第6話:Bパート

 レイチェルは、巨人との戦いに引き続きひどく破損したアルテローゼを見上げていた。


「今回もぎりぎりでしたわね。機体がぼろぼろですわ」


『仕方ないだろう。機動兵器戦闘ゴーレムとはそんなものだ。壊れたらまた修理すれば良いのだ』


 レイフは、毅然とした態度でレイチェルにそう返すが、その内心は、


『(今回やばかったな~。こんな戦いはもうこりごりだ。次はもっと楽して勝てる方法を考えよう)』


 と、いささか情けないことを考えていたのだった。

 帝国の筆頭魔道士として、ブイブイ言わせていたはずの男が、情けない話である。


『うるさい!』


「何か気に障ることでもありました?」


 レイフはナレーションに抗議の声を上げるが、彼以外には聞こえないので、レイチェルはアルテローゼレイフカメラをピカピカと光らせるのを不思議そうに見るだけであった。


『いやなに、こちらのことだ。気にしないでくれ。…たとえ何があろうとも、儂はレイチェルを全力で護ってみせる。そのためにアルテローゼの機体が壊れることなど些細な問題だ』


「でも、レイフはアルテローゼ機体が無くなってしまったら、存在できなくなってしまうのではなくて? 手や足ならまだしも、胴体や頭部が無くなると…駄目な気がするのです」


 レイチェルが不安そうに言うと、さすがにレイフも不安に感じる。


 実際、レイフがレイフとして成り立っているのは、何を基本ベースとしているのか、今もって不明なのである。特殊な制御コアが必要であることは確かだが、制御コアをアルテローゼの機体に組み込まなければ、目覚めなかったことから、この機体も必要なのかもしれない。そうなった場合、アルテローゼ機体が修復不可能なレベルまで破壊されてしまったら、レイフがAIとして存在できるのかは不明なのだ。


『それは…そうなってみないと分からぬが…。ええい、機動兵器にとって頭は飾りみたいなものだ。サブカメラもあるし、胴体も制御コアさえ無事なら何とかなるだろ。それに儂の手にかかれば、この程度の破損は錬金術でちょちょいのちょいと修理できるわ』


 レイチェルを安心させるために、そして自信の不安を覆い隠すために、レイフは自信たっぷりにそう言いきった。まあ、実際それぐらいの実力をレイフは持っているのだ。





「レイチェルさん、パイロットの少女を救助してきましたよ」


 二人がそんな会話をしていると、レイチェルの前にホァンがやってきた。彼はディビット達と一緒に、破壊され動きを止めたガオガオの調査とパイロットの救助を行っていたのだ。


 戦いが終わった後、レイチェルは自身の手でパイロットの少女を救出するつもりであった。しかし、敵の機動兵器はどんな罠が仕掛けてあるか分からず、敵パイロットも危険な奴かもしれない。レイチェルに万が一のことがあっては駄目だと、レイフは指揮車の正規軍人に救助と調査を依頼したのだった。


 レイフに命じられた指揮車のメンバーだったが、最初は「そんな面倒な事はやりたくない」という態度だった。しかし、レイチェルが「お願いしますわ」と懇願すると、「イエス、マム!」と二つ返事で引き受け、てきぱきと作業を行っていた。


 その調査&救助対象のガオガオだが、アルテローゼレイフが盾で護った頭部と前足、そしてコクピットが在る胴体の一部以外は、対戦車ミサイルによって粉々に破壊されていた。コクピットには首の付け根にあるハッチから入ることができ、ホァンがブービートラップに注意しながら乗り込んで、少女を助け出してきたのだった。


 そのホァンの腕の中に、マーズリアンの少女が抱き抱えられていた。俗に言うお姫様抱っこ状態だが、気絶している少女にはあまり意味がない。それにホァンは王子様とはほど遠い顔であったので、少女は気を失っている方が良かったと言えるだろう。


