第20話 【その者の名前は】
「いや-!生き返ったあ-!!うんまいビールだったぜ。ごっそ-さん!!!」
男はビールを注ぎ込むと、たちまち蘇生した。
多少噎せはしたが、1滴も溢さずビールを飲み干した。
一部始終を固唾を呑んで見守っていた、店の客たちから拍手と喝采が起きた。
店内は再び和やかな雰囲気に包まれた。彼女はあきれ果てて怒る気も失せた。
「店からの奢りです」
上機嫌の店主から、新しいエ-ルの入ったグラスが2つ、2人の前に置かれた。
グラスを一気に空けると、滑らかな口調で男は自己紹介を始めた。
「俺の名前はモルト」
「実にいいお名前です」
店主が口を挟む。
「だろ!?俺も気にいってんだ!師匠がつけてくれたんだ!意味は…忘れた」
この男…いちいち威勢がよすぎる上に、加減知らずに耳元で声がでかい。
「忘れたのか」
「でもこの国では、Lを読まずにモ-トになってしまうんだ!英国読みでモ-ト。気さくにそう呼んでくれて構わねえからよ!」
そう言って彼女の肩をばんばん叩く。
「お前…随分気安いな!」
歯軋りしながらエールを飲み込んだ
「旅先で、あんたの師匠のバブシカ様に挨拶に行ったんだ!『ロンドンに行くなら弟子に伝言を頼む』って言われてさ…あんた名前は確かキル…キル何だっけ!?」
彼女はカウンターで頭を抱えた。
「お前…!師匠に真名についての注意を受けた事がないのか?仮にも魔法使いが、自分の名前を人前でペラペラと!師匠の名前まで…私の名前を忘れてくれたのは幸いだが…お前、今ので3回は死んでるぞ」
「真名…ああ、確か昔そんな事言われた記憶があるなあ。すいません、俺ラガー1パイント!あんた何にする?」
「スタウト2パイントとハ-フ…いや、全種類2パイントずつまとめて」
「かしこまりました」
モートが横で口笛を吹いてカウンターを叩いた。
「いいねえ~ロンドンの魔女は失望させないぜ!」
「何だか飲まなきゃ、やってられない気分だよ…あんたの師匠は誰なんだい?」
「名前聞いたけど…あれ」
「私はあんたに、聞かなくちゃならない事があったんだけど、もういいや」
「なんでも答えるぜ」
「あんた、魔法使いだよね?」
「魔法の使い手だ」
「どうやって、師匠のバブシカ様の術式をあんたが越えられたのかって話だけど」
「あれか?すげえ術式だよな!俺の師匠も防御系や結界の護符にかけては、一角の御方だけどさ、全然ものが違う。まるでジェリコの壁だよ、あれは!」
「それを、どうやって潜り抜けた?」
「目の前にビールの美味い街があって、魔法の防壁で入れないなんてな…だ-っと走って、バ-ンと背面飛びで」
「やはり、そうか」
「やはりって」
「お前はバカだから、高次過ぎる師匠の魔法に、魔法使いとして感知されなかったんだ」
「なるほど…深いな魔法って」
「だがなモ-ト」
「モルトだ」
彼女は頬杖をついて、モ-トのグラスに自分のグラスを合わせた。
「私の師匠のバブシカ様が、自分の名前をお前に名乗った。なら多分、お前は信頼のおける凄い魔法使いなのだろうな」
「そうかな」
「魔法使いが自から名を明かす相手とは、心から敬意を払うに値する者か、すぐに殺す者か…どちらかなんだよ、モ-ト」
「モルトだけど、そうなんだ」
「ならば、私はお前を歓迎するぞ。ロンドンへようこそ!」
「少しだけ酔ってらっしゃる?キル…」
「そしてすぐに帰れ!」
彼女の高笑いが店に響いた。
「バブシカ様は私に何と?」
「達者で暮らしているなら、それで良いと…元気で頑張れと」
「それだけか」
「それだけだ」
少し沈黙した後モ-トは彼女に言った。
「近々亡くなられるそうだ。半年位前から、高次の世界からの誘いを夢に見ると仰られてな」
「私が旅立つ前からではないか!」
「あれは優しい子だから、1人立ちの妨げになると」
「私は…師の恩にも、期待にも何一つ応えてはいない」
「それは俺もだが。お前の師匠様の見ている世界は、それほど小さなものではない気がするぜ。あの方に出会って、深くそれを感じた。『貴方もあの娘も好きなように生きれば、それで良いのですよ』と仰られていたぞ!」
