第2話【少女と死者とワイバ―ンツリ―】



ああなんてことだ!眠っている時も起きている時も耳について離れない。おそらくそれが死者の声であろう事は彼にも察しがついた。


彼女のもとを訪れた時は、睡眠不足と恐怖から彼の精神は崩壊寸前だった。


思い剰って飛び込んだ阿片窟で無為な時を重ね、アブサンの幻覚に身を委ねた。そこで彼女の噂を聞き、訪ねる事にしたのだ。


「旅先で、とある森に足を踏み入れて以来…」


「その森が原因です」


即答過ぎる即答。


「森?幽霊ではなく森がですか…」


「解決には、再びその森を訪れる必要がありますね」


そこまでの彼女の判断は正しいように思えた。こんなおかしな事が起き始めたのは、あの森に行ってからだ。


「要するに貴方は森に、森の中で死んだ死者の霊を全部押し付けられたんですよ」


幽鬼や魔女が棲処にしそうな、お伽噺に出てくる森ではない。きちんと人が歩ける遊歩道が敷かれた郊外の森林公園だった。


「森が人に幽霊を押し付けるなんて、そんな事ってあるのかい?」


「ここは自殺の名所ですから…あんまり数が多いと森だってうんざりしますよ」


ふいに前を歩く彼女の足が止まる。彼は彼女の背中にぶつかりそうになる。


「さあ、着きました。これが、かつて【ワイバ-ンの絞首台】と呼ばれた樹です!」


旅行ガイドのような口調で彼女は言った。確かに、竜の姿に似ていなくもない。周囲を木の柵で囲まれたオ-クの大木。これまで多くの重罪人がこの木に吊るされた。


今修道服姿でロンドンから馬車で引き摺られ、通り過ぎた男の名はジョン・ストーリー。1641年彼はエリザベス1世に従う事を拒み続けたカソリック教徒で、この樹に最初に吊るされた。


ロンドンのニューゲート監獄から、セント ジャイルズ イン ザ゛フィールド教会とオックスフォード街を経て、ワイバ-ンへ向かう道行き。


かつて処刑場があったワイバ-ンの村名は村の南西を流れる竜の形状を思わせる小川に由来する。


最初に小川の隣で死刑が執行されたのは、1196年であった。ロンドンにおいて重税に対する暴動を指揮したウィリアム フイッツ オズバ-ン。


彼は裸にされて、馬に引きずられてワイバーンへ連れて来られ、絞首刑にされた。


1641年、【ワイバ-ン・ツリー】という自然木を利用した絞首台が現在の場所に設置された。


それまで絞首に使用していた大木が、経年のため倒れてしまったためである。


「何故数ある木の中で、この木が絞首台に選ばれたか分かりますか?」


「いや」


「大きさや梢のしっかりした…というのも理由だけど見た目が一番竜の姿に似ていたから」


ツリーまたは三連の木は絞首台の形状から由来しており、三角形の三角に水平に木を据えてあった。簡素な階段も備えつけられていた。


何人もの重罪犯がここで絞首刑にされ、時には観衆を集めての公開処刑も行われた。1649年6月23日、23人の男と1人の女が一斉に吊され、死体は8つの馬車で運び出された。


ワイバ-ン・ツリーは、西ロンドンの名所となり、旅行者に対して明確な法の戒めの象徴となっていた。


処刑後に遺体は近くに埋葬されるか、医者によって、解剖目的のために持ち去られた。チャールズ1世に処刑の判決を下した裁判官ジョン ブラッド ショウとヘンリー アイアトン オリバー クロムエル。


彼らは既に病没していたが王政復古後に墓場から引き摺り出された。1661年1月、父王処刑の報復としてチャ-ルズ2世の命令で墓から掘り起こされ、刑場に吊された。


処刑はいつも決まって日曜日に執行された。公開処刑は一般庶民の見せ物として非常に人気があり、常に100人程度の観衆が集まった。


商魂たくましいワイバ-ンの領主は、見物人のために大きな観覧席を設置し、席料をとった。ある時、観覧席が突然崩壊し、約100人の死傷者が出た。


これが恐怖心を煽り処刑を見るものがなくなるかといえばそうはならず、ロンドンにおける庶民的な休日の過ごし方として続行されたのである。


英国に於いてワイバ-ンという言葉は、古典的英語表現として婉曲的に用いられることがある。


ワイバ-ンの荘園領主(Lord of The Manor of Tyburn)とは【公開処刑された者】を意味する。


ワイバ-ンジグを踊る( dancing the Tyburn jig、ジグとはアイルランド発祥の踊りの名前)とは絞首刑にされた罪人が足をばたつかせ、もがき苦しみ動く様を指す。


既決囚はニューゲート監獄から屋根のない牛車に乗せられここへ移された。


彼らは、観劇に行くが如く、手持ちの中で一番いい服を着て、無頓着に、さっさと死んでいった。


彼らは刑場へ向かう途中、居酒屋で降りて最後の1杯を飲むことが許されていた。観衆は潔い死に様には拍手喝采で送り、死刑囚が死ぬのを怖がり騒ぎ立てようものなら野次を飛ばして嘲った。