「この子がパイロットですの?」


 レイチェルは、聞こえてきた声からパイロットが少女だと確信していたが、自分が思っていたより容姿の幼い少女だったことに驚いていた。少女は目を閉じていたが、胸も上下していた。衛生兵の資格を持つケイイチの見立てでは、爆発の衝撃で気絶しているだけで、命に別状はないとのことだった。

 少女はこのまま捕虜として首都に連れ帰ることになるので、指揮車の仮眠ベッドに寝かせることになった。本来なら捕虜は拘束すべきなのだが、さすがに幼女を拘束するのはためらわれたので、首都に帰るまでホァンとマイケルに見張ってもらうことになった。


 パイロットの少女の扱いで、そんな事をやっているうちに、調査を終えたディビットが、アルテローゼレイフの所に、直径五十センチほどの黒い球体を抱えてやってきた。かなり重量があるらしく、よろよろと運んできた。


「お前さんに頼まれたてた物を見つけてきたぞ。恐らく、これがあのメカ・ニャンコのブラックボックスだ」


 ディビットが差し出した、黒い球体ブラックボックス。その中には、ガオガオの制御コアが納められているはずなのだ。


 なせ、レイフがディビットに黒い球体ブラックボックスの回収を依頼したかというと、レイチェルの父親であるヴィクターが、革命軍の機動兵器ゴーレムが魔法を使える原理を研究したがっていたからである。


 実は魔法が使える原理を解明したいのなら、レイフの制御コアを研究するのが一番手っ取り早いのだ。しかしレイフの制御コアは機密事項であり、もし何かの間違いでレイフが消えてしまう事も恐ろしく、ヴィクターは手を付けかねていたのだ。

 しかし、彼の研究者としての熱意は並々ならぬ物で、レイフは身の危険をこの戦いの前から感じていた。そこでちょうどガオガオという絶好のスケープゴート生け贄が現れたので、レイフの身代わりとしてその制御コアを確保したのだった。


『ディビット、良く見つけてくれた。ミサイルで破壊されてなくて良かった。これで、敵の秘密が…どうして魔法・・が使えるのか、その秘密が解明できるはずだ』


「いや、魔法・・とかあり得ないだろ」


 レイフが言った「魔法」という言葉に、ガチガチの理系人間であるディビットは、あきれた顔をする。


 では「アルテローゼや巨人、ガオガオが使った魔法は何なのだ」と、レイフがディビットに尋ねると、「きっとどこかの企業が秘密裏に開発した画期的な軍事技術に違いない」とのたまうのだった。


 まあ、それも黒い球体ブラックボックスを解析すれば分かることだと、レイフ達は首都への帰路に就くことになった。



 ◇



「レイフ、アルテローゼの修理は、儂に任せておけと言ったのに、今更修理ができないって、どういうことですの」


『そ、それが。どうもさっきの戦いで魔力マナを使いすぎたのか、錬金魔法が発動しないのだ。まあ、首都への通信もできるようになったのだ、救援を呼べば良いだろ』


「つまり、機体が壊れても大丈夫ではないのですね。先ほど大丈夫と言ったのに…レイフは嘘つきなAIですわ」


『それは、まあ。儂は元人間だし…。レイチェルさん、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ…』


 それから救援部隊がやって来て、アルテローゼを牽引して首都に帰るまで、レイフはレイチェルに謝り続ける事になったのだった。



 ◇



 オリンポス行政ビルサッカーボール。その最上階のエグゼクティブルームが火星革命戦線のリーダーであるサトシの部屋として割り当てられていた。サトシにすると、エグゼクティブルームは「ブルジョアの象徴であり、プロレタリアートにはふさわしくない」ということなのだが、革命軍を支援するオリンポス市民と企業側から提供されたこともあり、仕方なくエグゼクティブルームを使っていた。