「好きなようにか」
『マレキフィムに出会う魔女は、実は少ない。大変な災厄ではあるが、対峙すべき機会を得た者は、それを幸運に変える事が出来るやも知れない。今まで多くの向かい風たちが挑んでは跳ね返されたが…あの娘なら。あの娘は、私のたった1人の弟子なのだから』
「声色まで真似しなくていいから」
「あのな…1言だけ言わせて欲しい」
モートは空のグラスを置いて言った。
「あんたがロンドンに掛けた術式な…あれでは駄目だ。まだ完璧とは言えない」
「何故そう思う」
「それは俺が証明した。事実俺は今、あんたと、こうして酒を飲んでいるからな」
「お前ごときでも侵入出来るなら…という意味か、確かに安寧としていられない状況だ!」
「まあ、そうだ」
モ-トは皿に盛られた、揚げたてのクリスプを彼女にすすめながら言った。
「バブシカ様の護符、あれは比類なきものだ。悪魔の行進だって阻むだろう。だけど相手は養殖のトラウトじゃねえ。天然も天然のロッホネスだろ?」
「確かに…お前の言う通りだ」
「たとえば俺の師匠は、結界の護符や防御に関する魔法のマスターだ。それはつまり、術式に対する考え方が、他の魔法使いとは根本的に、尚且つ格段に違っているからなんだ」
モ-トの師という人物は、国内外にある多くの城や、瀟洒な邸宅といった物件を多数所有しているそうだ。
しかし都会のモダンな建築物には、一切興味は示さないらしい。
趣きのある古い家屋敷や別荘を見つけ、それを格安で手にいれることに情熱を燃やす、そんな魔法使いだ…モルトは彼女にそう説明した。
「俺が弟子入りした師匠は、貴族様で由緒正しき精霊バンシーの子孫でもある御方さ!」
それで不動産屋や霊媒士の仕事まで。
「まったく想像も見当もつかないが」
少々酔いが回ったのかと、彼女はこめかみのあたりを指で押さえた。
「俺の師は幽霊や悪魔が取り憑いた屋敷や人の魔払いを専門に請け負っている」
「ということは、弟子のお前も魔払い師なのか?」
「今は師から独立して、それで生計を立てているんだ」
独立しても店子のように師匠から、捌ききれぬ仕事の依頼が舞い込むことがあるという。
「私も同じだ」
「ありがたいことに良い師に出逢えた」
モートは目の前に吊るされた花籠を見て言った。若き魔法使いの少女は、それを見て黙って頷いた。
「師匠に逢わなければ」
「それは私も同じだ」
(この男は私と同じだ)
彼女は胸の奥で呟いた。同じ魔法使いだから、話せば他の人間よりも、符号する札を持つのは当然のことだった。
だからこそ警戒しなくてはならない。最初はそう思って男に接していた。
しかしそれだけではない、別の何かを彼女は男に感じ始めていた。
「ありがたい話だが…私の師匠も時々依頼をよこす…まあ概ね、とんでもないものばかりだが」
店主と目が合った彼女は、男のグラスと自分のグラスを確認して、指を2本差し示した。直ぐに目の前に新しい酒が置かれる。
「師に逢わねば、今頃俺はどうなったことやら…しかし、この道に今俺がいることに、微塵の後悔もない」
やはり。彼女は既に頷くこともせず、籠に飾られた夏の花々の数を数えていた。
「もう夏も終わりですな」
そんな店主の声を聞いた。
「魔法使いともなれば、何れ自分が成すべき宿命に出会うかもしれない。お前と私が出逢ったようにね。すべては人智を越えた必然と宿命…そして理の中に私たちは生きている」
彼女は男の隣にいて、自らの師の言葉を思い出していた。嫌でもそれは、いつか自分の前にやって来る。やがて対峙しなくてはならないものの名前だった。
「俺は自分の宿命に出逢った」
やはりそうだ。この男に感じていたシンパシイの正体がそれだ。
「今もそれを追っての旅の途中だ。もっとも、追っても逃げても、何れそいつは俺はの前に姿を現す…まあ、宿敵ってやつだな」
少し酒が回ったのか、モートは両手を後ろに回して目を閉じた。
「お前の敵に名前はあるのか?」
