切り札はフクロウ

神辺 茉莉花

百物語

 九十九本目のろうそくが消えた。


「最後は俺か」

 そう言って真月信二はほとんど暗闇と化した部屋の一室で身じろぎした。

「もったいぶらずにさっさと話せよ」

 けしかけたのは加藤健太郎だ。真月の数年来の親友……悪友と言ってもいい。

「しょうがねぇなぁ。じゃあ話すぜ」

 どこかでピシリと小さな家鳴りの音がした


「これは俺が去年体験したことなんだが……」


 百物語最後の話が始まった。


 信二の父、真月源治の趣味は骨董収集だった。それも、木彫りの彫像集めという場所の取る趣味。多くの金が飛んでいき、とうとう夫婦喧嘩にまで発展したらしい。

「で、ある日父に押し付けられたんだよなぁ。売り払うのも捨てるのももったいないから引き取ってくれ、って」

 渡されたのは黒色の手のひらに収まるほど小さな老人の像だった。何を入れる袋なのか、左手で大きな布袋を背負い、右手には鎌を持ち肩に担いでいる。

「布袋様みたいなんだが、普通の布袋様は鎌なんて持ってないだろ? だからそこが珍しいって十年くらい前に購入したらしいんだ。福老って書いて『フクロウ』って読むんだと」

 ろうそくの明かりが揺らめいたのは、健太郎が頷いたからか。

「お前も知ってる通り、実は俺、あんまりそういう像を飾る趣味はないんだ。だから渡された時も困って……でも捨てるわけにもいかないからしばらく使わない袋の中にでも入れておこうと思ったんだ」

 そうして目についたのが、登山バック。買ったはいいものの、一、二度使用しただけで物置行きになってしまった代物だ。

 そしてそのことは忘却の彼方へ。いつしか真月は父親からもらった木彫りの像の存在を忘れていた。


「そのバックを取り出したのは、急に大学時代のサークルの仲間が登山バックを持っていたら貸してくれと言ってきたからだ。俺は頷いて、傷んでいないかチェックするために高岡山にハイキングをしに行くことにしたんだ」

 ――あくまでもハイキングであって、本格的な登山ではない。中坊でも登るような場所だ。

 装備が軽い理由を、真月はそう話した。

「だから、中身のチェックも実はそんなにしていなかったんだ。懐中電灯と飯と防寒具くらい?」

 そうして真月はそれと知らないまま木彫りの像、福老をつれて高岡山に入った。


 そこまで話して真月はあぐらを崩して、手元にあったペットボトルの水を煽った。喉仏が上下に動く。ぐぎゅぐぎゅと喉が鳴った。

「続き、早く話せよ。俺、実はさっきから便所に行きたかったんだ」

 身も蓋もない訴えに苦笑して、真月は再び口をひらいだ。

 あたりはすでに、しんとした夜の闇に溶けている。


 「しばらく歩いた頃だ。俺はあたりの様子が妙におかしいということに気が付いたんだ。高岡山は健太郎も知っている通り、ガキが遊ぶような小高い丘だ。いくら夕方とはいえ、まわりの町の様子が見えなくなるほど木に囲まれることはない」

 現に登って一時間ほどはトレッキングのロープもあり、木々の間から街の様子が見えていた。

「でもな……ふと気が付くと、場所が分からなくなってたんだ。で、急に空が赤紫になってきて、カラスが鳴き始めて……」

 恐怖を覚えたそのとき、どこからかキチチチチという歯ぎしりのような何かの動物の鳴き声のような声が聞こえてきた。


 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。

 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。


 音が……いや、鳴き声が近くなった。

「そのときはまだ鳥か何かかと思ってたんだよ。野鳥の縄張りに入ってしまったから、それで怒ってんのかなって。もしくは近くに雛がいて、母鳥が警戒してんのかなって。ほら、鳥ってそういうときいつもと違う鳴き方するじゃん?」