 一泊の料金で、平均的なマーズリアン火星人の一ヶ月分の給料が吹っ飛ぶであろうエグゼクティブルームは、寝室以外に四十平方メートルのリビングや五十名で会議が行える多目的ホールが付いていると言う無駄に豪華な部屋であった。だがサトシは、エグゼクティブルームの寝室しか使っていなかった。


 ここ数日の間、サトシは火星革命戦線のリーダとして、革命軍への支援を依頼するために火星の各都市を巡っていた。首都進行までは協力してくれた都市の中には、シャトルを落としてしまったことで革命軍と距離を置く都市が増えてきており、革命軍指示と地球連邦支持の都市が入り乱れ、まるでモザイクのような状況となっていた。


 ピルピルとベッドサイドに置いた通信端末が鳴る。先ほど火星の南極にある都市、アウストラレから戻ったばかりで、まだ一時間と寝ていないサトシだが、端末の呼び出し音にむくりと起き上がり通信端末を開いた。


『おいメガネ、ライオン型巨人ガオガオが連邦軍に敗退したと情報が入った。だから俺は、アイラあいつ一人で行かせるのはまずいと言ったんだ。これで巨人・・が無敵じゃないと革命軍に知れ渡った。この敗退は、革命軍の士気に影響するぞ』


 端末のディスプレイに映ったのはイスハークだった。興奮した口調の彼は、ガオガオがアルテローゼに負けたことによる革命軍への悪影響を早口でまくし立てた。

 そう、革命軍が地球連邦政府への武力行使を決めたのは、サトシが持ち出した謎の技術と無敵の巨人の存在が大きかった。その巨人が、立て続けに負けたとなると革命軍兵士の士気は大きく落ちることは目に見えていた。サトシが火星の各都市を回っていたのも、首都侵攻部隊で巨人が負けた事の対応のためだった。


「イスハーク、俺をメガネ・・・と言うな! その情報は、俺も知っている。…それに、ライオン型巨人ガオガオが、連邦軍に敗退するのは想定内のことだ」


 ガオガオのパイロットであるマーズリアンの少女、アイラを連れてきたのはサトシであった。そしてサトシはガオガオが負けることが想定内のことであると言う。

 そのサトシの返答を聞いて、イスハークは驚き、そして怒りがこみ上げてきた。


メガネ・・・、俺は戦いで必ず勝てると言うほど馬鹿じゃない。当然負けることもあると思っている。だが、負けると分かって兵士を無駄に死なせることは絶対にしない。それは指揮官として、いや人として最低の行為だとおもっている。アイラは、まだ年端もいかない少女だったんだ。俺はお前が大丈夫・・・だからと言うから、反対を押し切ってアイラをライオン型巨人ガオガオのパイロットにしたんだぞ』


 火星革命戦線は、マーズリアンの虐げられた現状を何とかしようと志した人が集まってできた組織である。昔の地球の宗教的な武装組織とは異なり、無駄に民間人を巻き込む武力行使やテロも行わないことを信条としている。革命軍の兵士は、全員志願兵であり未成年の参加は認められていない。

 そういった中で、十歳というアイラをライオン型巨人ガオガオのパイロットとするのは、周囲の反対が大きかった。軍の最高司令であるイスハークと言えども、ごり押しで通せる物ではなかった。ライオン型巨人ガオガオを一番上手く扱えるのはアイラしかいないと、サトシが推薦したと周知させることで、革命軍の兵士達の了承を得られたのだった。


 そこまで苦労して送り出したアイラとライオン型巨人ガオガオだったのに、負けることが想定内だったと言われれば、イスハークが激怒しても当然のことであった。この時イスハークはサトシに対して反逆の意思を抱いてしまった。


「イスハーク、落ち着け。それに何度も言うがメガネ・・・は止めろ。…俺は、ライオン型巨人ガオガオが負けたのは想定内と言ったが、アイラを犠牲にしたとは言ってないぞ」


 サトシのメガネがきらりと光り、その視線がイスハークを射すくめる。その冷徹な視線に、イスハークはサトシに対する反逆の意思が見透かされたように感じ、冷や汗を流した。そして、なぜかサトシへの怒りが急激に収まっていくのを感じた。


