕込んだ赤ワイン、皮を剥いて仕込む白ワイン。


同じ葡萄酒でも、彼女が食事の最後に菓子代わりに口にする酒は、どの葡萄のワインの色とも違っていた。


昔彼女はハンガリーの王侯貴族の家の危機を救った。その時に感謝の気持ちとして譲られた葡萄畑とワイナリーから、毎年収穫の時期になると送られて来た。


ネメス ロトハダシュ『なんて高貴な腐敗』と呼ばれる貴腐葡萄。


ハンガリーの東部の村でしか作ることが出来ないと言われた貴腐葡萄のワイン。


フランス王家への献上品でもあり、ハンガリー国内でも、王侯貴族だけが口にすることを許されていた。


バブシカはかつて、ハンガリーの王家とフランスの皇帝との縁組に関わったらしい。詳しくは弟子には口にしなかった。


それはまた別の話だ。


たまにウィスキーも嗜む。


ウィスキーとは発音せず、ウシュクといつも言っていた。


ウィスキーは元々ゲール語のウシュク ベーハが語原で生命の水という意味だ。


アイルランドには昔から、英国国王が作らせた4つのウィスキーの蒸留所があり、ブッシュミルズという小さな村で作られるシングルモルトを彼女は好んだ。


師匠のバブシカは、夕げの時にその酒を嗜み、食後にデザートの代わりにトカイのワインを口にする。


それくらい酒に関して舌が肥えた師匠のバブシカだった。その師匠が。


「せっかくだから、アーモンドの実で酒を作ろうじゃないか」


突然キルシェに言った。


庭に生えている不味いアーモンドの実で作った酒を好むとは到底思えない。


彼女には奇妙な提案のように思えた。


「果実酒の作り方をひとつ覚えたら、後は家で他の酒を作るのは簡単なことだ」


ウィスキーもビールもその応用で、使う材料が少々違うだけだ。


「そのこつを一度でも覚えてしまえば、なに、後は簡単なものさ」


彼女の師は弟子にそう言って聞かせた。


「お前にもいつかそのうち、酒を飲む日が来るだろうよ。覚えておいて損はない」


彼女は師匠の言葉に黙って従うだけだ。


「まずはキルシェ、あんたは外に出て、アーモンドの木の幹に、日傘を一本立てかけておいで。酒を作るには、これだけの実では、まったく足りてないからね」


言われた通りに大所を出て、庭のアーモンドの木の幹に白い日傘を置いた。


再び玄関に戻ると、屋根の庇の下に出来た暗がりの下を通り、バブシカがこちらに歩いて来るところだった。


初めて出会った時から、彼女はいつも黒い服を着ていた。


最初は、その色が好きなのだと思っていた。


まだ幼かったキルシュは、自分の師が着ているのが喪服だと知らなかった。


向かい風の魔女と呼ばれるバブシカ。


彼女が嘗て宿敵であるヤドリギに戦いを挑み、破れた一族の魔女たちすべての喪に服していることは後になって知った。


軈て自分もその後を継ぎヤドリギへの向かい風となる。その為にバブシカに選ばれた。


その宿命さえ知らず、唯唯魔法使いの師の背中を追いかけて、憧れていた。


彼女は絵本に出て来る魔法使いのように、ゆっくりと呪文を唱えていた。


「高度な呪文を如何に早く、口で唱えるよりも早く、他の音に変換して響かせるかで、魔法使いの優劣が決まるんだよ」


そんなことを常に話していた彼女が、こんなにゆるゆると朗朗と、呑気に魔法を唱えるはずがない。


「バブシカ様は今ここで…私に魔法を教えようとしてくれている!」


「まだ魔法を覚えるには早い」


そう彼女に言って、見せても教えてもくれなかった。


それが今は…!目の前で、魔法の呪文をゆっくり唱え始めた師の姿を見て、彼女も必死にそれを唱えた。


一文字も聞き逃すまい。


彼女は必死に音素読について行こうと、バブシカに声を合わせた。


放射線状に背中からのびた光は、広げた孔雀の羽根のように見えた。


バブシカが魔法を使う時、魔法使いにしか見えない光に包まれる。


孔雀の魔女と呼ばれる由縁だった。


「孔雀は好んで毒虫を喰らうからね」


それが彼女の口癖だった。


魔道を歩むのであれば、畏怖と憧れを持ってそれを見る者ばかりではけしてない。


ふと顔を上げた時、目の前にある日傘が木の幹に絡みついていた。


命ある大蛇のように蠢き、七色の光の渦を巻きながら、軈て螺旋となった。


木の幹の上まで覆い尽くした帯は、逆さまの傘か花の蕾のように大きく開いた。


バブシカはそれを見ても、唱えを止めない。キルシェもそれに習う。


すると誰も手を触れず、風もないのに大木が鳴動し始めた。


梢や枝の先から、一つ二つと木の実が音を立て、巨大なパラソルの中へ落ちた。