ワイバ-ン刑場で最後に死んだ死刑囚は、1783年11月3日。旅行者ばかりを狙って殺していた強盗犯ジョン オ-スティンであった。


18世紀半ばになると英国内での公開処刑は廃止された。


ワイバ-ンツリーの梢や枝から縄が外され処刑台は解体された。


過去を覆い隠すように木の周囲にはオ-クの木が植えられ、森が作られた。今ではワイバ-ンという地名すら僅かな地域にしか残されていない。


そして19世紀を迎えた今もワイバ-ンの領主達は、皆もみの木に吊るされ、色褪せ忘れられた靴下みたいに見えた。


夥しい数の人々が鈴生りになって吊るされ、祈ったり、お掃除したり演説したり恫喝したり…生きていた時と同様泣いたり笑ったりしていた。


だれも自分以外の存在には目もくれない。


「樹が可哀想」


宙を見据えて彼女は呟いた。吐く息が白い。


この国にも海峡を渡る寒波が押し寄せる季節が近づいていた。


「樹が思う事があるとすれば、樹として生まれ樹として朽ち果てる。ただそれだけなのに、竜の姿さえ知らないのに」


「君は樹木の言葉が分かるのか」


少女の瞳に初々しい輝きは既になかった。


「私の祖母はロマ系のジプシ-の占い師でねえ。花や石の言葉を聞いて占いをしたと聞く。私はどうやらその血筋を引いたらしい。母にはそんな力はなかった」


「だから霊媒師に」


「人が起こした罪は人の巷で収めればよい話。悪人がどれだけ殺されようが、人が自ら信じるもののために命を賭して殉じようと、森の木々には何も係わりのない事だ」


「木や森がそう君に」


「いや、これはあくまで私の気持ちを言ったまでさ」


「街から海は遠いからな」


「人は都合の悪いものは全て森に隠すんだ」


ズタズタに引き裂かれたメイド服の女が歯を鳴らしながら怯えた顔でナイフを構えている。その少女と目線を交わし彼女は俯いた。


「この樹にはメイドも沢山吊るされたようだ」


「雇い主の性的強要や暴行から身を守るための過失致死事件か…野蛮人が急に金を手にすると必ず、こういう悲劇が起きるものだ」


「それでも、この国では人を殺めれば死罪が待っている」


彼女は先頭に立って歩き始めた。


「死者との語らいにはきりがない、帰るとしようか」


「ちょっと待ってくれ!僕に取りついた360人の幽霊は…そのままなのかい?」


「彼らはこの土地から動けないよ、ずっと業と因果で編んだ縄で繋がれたままだ」


「それじゃあ、僕は…」


「諮らずも、この場所を通りかかり死者の魂と折り重なってしまった。いや…」


彼女の緋色の瞳が彼の目を真っ直ぐに見つめ返す。目元に小さな星の瞬きのようなそばかすが残る顔は案外幼げだ。


見た目よりも、もっと、ずっと若いのかも知れないなと彼は思った。


「あるいはシンパシイとか」


彼は答えなかった。答える事が出来なかったと言った方が正解かも知れない。


「さあ行こう、長居は無用だ」


彼女は振り向く事さえしなかった。


「ねえ、君。君なら彼処にいる死者達をどうにか出来るんじゃないのかな」


「そんな事をして何になる」


森の中を駆け回る小動物を思わせる俊敏な動き。


迷いのない足取り。落ち着き抑制のきいた低い声色。これが本来の彼女の姿なのだろうかと。彼は考えを竣順させる。で、すぐに置いて行かれそうになる。


「2世紀分の死者の面倒など私はごめんだね!本職の人間ならば1人にだって関わらず素通りするのが常識さ。カンタベリーでふんぞり返る、あの救いたがりの連中にでも頼めばいいさ」


「教会は幽霊の存在なんて認めないさ」


「さもあろうさ」


「この国は昔から幽霊屋敷や幽霊話には事欠かないというのに」


創世記の一節にある。主が約束を違えて善悪の知識の木の実を食べたアダムに対して言い渡した罪状の一文。


創世記3/19


お前は顔に汗を流してパンを得る。


土に返るその時まで。


お前がそこから取られた土に。


塵にすぎないお前は塵に返る。


「灰は灰に」


「塵は塵に…なんて言い種だろうね、まったく!」


「この国の国王は、昔妻を次々に取り替えた。そればかりでなく離婚した妻たちを、幽霊だらけだと噂のロンドン塔に閉じ込めた。ロ-マ国教会では、信者の離婚は禁止されていて、それでも離婚して他の女と結婚したかった国王は、ロ-マ教会を国から追い払ってイングランド国教会を設立した。最高責任者は勿論国王本人だと、議会で裁決させた…この国の信仰は他の国の宝物同様に大英博物館の陳列品だ」


「歴史に詳しいのだな」


彼女の言葉に彼は深く頷いた。


「それこそが幼き頃より私の生きる糧でした」


「歴史学者になりたかったのだ」


男は彼女に言った。


「私は幼少の頃から病弱でね、荘園の後取りという事もあり、手厚く育てられたが外には出られなかった…昔から書物が友人で慰めだったのだ」


「書物さえあれば、学者になれる、という訳でもないからな」


「その通り!私は家督を継がねばならぬ身分。それに既に書かれた歴史の本だけ読んでいても、歴史学者にはなれない。大切なのは自分の足で集めた知識、つまりフィールドワ-クなんだ」


「書物に残された歴史は、勝者のみによって語る事を許された歴史だからね」


「敗者の歴史こそが私が知りたいと願うものだ」


そこまで言いかけて男は、はっとしたように女の顔を見た。


「そういう事か!」


男は自らの掌で顔を覆う。嗚咽こそ漏らさぬようにしていたが、溢れでる涙を堪えているように見えた。


そんな男の様子には目もくれず乾いた声で女が言った。


「どうやら私たちはようやく森の入り口に着いたようだね」


「首尾よく入り口まで辿り着いたのは幸い、ここは死者の領域で、死者の時間は生者より無限で、加えて死者は生者よりも足が早い…今風が吹いたね」


女の見据える先に気配を感じ、男は振り向いた。首に縄を掛けられたままの死者の群れが背後に迫っていた。



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