『アイラが犠牲ではない? だがライオン型巨人ガオガオが敗退したのは事実だぞ。つまりアイラは死んでしまったと言うことだろう?』


「いや、ライオン型巨人ガオガオは破壊されたが、アイラは生きている。これは確かな情報だ。そしてアイラは、連邦軍に保護されて首都に向かったようだ」


『どうしてアイラが生きていると、チーバは知っているのだ。軍部こっちには、そんな情報は入ってないぞ!』


 イスハークの言うことも当然で、ガオガオが負けたことを彼が知ったはもつい先ほどである。各都市を回っていたサトシが、イスハークより先にそのことを知っていることの方が異常なのだ。そしてイスハークが掴んでいない『アイラが生存している』という情報がどこから入手しているのか、不思議に思っても当然のことである。


「情報源については、…秘密だ。これはイスハークおまえにも話せない」


『俺は軍事面の最高責任者だぞ。情報は共有する必要があると思うのだが?』


「情報は共有する。だがそのソースに付いては今は話せない。イスハーク、アイラの件は、俺が皆に説明する。これで良いだろ」


『…分かった。だが情報は絶対に共有してくれ』


 イスハークはしばらく考え込んだが、不承不承という感じでうなずいた。


「理解してくれて助かる。俺は、もう少し眠らせてもらうぞ」


 そう言ってサトシは通信端末を閉じた。


「アイラが首都に入ったことで、我が君がお探しの者を見つけ出すのも時間の問題となった。見つけ出すまでは、首都進行は控えるしかないが、それでは他の革命軍の収まりが付かないか…」


 サトシは再び通信端末を開くと、誰かと連絡をとる。そのやりとりを知るものは、サトシとその通信相手以外いなかった。




 首都に戻ったアルテローゼレイフは、修理のために格納庫に直行する。

 そしてレイフと別れたレイチェルは、少女アイラをつれて父親であるヴィクターがいる研究所に向かった。


 そして、研究所の通路をレイチェルとアイラは手をつないで歩いていた。


「地球人、あたいをどうするつもりだ。連邦軍の兵士に引き渡すんじゃないのかよ」


 アイラは、どうして自分が連邦軍に引き渡されず、レイチェルに連れられて研究所こんなところにいるのか理解できなかった。そしてその口調はガオガオに乗っていたときと異なり、その外見に似合わないチンピラっぽい言葉遣いであったが、それはアイラが強がっていることの表れであった。


「そうしてほしいのですか?」


 レイチェルにそう言われて、連邦軍、いや連邦政府がマーズリアンをどのように扱うか革命軍の人達から良く聞かされていたアイラは、プルプルと首を横に振る。

 まあ、アイラが聞かされていた話は、全くでたらめであった。連邦軍が年端もいかない子供まで残虐に扱うなどあり得ない話である。これは親が子供に「悪いことをしたら連邦軍の兵士さんにつれてかれちゃうよ」という話を大げさにしたものだった。だが、幼いアイラはそれを本当のことと信じていたのだった。


「…ところで、貴方の名前をまだ聞いてませんでしたわね。教えていただけますか?」


「…」


 レイチェルは名前を尋ねるが、アイラは沈黙したままだった。そこでレイチェルは、アイラに少し意地悪をしたくなった。


「そうですね、名前が分からないのであれば仕方有りませんわ。連邦軍基地には確か火星に住む方達の住民データがあると聞きますから、そちらに向かって、貴方の名前を照合しましょう?」


 レイチェルはきびすを返して研究所から出ようとするが、連邦軍基地に向かうと聞いてアイラが従うわけはない。アイラは、その場にしゃがみ込んで一歩も動かないと態度で示した。