彼女の宿敵に名前はない。ノーラオブライエンの魂に巣食う、ヤドリギのマレキフィム。それが彼女が対峙する、未だ見ぬ宿敵の名前だった。
「イグニート」
モートの口から魔法のような言葉が零れた。その名に彼女は聞覚えがあった。マレキフィムに名前などない。
名があるということは、それが認識され封印されていたことを意味していた。
「此の世に原初の火をもたらしたと言われる、焔のマレキフィムだ」
この街の至る所に、術式を忍ばせ、結界を張り、ロンドンのを陸の孤島にした。
それでも時間の流れまで塞き止めた訳ではない。今もエリザベス塔の大時計は、時を刻み続けている。
自分にも、隣の魔法使いの男にも、それまでの、自らの行いを清算すべき時は迫っている。それでも今夜は、同じような運命を背負ったこの男と、酒場で杯を酌み交わしている。
それも宿命とやらなら悪くはない。
そう若い魔法使いの女は思った。少しだけ胸の内を打つ鼓動が早く感じた。
それは流し込んだ酒のせいだろうと。宿命ばかり追って自らの運命には気づかない。その時彼女はまだ、気がついてさえいなかった。
「まあ俺の話は先送りにしても」
今日出会ったばかりの、モートという名の魔法使いは、閉じていた片目をあけて彼女に言った。
「あんたがもし望むなら、あんたが仕掛けた魔女の檻…もっと強くする手伝いしてもいいんだぜ」
モートは彼女の返事を待たずに言った。
「おそらくだけど、バブシカ様がわざわざ俺をここによこしたのは、そのためだと俺は思ってる」
彼女は両腕を胸の前で組んだきり、何も答えなかった。
「返事がないのは、同意してくれた?そう勝手に考えちゃうたちだからな、俺」
「そもそもあんたは、大事を成そうってのに、1人で抱えすぎなんだよ!これだから出来る女ってのは可愛く・・」
「お前は男のくせに喋り過ぎだ」
そう言って彼女は目の前にあった茹でたじゃがいもをモートの口の中に突っ込んだ。
「うめえ」
モートはじゃがいもを、満足そうに平らげた。彼女はこんなに幸せそうな顔で、いもを食う人間を初めて見た。
モートの前に右手が差し出された。
「よろしく頼む」
彼女の右手と顔を交互に見て、モートは笑って手を伸ばした。
「改めてよろしく!俺は…あんたがそう呼びたいならモートでいい!あんたの名前は確かキル…キル…なんだっけ?」
彼女はモートの手を軽く叩いた。
「その手にのるか!今度聞いたら5回首をはねるからな!忘れるな」
彼女はぴしゃりとそう言った。
しかし叩いた手に力はなく、口もとには笑みすら浮かべていた。
「俺には首も命も1つしかねえ」
「ならせいぜい大事にすることだ」
「俺たち、これから協力し合う仲間だろ!?名前ぐらい教えろよ!このキル女!」
「そうやって、あちこちの酒場で女に名前を聞きまくっているのであろうな」
彼女は方眉をつり上げて言った。
「な!大体お前なんで、そんなババアみたいな喋り方なんだよ!一体誰に習ったらそうなるんだ!?もっとこう、なんていうかさ、淑女らしくだな…」
「ほう…バブシカ様をババア呼ばわりとはいい度胸だ!躊躇なく言いつけてやる」
「秘密にしろ!秘密、秘密こそが魔法使いの本文だ!違うか!」
「なら私の名前も教えない」
「くそ」
「酔いも覚めた。そろそろ帰る」
「お前酔ってないだろ」
2人の目の前に突然店主が花籠を置いた。
「もう夏の花を飾るのも最後ですから」
店主は微笑んでそう言った。
「どうぞ…よろしければ、そのままお持ち帰り下さい」
「これ食えんの?」
「ばか」
「幸せの花です。どうかお幸せに」
2人は目の前に置かれた花籠の前で、暫くの間固まった。
「ま…それはともかく。今日から俺はお前のフォロワーってやつだからよ」
「やはり」
「さらにばか!」
彼女は店から飛び出した。
「俺なんか言った?」
「この界隈では恋人って意味ですよ」
それはメイドが恋人を呼ぶ言葉だった。
モートは慌てて花籠を掴むと、まだ名も知らぬ彼女の後を追った。
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