ステップガ―ルとワイバ―ンの領主

六葉翼

第1話【紳士と霊能者の少女】


【プロローグ】



夕暮れ時になると、橋の向こうに軒を連ねるパブに明かりが灯る。時刻はまだ午前だというのに。


さっきまでいたのは阿片窟。追い出された女はパブの灯りを待っていた。


ハマ-スミス橋の緑と金、お城のような塔が中央に聳える。


「まったく、この国は橋を渡るにも金がいるんだね」


懐かしい声が聞こえた気がしたけど、多分そら耳。昔、一人の娘が泣きながら橋の上からカ-ドを投げ捨てた。


未来を占うカ-ドは風に舞い、テムズ川の水の上を流れた。それも今思えば随分と昔の話に思える。


橋向こうは血濡れの心臓通り。彼女の住む部屋もそこにある。


部屋の床に落ちた水晶玉が砕けて割れた。所詮硝子で作られた偽物、割れて失われたところで何もない。


なにもかもが偽物なのだから。割れた水晶玉から生まれたように女の子が1人彼女の部屋から飛び出した。


橋の上には食べ物を売る行商人や見物客が大勢いて、その場に倒れ込んだ老婆の周囲に人が集まり始めていた。



【紳士と霊能者の少女】



「霊です、これは全て貴方についた霊の仕業なんです!」


言うが早いか、女の子は扉をノックした紳士の腕を掴み外へ飛び出す。


部屋の中には砕けた硝子に囲まれ、大の字になった紳士がもう1人倒れていた。男は呼びかけても何も答えない。


「大丈夫!死んでませんから!」


振り向くと、驚くほどあどけない少女の顔がそこにある。染み1つないビスクのように美しい顔と、金糸のような髪はたちまち薄汚い外套のフ-ドの奥深くに隠れてしまった。


「僕は君の犬だ」


振り向くと彼女は彼にそう言って、かん高い声で吠えて見せた。


彼は答えられなかった。


「僕は君がこの森に捨てた犬だよ」


彼が答えないので、彼女は彼にもう一度言った。


「僕は犬なんて森に捨ててない」


「私はこの森で貴方に絞め殺された女」


「僕は女なんて絞め殺さない」


「本当にそうかしら」


「でたらめや言いがかりは止めてくれ」


「生まれる前に捨てたかも、殺したかも、ええきっとそうしたはずよ!」


「この…頼りにならない霊能力者め!」


彼は舌打ちをした。彼女はドルイド僧を思わせる灰色のコ-トに身を包み、頭巾のようなフ-ドを眉の下深くまで被っていた。


ドルイドの語源は確か、この森の木々と同じオ-ク【オ-クの賢者】という意味だ。彼の記憶だとア-サ-王伝説に登場する魔術師マ-リンはドルイドだ。


彼女がマ-リンのようなら頼りになるのだけれど。


「御主人様」


「今度は何だ」


「私は銀の食器なんて盗んでおりません」


「君がそう言うなら盗んでないだろうな」


「御主人様にメイドとして誠心誠意仕えて参りましたのに、疑いをかけられ処刑された…」


「知らない知らない」


「心に決めたフォロワ-がいましたのに、生娘の私にあんな事やそんな事まで、きゃあ」


「しっかりしてくれ!霊媒師が悪霊に取り憑かれてどうする!」


「枝ぶりは、まあよしとしようじゃないか…だがこの野郎!靴が私の頭の上ってのはどういう訳なんだ!くそったれが!」


「私まだ子供だったのに」


リリスみたいに顔の表情や声が変わる。これが憑依というものか。取り憑かれ放題のなすがまま。


もう、いちいち受け応えするのにも疲れた。


「この辺りは確かジキルとハイドのハイドが最後を迎えた場所」


「それだけは呼び出さないでくれ」


「フィクションですよ、御主人様」


お前がジキルとハイドみたいになってるじゃないか。


彼女が次々口にするのは森のざわめきに似た人の声。その恨みつらみや罵詈雑言を浴びながら、依頼者の男と霊能者の若い女は森の奥へと進んだ。


「フィールド・ワ-クなんて大げさなもんじゃあない…散策、そう散策だ!旅先で様子のいい森を見つけたんで歩いてみようと思った、ただそれだけなんだ」


「霊が360体憑いています」


若い霊能者の娘は彼を見るなり事も無げにそう言った。

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