「名前が分からないパイロットさん? お腹でも痛くなりましたの? では病院にいって注射をしてもらいましょうか」


「ひぃい、注射はもっとやだよ。お腹なんて痛くないよ」


 アイラは、子供らしく床に寝転んで手足をばたばたさせて抵抗する。


 レイチェルは子供らしいアイラの態度に微笑むと、「では、名前を教えていただけますか?」と再び尋ねる。


「…。アイラだよ」


 アイラは小さな声でレイチェルに呟いた。



 ◇



 名前を教えてからアイラは素直にレイチェルの後に付いてきて、彼女は所長室にいたヴィクターにアイラを引き合わせた。


「それで、レイチェルはその少女をどうしたいのかね?」


 ヴィクターは、アイラを連れてきたレイチェルを見て、頭痛でも起こしたのか頭に手をやった。


「お父様、この少女、アイラさんを捕虜として連邦軍に引き渡したくないのです」


「ふむ、それはどうしてだね?」


「大シルチス高原の戦いで多くの兵士の方がなくなられました。そんな時にこの少女を革命軍のパイロットだと引き渡して、どんな目に遭わされるか…」


「さすがにそんな事はないとは思うがね」


 ヴィクターはため息をついて、レイチェルの心配が的外れだと告げるが。


「連邦軍に引き渡されるぐらいなら、舌を噛んで死んでやる」


 アイラは、涙目で舌を噛むまねをしていた。


「まあ、彼女は連邦軍に対していろいろ思うところがあるみたいだ。分かった、あの制御コア・・・・の解析のために必要だと言うことで、研究所で預かれないか掛け合ってみよう」


「お父様、ありがとうございます」


 ヴィクターはやれやれという風に肩をすくめると、オッタビオ少将司令に連絡を取るのだった。





「結局あたいはどうなるのさ?」


 レイチェルと一緒に退出したアイラは、レイチェルが住む職員宿舎に連れて行かれた。レイチェルだけでは問題があるかもしれないと、三十代ぐらいの女性の研究所員が一人付いてきてくれた。彼女はマーズリアンであるが、信頼の置ける人であり、アイラの世話をするには最適とヴィクターが手配してくれたのだ。


「そうですわね。しばらくはここに住んでもらうことになりますわ。でもその前にやることが、一つありますの」


 レイチェルはアイラをじっと睨むと、ため息をついた。


「な、何だよ」


 アイラはその視線に不穏な気配を感じた。


「まずは、お風呂に入りますわよ」


「え、えっ?」


 突然の「お風呂」宣言に驚くアイラ。レイチェルはアイラの手を掴むと、そのまま強引に宿舎のお風呂に引っ張っていった。



 ◇



 この時代、風呂という文化は廃れていく傾向にあった。なぜなら世界大戦中はエネルギー不足であり、大量に水を必要としそれをお湯にしなければならない風呂という物が、エネルギーの無駄と思われたからであった。もちろん風呂の文化をこよなく愛する日本人は断固としてそれを否定したが、世界的には風呂文化は無駄の塊という認識になっていくのだった。

 そして人類の風呂離れを決定づけたのは、体の洗浄を簡単にしてくれるバイオ製品の開発だった。まるでスライムのような洗浄用具で体を拭うことで、皮膚の老廃物を吸い取ってくれる製品やクリーム状の薬品で、体に塗っておくだけで数日間は体を清潔に保ってくれるという製品が開発されたのだ。

 もちろん火星でもそのバイオ製品が生産されており、マーズリアンの間でも利用する人が多かった。またそんなバイオ製品すら購入できないスラム街の貧困層は、人口密度が少ないことから豊富で清潔な運河の水で体を清潔にしていた。