 頷く気配。

 ジジジと蝋が溶ける音が、静寂にかすかな引っかき傷を作った。

「だからどこかに鳥でもいるのかなって周りを見たら……いたんだよ。何かが」

「『何か』ってなんだよ」

 核心に触れだした真月に、加藤が身を乗り出して訊いた。

 真月は答えない。まるで、答えたらここにその物体が生じてしまう……呼び寄せてしまうと恐れているかのように。

 それでも何度目かの催促にようやく言葉を続けた。

「ネズミ、だよ」

 声が、少し震えている。

 普段はネズミごときで怖がることはない。それなのに……。

「馬鹿でっかいネズミ。馬くらいはあったかなぁ。赤紫の空をバックにして、そいつがこっちを見てるんだ」


 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。

 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。


 覗いた歯が、口の周りが、ひげが、体毛が……べっとりと真っ赤に染まり、その近くには千切れた人間の残骸が転がっていた。

 恐怖に染まった、崩れかけた顔と目が合う。

 かすかに血の匂いが漂ってくる気がした。濡れた鉄棒の匂いだ。

「なんでそんなに近くにンなもんが転がってて気が付かないんだよ。匂いで分かるだろ」

 健太郎の突っ込みに真月は首を振った。

 分からない、と。

「なんでああなったのか、あれはなんなのか、そもそも現実なのかわかんねぇんだ。ただ、その馬鹿でかいネズミと目が合ったとき、『殺される。逃げなきゃ』って」


 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。

 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。


 血に染まった怪物が真月めがけて足を動かした。

 その体重を受けて、ぐちゅりと血だまりが悲鳴を上げる。


 夕闇の中、命がけの逃走劇が始まった。


「どこに逃げればいいかなんて分かるはずがない。細かい枝が顔に当たったり、石につまずいたり……とにかく一生懸命だった」


 脳裏に、無残に殺された誰かの恨みがましい顔がよみがえる。


 ああなりたくない!

 殺されたくない!


 それでもとうとう……。


「あんまり慌てて走ってたからか、途中で足がもつれて転んじまったんだ。ああいう時って変にスローモーションで見えるんだな。衝撃で吹っ飛んだバックから、福老やら着替えやらが飛び散るのが妙に印象的だった」

 だが、その思いも長くは続かなかった。


 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。

 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。


 ネズミの化け物に手足を押さえ込まれてしまう。

 よほど興奮しているのか、何度も真月の首を噛み千切ろうとした。

 血走った目が近づいては離れ、近づいては離れ……。


「しばらくはもがき続けていたんだが、そのうちに疲れて気絶してしまったらしい。そこからはあんまり記憶がないんだ」


 ふ、と意識が戻ったのは白々と夜が明けるころだった。

 山鳩の鳴き声が聴覚を打つ。


「辺りには何もなかったよ。ネズミも、血痕も何もない。近くを歩いても惨殺死体なんてなかった。散らばっていたのは俺の登山バックと着替えくらい。ただ、なぁ……」

「あん? なんだよ」

 肝心の部分で記憶が抜けていたことに対する不満か、健太郎がほんの少し苛立った口調で続きを促した。

 一つ首肯して真月が続ける。

「福老だけがないんだ。どこを探してもない」

 いくら小さいとはいえ、吹っ飛んだ位置ははっきりと覚えている。色だって黒で見つけやすいはずだ。

「それでもないんだ。で、あんまりその場にいたくなかったからひとまずバックと着替えだけ回収して山を下りた。……俺の話はこれでおしまい」

 だが、真月はろうそくの灯を消そうとしない。

 何かをためらうように、未だ抱えきれないよどみがあるかのように体を揺らす。


「なぁもう少しだけ、話していいか?」

「なんだよ、その後テレビを見たらあの山では行方不明者がいた、なんてオチだったら笑えねぇぞ」

「いや、違うんだ」

 ちらりとろうそくの火に目をやる。ユラと揺らめいた炎は、それでも消えることはない。

 まだ、続いている。


「高岡山を下りた後で俺はおやじに電話をしたんだ。誰かと話して安心したかったのかもな」

 少し風が出てきたのか、窓枠が枝でこすれる音がした。

「何か変わったことがないか聞かれて……で、俺は高岡山であったことを話したんだよ。もちろん、かなりマイルドに……高岡山で野生動物に襲われそうになって、その衝撃で福老をなくしてしまったってね」

 いつか遊びに来られた時に飾っていないのも気が引ける気がして、と言い足す。

 もう一度、とうにぬるくなった水で乾いた唇を潤した。

「おやじが言うにはさ、それは『旧鼠』なんじゃないか、って」

「きゅうそ?」

「そう、ネズミの化け物。で、購入した後調べたら福老は梟の化身だったらしい。あの鎌で化け物を刈って、袋の中に押し込めるんだと。……万が一のお守りとして俺にくれたらしいな」

 風が強さを増す。

 綺麗な形を描いていたろうそくの灯が、真月と加藤の身動きにかたちを崩した。

 大きく揺らめく灯のなか、ぽつ、と真月が言葉を重ねる。

「俺の家系、もとをただせば「魔憑き」……魔物を取り憑かせたり、生贄とか人柱にたてられた家だったらしい。だからおやじはそういうのを祓えるような何かを彫像に求めていたんだろうな」

「それが福老だった、ってことか」

「ああ。まあ、もう福老はないから次に会ったらどうなるかわかんねぇけどな」

 出来過ぎじゃねぇか、という笑いが健太郎の喉から上がった。

「よし、あとはそのろうそくの灯を消してそれで終わりだ。真月、やれよ」

「そうだな」

 わずかに間をとって様子をうかがう。この炎を消したら、疲れたけど楽しかったと笑って……何かうまいものでも食べに行こう。

 少し話しすぎて疲れた。

「じゃあ……」


 風が、強くなり始めていた風がやんだ。

 まるで何かの登場に怯えるかのように。

 暗闇の中で身をひそめて、己の存在を消すかのように。



 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。

 キチチチチ。

 ギュイギュイギュイ。


 ……どこからか、ぬらりとした濃い血の臭いが漂ってきた。


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切り札はフクロウ 神辺 茉莉花 @marika

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