序ー弐 記憶

「七歳までは神の内」


 かつて民俗学者である柳田國男はそう述べた。

 『七つまでは神から預かった子』

 『穢れがすくない無垢の存在』

 『神のものゆえ神隠しに遭いやすい』

 等──。

 古来、乳幼児の死亡率が高かったことや、子ども特有の純真無垢な存在感を受けたことからくる俗説である。

 現代にも残る『七五三』はそのための厄払いなのだ。


 四歳のとき。

 刑部八郎は七歳の従姉といっしょに七五三をおこなった。早生まれである八郎の一年の成長を待ってから、三歳と七歳の無事を祝うためであった。

 手元には、ふたりで千歳飴を食べる当時のスナップ写真が残っている。

「八郎ったら一気に二本食いして──」

 母がアルバムを指差してわらう。

 うしろで本棚の整理をしていた八郎が覗き込んだ。

「おれたちの七五三ってそこの春日大社やったん」

「覚えとらんのん? ──こんときすごく大騒ぎになったやないの」

「大騒ぎ?」

 と八郎は首をかしげた。

 なぜかいつもぴょこんと跳ねて直らない、ひと房の前髪が揺れる。

 そうよ、とそんな息子に眉を下げた母はアルバムに目線を落とした。

「いまだに宮司さんお見かけするたんびに頭下げとるねんで」

「えっ」

「まあ、あんた四つやったもんね。覚えとらんのも無理ないわ」

 と、当時の様子を思い出したか、母は肩を揺らしてわらった。


「ご祈祷が終わって、さあ帰ろってなったときにね。気が付いたらあんたがどこにもおらんで──みんなで境内探しとったら、いつの間にか環奈ちゃんがあんたのこと連れて戻ってきてくれはったんよ」

 いまから十年以上も前のことだ。

 八郎にそのときの記憶はない。母は続けた。

「どこにいてたんか聞いたら、神社で入ったらあかんところ。禁足地っていうん? お山に遥拝ようはいするとこから中に入って転んだて泣きわめいて──手から血ィ出しとってね」

 息が止まるかと思うたわ、と肩をすくめる母に八郎は自分の手を見た。たしかに物心つく前から、左手の月丘に薄い傷痕がある。

 不思議なことに、成長とともにほかのどんな傷が癒えようと、この傷痕だけはずっと残っていた。

「禁足地って神主さんも入らんところやのに──かんちゃん、ようおれのこと見つけたなァ」

「環奈ちゃんはホラ、あの子むかしから不思議なこと言う子やったやろ。そのときも、女の子が教えてくれたンよって言うてはってね……」

「怒られた?」

「当たり前や、えらい怒られたわ!」

 と母はめずらしく声を荒げる。

 しかし「せやけど」と続けた声は優しかった。

「何よりも、ふたりが無事に戻ったことを喜んでくれはって──いまでもあの宮司さん、顔を見るとにっこり笑って挨拶してくれるんよ」

「まあたしかに、誘拐とかやのうて良かったわな」

「そうね、それもそうなんやけど。宮司さんが言わはるには──ほらよう言うやろ。七歳までは神の内──とか」

「ああ」

「せやから禁足地に招かれてしもたんちゃうか、とか、神様に連れていかれんで良かったなぁ──とかってな。な、そんなん言われたらすこぉし畏まってまうわねえ」

 と言うと、母はアルバムを閉じる。

 そして懐かしむように瞳を細めると、微笑んだ。

「やけどあのとき環奈ちゃん、私にだけ教えてくれたんよ」


 ──カミサマを見たよ、って。


「もしかしたら、ほんまにそうやったんかもしれんね」

「…………」

 八郎はふたたび手元の傷痕に視線を落とした。

 よもや怪我をしたことすら忘れていたほどの古傷がじくりと痛む。その痛みとともに、脳裏によぎった黒い影。

 ──鋭く光った琥珀色の瞳。

(あっ)

 八郎の手から、はたきが落ちた。畳に転がったそれを拾い上げて母は「さて」と八郎の手に握らせる。

「はよ終わらせましょ。今日から環奈ちゃん、この部屋使うんやものね」

「あ……おお」


 従姉の刑部環奈は、八郎の初恋だった。

 天真爛漫を体現したような性格でいつも屈託なくわらう彼女は、八郎にとっては太陽であり自慢の姉でもあった。幼いころから、

「かんちゃん、かんちゃん」

 と呼んではひよこのように彼女のうしろをついてまわり、環奈は環奈で「はっちゃん」と返してはうれしそうに八郎の手を引いてくれたものだ。

 そんな彼女が今日からここへ住むという。

 東京の大学キャンパスへ通っていた彼女が、とある事情から奈良市内のキャンパスへと移るためだと聞いている。

「一年でキャンパス移るって大変やな。かんちゃん、なんかしたん?」

「ちゃうんよ。あの子ってああ見えておつむがええさかい、書いた論文が評価されてこっちの准教授にお呼ばれしたんやて。平安時代の何かについて書いたらしいんやけど、その先生の専門がそういうんやから、ぜひウチのゼミに入らへんかって」

「へえ、すごいやん」

「幸いに実家もこっちのほうやし都合がええって、環奈ちゃんも承諾したんやねきっと」

 と母はいったが、しかし彼女が選択したのは天理市内にある自分の実家ではなく、奈良市内にあるこの刑部本家なのである。本棚の天板を拭く八郎は首をかしげた。

「かんちゃんって、中学ンときもうちに下宿してへんかった? 高校も寮やったし全然帰ってへんやん。実家キライなんかな」

「ううん、環奈ちゃんはお母さんのこと大好きやで。たぶん……環奈ちゃんなりの心遣いなんやろねえ。せやからってあんた、それ環奈ちゃんに聞いたらあかんよ」

「えっ」

 母はじっとりと八郎をにらんでいる。

「八郎はデリカシーがあんまりあらへんさかい──おうちのことは環奈ちゃんが自分から言うてくるまではむやみに聞かんこと。わかった?」

「……はい」

「やだもうこんな時間。環奈ちゃん、五時には駅につくんやって。お迎え行ってくるから八郎はここの畳拭いといて。文次郎の散歩もお願いね」

「へーい」

 気が付けば少しずつ日も暮れはじめている。

 『散歩』という言葉に反応した飼い犬の文次郎が、部屋の外で走り回っている。

 それを横目に、八郎は畳に視線を落として腕まくりをした。

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