 そんな状況下で、何故か火星の地球連邦軍研究所の職員宿舎には、ちょっとしたスーパー銭湯並みの入浴設備が整っていた。これはヴィクターの前の研究所長が、「お風呂に入ることでリラックスして研究の疲れを癒やし、またお風呂で所員のコミュニケーションを行うことで、研究開発の効率が上がるのだ」と言い張って、無理に作らせた物だった。きっと前所長は、お風呂好きな日本人か古代ローマ人の血を引いていたのだろう。残念ながら首都ヘリウムでは温泉が出ないため普通のお湯を使用しているが、宿舎で生活している女性研究所職員には好評であり、レイチェルも一度入ってその魅力に取り付かれたのだった。


「なんだよ、これは。このお湯を張ったプールが、お風呂・・・とかいうものなのか?」


 レイチェルに連れられてやってきたアイラは、その豪華な設備に驚き目を丸くしていた。天涯孤独で、スラム街で育ったアイラは、運河での水浴びしか経験しておらず、風呂というものすら知らなかった。

 そのためレイチェルと女性研究職員に、脱衣所で強引に服を脱がされたときは、一体自分はこれからどうなるのかと、戦々恐々としていたのだ。


「そうですわ。さあアイラさん、お風呂を楽しみますわよ」


 レイチェルは前を隠さず、そのわがままボディを見せつけるように大浴場に入ってきた。もしレイフがその光景を見たら思わず鼻血をだして卒倒していたこと請け合いである。もちろん、湯気と光が良い仕事をするので、肝心な部分は隠れているので安心である。


「ずるいぞ、金髪ドリル」


 アイラはレイチェルのわがままボディを見て、そして自分のツルペタボディを見て愕然とする。まあ、スラム街で育ったアイラの発育状態は、その年齢の平均より低いものだった。俗に言うツルペタである。いや発育不全とか関係なく十歳の彼女が、十七歳としては破格のプロポーションを誇るレイチェルと身体的特徴の差を比べても勝負になるわけがなかった。しかし、そんなわかりきった状況でも、戦力を比較してしまうのは、アイラも一端の女性と言うことであった。


「何がずるいのですか? ああ、もしかしてこれですか」


 レイチェルは、その手に持った黄色いアヒルさんをアイラに手渡した。もちろんそれはレイチェルの物ではなく、お風呂に備え付けのおもちゃである。


「いや、これじゃないんだけど。…もういいや」


 アヒルと一緒に突き出されぷるんと揺れるレイチェルの胸に、アイラは言い返す気力も無くなった。アイラは黄色いアヒルを受け取ると、そのままとぼとぼと湯船に向かう。


「お待ちなさい。そのまま湯船に入っては駄目ですわよ」


 そのまま湯船に入ろうとしたアイラの手を、レイチェルは慌てて掴んで引っ張った。


「えっ?」


 手を引っ張られ、思わず反射的に引き返すアイラ。しかしそれに負けないと引く腕に力を込めたレイチェル。アイラの体重は見た目より軽いため、そのままレイチェルに引っ張られた二人はもつれ込むように洗い場の床に倒れ込んだのだった。


「いた、たた、痛いですわ」


「それはこっちの話だよ」


 幸い床は転倒しても怪我をしないように弾力のある素材で作られていた。そのため、二人は怪我を負うことはなかった。

 仰向けに倒れたレイチェルの上にアイラが乗っかっているというサービスシーンだが、お約束として当然湯気と光でよく見えない。レイフがいたら思わず湯気を吹き飛ばそうと、フーフーしていること請け合いであった。


