第19話【真名と侵入者】



魔女や妖術士、魔法に携わる者を総称して魔法使いと呼ぶとすれば。彼らには一律して、侵してはならぬ禁忌が存在する。


その1つは真名である。魔法使いは誰でも、自分しか知り得ぬ真名を1つ持つ。


魔法使いの使う魔法や、その本質に関わる真名を他者に知られる事は、魔法使いにとって致命的な過失に他ならない。


魔法を知る者であれば、その名を何れ紐解く事で、名前の主が使う魔法の種類や欠点までもが、たちどころに分かってしまうからである。


相手に名を知られる事は、魔法使いにとって敗北と服従を意味する。


もしも魔法使いと長年親交を持ち、お互いに名前で呼び合うような間柄であったとしても。後で思い返すと、一度も名前で呼んでいなかったり。或は全く思い出せないとか。疑いもせずいたが、偽名であったとはよくある話。


もう1つは領域である。


魔法使いは住居から、自分の力が及ぶ範囲を自らの領域と定めている。


これを他の魔法使いが無断で侵す事は罪であり、死に値する。


領域を通過する際や、滞在の必要が生じた場合は、必ず領主に事前の通達か挨拶が必要なのだ。


これを無視すると、魔法使い同士の戦争になる。近年領域を巡る戦争は、英国でもヨ-ロッパでも起きてはいない。それでも小競り合いは常にある。


力ある者に、より多くの味方が荷担するのは、人間も魔法使いも変わらない。


しかし力の弱い魔法使いに荷担して、後々領土を奪う魔法使いも存在する。


魔法使いは常に、自己の能力の研鑽を怠る事は出来ない。


常に他の魔法使いの動向に留意し、隙あらば秘密を知ろうと画策していた。


しかしロンドンの街に若い魔女が仕掛けた術式は、実に堅牢であり、国中の魔法使いが束になっても、突破出来るものではなかった。


「あの術式の中で一体何が行われているのか」


国中の魔法使いは噂した。


実際は何も行われてはおらず、術式をかけた魔女は、人としての生活を営んでいた。


しかし彼女の望んだ平穏な日々は、僅か1週も続かなかった。


力が減じたとはいえ、彼女は向かい風であり、由緒正しきマレキフィムの魂を受け継ぐ者である。


術式を突破してロンドン・シティに魔法使いが潜伏している。


信じ難いが、彼女の五感は直ぐにそれを感知した。


同時にそれは、彼女の身に未曾有の危機が迫っている事を意味していた。


マレキフィムの力を封じるための術式を、突破出来る者など想像すら及ばない。もしも存在するとしたら…このアルカナの術式を託した、彼女の師に他ならない。


彼女は一族と師の意に背いて、ロンドンをこのような姿に変えた。


誰もが彼女の行動には、納得するどころか背信を疑うに違いなかった。


事実彼女は、マレキフィムの契約者ノ-ラ オブライエンの殺害には至ってはいないのだから。


彼女が導き出した答えは、言わば自己満足に過ぎず、この事案に関わる者を誰一人納得させられるものではなかった。


彼女は一族の昔年の悲願を裏切ったばかりではなく、師の顔にも泥を塗るかたちとなった。


「師に会えば師を失望させ、場合によっては彼女は私を殺すだろう」


黙って償いとして、師の手にかかり命を落とすか、師をその手にかけて、ノ-ラと我が身を守るか。或はノ-ラを殺して師と一族に許しを乞うか。


これは彼女に与えられる選択肢ではない。彼女は知っていた。何れの条件の提示もなく、ただ葬られる可能性の方が、ずっと高いのだと。


しかし彼女は最初から、自ら決めた事に対して、おもねる気はまるでなかった。


彼女の師は常に彼女に優しかった。しかし魔法使いとして、底知れぬ力を秘めた人物であった。


マレキフィムを倒す術式の高次さと、そこに込められた執念の凄まじさ。とても太刀打ち出来るものではなかった。


残るもう1つの可能性を手繰れば、より深い絶望の淵へと辿り着く。


師以外の術者の存在だ。


悪意あるものの可能性は極めて高い。1日待った。潜伏者は彼女を訪ねては来なかった。


その時点で相手は通りすがりの旅人ではなく、彼女の領域を侵す侵略者と考えられる。


彼女は相手に会うために、イ-スト・エンドにあるバブへと向かった。大胆不敵にも侵入者は、彼女に対して気配すら隠そうとはしていない。


「文句があるなら其方から訪ねて来い」


とでも言いたげで、挑発的とも言える、その不敬不遜さが、若い魔法使いの少女の誇りを傷つけ、神経を逆撫でした。


彼女は忍ばせた魔女殺しの短剣と殺意を胸に日が落ちたロンドンの街に出た。



英国と言えばパブと、そこで出されるビールが有名だ。しかしパブという名前の歴史は比較的浅い。


18世紀から19世紀の転換期にあって、それまでアルコールを提供していた店の多くが、リカーハウスやイン(宿泊が出来る店)の名目で看板を出していた。


それがいつしか英国民の間でパブ(パブリックハウス…社交場もしくは公民館)という呼び名が定着した。店側もそれに習った。