その様子を見つめる、魔法使いの女とその弟子の少女。二人は姉妹のようにも、母親と娘のようにも見えた。


二人の目の前が俄に暗く翳った。


アーモンドの実が雨のように降り注ぐ。


その光景を、彼女はいつまでも忘れることはなかった。


彼女が初めて、魔法使いになった日。


「その日ことは今でも夢に見るんだ」


彼女はそうモートに話した。


「アーモンドの実というのは、熟して落ちるのを待っていても駄目なのさ」


バブシカは彼女にそう言った。


余程強い風でも吹かない限り、その実は枝についたまま地面に落ちることはない。


種が地面に落ちるのは、実が弾けて干からびて、木の皮のように固くなってからだ。


「その実がほしけりゃ、あんたのように木に登って実を摘むか、こんな風に木を揺するかしなくてはいけない」


バブシカは彼女に言った。


「あんたが持ち込んだ実や種が、こんな風に実を結ぶことだってあるんだよ」


その後でバブシカは少しきまりが悪そうな口調で彼女に言った。


「…まあ桜もアーモンドも、同じバラの仲間に変わりはないらしいがね」


さっきバブシカが部屋に引き隠っていたのは、それを調べていたのか。


訊ねてみたい気持ちを彼女は堪えた。


「だからキルシェ…あんたの名前はそのままでいいね。私があんたにした桜の話は、けして嘘でも間違いでもないからね」


辛抱強く待った師の言葉を、ようやく聞くことが出来た。


彼女は心の中で安堵した。




「だから私は今夜、自分の名前をアーモンドだと打ち明けずにすんだ」


「アーモンドって名前も美味そうだぞ」


「酒も振る舞うことが出来た」


「師匠に感謝だな」


「私はその時思ったんだ」


もしも、私に師匠のように魔法使いの弟子が出来たら。


その娘にはヘーゼルと名付けよう。


アーモンドではあんまりだ。


その時師匠のバブシカは、弟子の名前を聞いてどんな顔をするか。見てみたい。


「ロンドンの魔女」


「私には…もう魔法使いの力は残ってはいない。弟子は無理でも…もしも私が母親になる日があれば、娘の名前はヘーゼルがいい」


魔法使いでなくなって、魔法とともにその記憶が失せても、その名前は残る。


魔法使いの弟子だった頃。


私の師匠が見せてくれた。


魔法の景色。


私の原風景。


魔法は確かにそこにあった。


それだけは我が子に受け継ぎたい。


「男の子が生まれたら」


「それは…モート、お前が考えてくれ」


そう言って微睡みかけた彼女は、ブランケットを引寄せる。


彼女の隣で身を横たえた、モートの裸の上半身が露になる。


寒さに身震いして、暖炉に薪をくべようと半身を起こした。


床の上には、彼女が短剣で切り裂いた、かつて彼の衣服だった布切れ。


今は無残に散らばっていた。


隣に脱ぎ捨てられた彼女の衣服。


それまで彼女の体が入っていた空洞には、ナイフが突き立てられていた。


「すまない…柄にもなく気が高まって、我を忘れてしまった…恥ずかしい」


そう言って彼女は詫びた。


モートはもう一度ブランケットに潜り込むと、裸の彼女を抱き締めた。


「ロンドンの魔女は激しい」


「何か言ったか?」


モートは誤魔化すように口ずさむ。



シャツを作れと伝えてくれ


裾もなく切りもせずに


俺のシャツを縫ってくれ



「ああ…明日縫っておくよ…」


「ゆっくりでいいよ」




パセリ、セージ、ローズマリーにタイム


縫い目も細かい針仕事もなしで


それが出来たら


彼女は俺の恋人




「いつもその歌を歌っていたな」


「この国に来て初めて覚えた歌だ」


モートはベッドの端に置かれた、木で作られた玩具の兵士を見て言った。


「確かナイトの歌だったと思う」




窓の外は雪が降り出していた。


キルシェの住む家と森、ロンドンの街にも夜通し雪は降り止むことはなかった。


雪道に足跡を残し、ひっそりと径を歩くのはノーラ オブライエン唯一人。


ヤドリギの木の下で結んだ契約の証。彼女の腕には金の鎖。


人の目にはけして見えぬものだった。


まだ明けぬ聖夜の森で、彼女魂が引き摺る鎖の音を耳にした者は誰もいなかった。

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ステップガ―ルとワイバ―ンの領主 六葉翼 @miikimiki

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