「早くどいてください…あん、変なところに手をついてはだめですわ」


「そんな事言っても、こうプヨプヨしてちゃどこかに触っちゃうんだよ」


 そんな桃色なやりとりが数十秒間繰り広げられた後、後から入ってきた女性職員の手を借りて、二人はようやく立ち上がった。


「アイラさん、湯船につかる前に体を洗うのがマナーですわよ」


「…そんなマナーなんて知らないし」


 レイチェルに叱られて、プィッと横を向くアイラ。


「では、私が教えてあげますわ」


 水浴びしかしたことのない彼女にお風呂のマナーを説いても仕方ないと悟ったレイチェルは、自身の手でアイラの体を洗うことに決めた。





「目にしみるよ~」


「目をきちんと閉じていないからですわ。我慢しなさい」


 洗い場では、レイチェルはアイラの頭をシャンプーとリンスできれいにする。アイラはマーズリアン特有の赤黒い髪だが、綺麗になるとまるで赤毛のようなつやが出てきた。


「何かヌルヌルするよ。これってもしかして洗浄スライムってやつか?」


「違いますわ。これはボディソープですわ」


 次にレイチェルは、ボディスポンジでアイラをきれいに磨き上げていく。日焼けしていない真っ白なアイラの肌はまるでお餅のような弾力があり、触り心地はとても良かった。レイチェルは思わずかわいらしいお尻を触って、アイラに睨まれたりした。


「これは何ですの?」


 アイラの体を洗っていたレイチェルは、彼女の右胸に最近できたと思わしき手術痕を見つけるのだった。

 手術痕は五センチほどの長さであり、まるで素人が縫合したようなむごい物だった。


「…それは、あたいが死にかけたのをサトシが救ってくれた痕だ」


「そう…ですの?」


 アイラがその傷跡について触れてほしくない様子だったため、レイチェルはそれ以上深く尋ねることはなかった。



 ◇



 その頃、研究所の所長室では、ヴィクターがアイラの身元調査の結果を聞いていた。


「それでは、アイラという少女は既に…」


「はい、アイラという少女は、一週間前にオリンポスで亡くなっています」


 火星行政府の戸籍課AIは、アイラという少女が既に亡くなっているとヴィクターに告げた。


「そんな馬鹿な話があるのかね。先ほど私の娘が、アイラという少女を連れてきたのだよ。亡くなったのは別のアイラさんではないのかね? それに一週間前といった首都に革命軍が攻めてきた時じゃないか。データベースに間違った情報が入力されているんじゃないのか?」


「オリンポス行政局との戸籍データの同期は、正常に行われています。そのデータベースに登録されている中で、名前がアイラという十歳の女性の方は、一名のみです」


 ヴィクターは、まくし立てるようにAIに質問するが、AIの回答はアイラが死んでいると告げる物だった。


 不思議なことに、革命軍の本拠地であるオリンポスから首都に向けて行政データが正常に送られて来ていた。戦争をしているのに、情報が送られてくる。どう見ても欺瞞情報を送ったり、ウィルスを送るといったサイバー戦の為と思われるのだが、専門家が調べてもデータ回線は正常に動作しており、厳重なチェックでもウィルスやクラッキング行為は見られなかった。そのため火星行政府は、行政に関係あるデータに限って同期を行う事にしたのだった。そして、そのデータには戸籍情報も含まれていた。


「馬鹿な、私と娘は幽霊にでも会っているというのかね」


 ヴィクターはAIに抗議するが、戸籍を管理するだけのAIにそんな抗議は通るはずもなく。


「データベースに登録されている中で、名前がアイラという十歳の女性の方は、一名のみです」


 と同じ内容を繰り返すだけだった。


「そういえば、アイラはスラムに住んでいたようだった。もしかして戸籍が登録されていない可能性もありえるか。…念のためだ、その亡くなったアイラさんの写真が有ったら見せてもらえないかね」


 ヴィクターは、アイラが戸籍登録されていない未登録児童ではないか考え、念のために死亡したアイラの写真がないかAIに尋ねる。


「はい、分かりました。こちらがそのアイラさんの写真となります」


 AIは、ヴィクターの要求に応じてアイラの写真を表示する。写真と言ってもオリンポスの地方新聞の記事に載せられた解像度の低い物であった。


「…馬鹿な」


 映し出された写真をみて、ヴィクターは絶句する。その解像度の低い写真に写っている少女は、レイチェルが連れてきたアイラその人だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る