英国の歴史を紐といてみても、この時代は実に多くの旅人がロンドンを訪れ、通り過ぎて行った。


地元の人間は勿論、旅人たちは名高い英国のビールを味わうためにパブに足しげく通った。


英国政府はアルコールを提供するための店をパブに統一させた。


店に他店との差別化をはかる意味での、屋号を意味する、パブサインの設置を義務づけた。


所謂パブ法の制定である。水の汚染が深刻であった事情もあり、アルコール度数の低いビールに限り、子供の飲酒も許されていた。


パブ文化はここ英国で、花盛りの時を迎えていた。1830年には、産業革命により、労働を神聖視した女王ビクトリアは【禁酒法】制定した。


それでもパブには何時の時代も、客足が絶えたためしがなかった。


2階に見えるのは宿泊者用の部屋とテラスが備えつけられていた。石造りのジンジャーブレッド調の洒落た建物。


他所の国であれば、忽ち摘まみ出されそうな少女が、パブの入り口にかけられた木の看板を見上げていた。


この店のパブサインは半分の月。新月は足元が見えないし、満月は明る過ぎる。


昔悪党共が根城にしていた屋敷を改装してパブにした。屋号のハ-フ ム-ンはその時代の名残からつけられた。


どこの店にも入り口は2つ。街の人間は誰も入るのを間違えたりはしなかった。


一方の入り口は中産階級が、一方の入り口は労働者階級の者たちが、酒を飲むため分けられた入り口だった。


金持ち連中は、絨毯が敷かれた小綺麗な部屋で、ラグビーの話や持ち馬の話などしながらチェスをしたり、中庭でクリケットを楽しんだりして過ごした。


一方では何処のパブでも、見慣れた茶色い壁と木の床に囲まれた連中が、1パイントのビールをちびちびやりながら、暖炉で、持ち込んだ食い物を炙りつつ、ひたすら喋りまくる。


この時代のパブのよくある光景だった。


やがて金持ち連中は、彼ら専用に開店したクラブへと流れた。


彼女は迷う事なく扉を開け、揚げたジャガイモと酢の匂いがする、茶色の壁の店内に入った。


ふとノ-ラが自分のために作ってくれたクリスプサンドを思い出す。


店の中は安い煙草の煙と、男たちのお喋り声が充満していた。


バ-メイドが1人いて、彼女が入って来た時、丁度休憩に行く時間なのか、ちらりとこちらを一瞥しただけで、そそくさと店の奥に引っ込んだ。


一瞬だけ店内のお喋りが止んで、小さな魔法使いのような格好をした女に好奇な目線が注がれたが、すぐに客たちはお喋りに夢中になった。


カウンターの中にいるパブリックマン、というと聞こえがいいが…保守的なパブの店主が目で注文を促す。


彼女は金を店主に差し出した。


「ピネスを」


店主は首を傾げて壁を指差した。


「あっちにはあるが、取ってこようか?」


彼女はカウンターに並んだタップを見て言った。


「エ-ルを1パイントでいい…女が1パイントは下品?」」


店主はほくそ笑むと、飲み物をグラスに注いで彼女に渡した。


先にメイドに酒を注文した客の男は、大声を出す事もなく、店主がこちらを向くのを辛抱強く待っていた。


エ-ルの入ったグラスを片手に店内を見渡す。


ハンギング バスケットがぶら下がったカウンターに酔い潰れた男が1人。


バスケットの中には、季節の花が飾られている。


パブでそれは幸運の花と呼ばれていた。


カウンターで酔い潰れた男は、遠目に見ると、花の冠を被った王子のように見えた。


彼女はブ-ツの音を鳴らして近づく。


男は彼女と同い年位の若者で、褐色の肌に薄汚いポンチョに、埃だらけの山高帽。王子には程遠い馬の骨ぶりだった。


人様の縄張りで、挨拶も無しに飲んだくれて、眠りこけるとは随分いい度胸してるじゃないか。


彼女の怒りは沸点を遥かに越えた。


「おい、貴様…起きろ!」


彼女は低い声で寝ている男を恫喝した。しかし一向に起きる気配すらない。


「この…チョロ!マルキ-ソ!起きろって言ってんだよ、この靴磨きの薄汚い…」


耳を覆いたくなるような、罵詈雑言を浴びせかけても、男は幸せそうに寝言を言うばかりである。


「パセリ」


「パセリ?」


「セ-ジにタイムにロ-ズマリー…それから何だっけ…ごめん」


彼女は黙って、男の座っている椅子を蹴り上げた。


グラスを拭いていた店主が慌てて止める間もなく、男は床に投げ出された。それほどまでに、彼女はプライドを傷つけられ激怒していたのだ。


男は床に頭を強かに打ち付け、そのまま大口を開け鼾をかいて眠り始めた。


彼女は持っていたエ-ルの入ったグラスを傾けた。


「お嬢さん、それは行けません!」


今度は店主が声を荒げた。


「せっかくのエ-ルが台無しです」


店主は彼女に向かって大口を開けて見せた。


「溢すなら口の中にお願いします」


彼女は店主の言葉に従って、寝ている男の口にエ-ルを注ぎ込んだ。一滴も溢さぬように細心の注意を払いながら。



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