ホーホー・ホロウ

えむ/ぺどろ

第1話

 巡航速度三〇km/hキロ

 それが現代における文字の通信速度。


 かつてメッセージは、ボタン一つで彼方まで届いたらしい。それが叶わなくなったのは、星屑の襷フォトンベルトが空にかけられてからだという話を幼い頃に父から聞いた。


 セメントダストが積もる街。

 昔は人で溢れかえっていた都市に残っている人間は、今はもうあまりいない。ほぼみな、空を取り巻く襷の威光が届かない北の大地へ移り住んだからだ。

 かくいう私の母も、ここを離れて新都へ移った。

 防塵コートを着込んでガスマスクを被らなければたちまち気管をやられてしまうような場所に、老齢の差し迫った母を置いてはおけなかった。

 そんな旧都市を踏み越えてしばし歩くと、木々の生い茂る森が見えてくる。

 樹高がどれも高く、文字通り見上げるほどに大きな巨木は広葉樹。常緑のそれは厳しい冬を迎えても青々と茂り続ける不変の象徴。

 旧都市に残った人々はここを神域と呼ぶ。「虚空さま」の棲まう神域、と。


 神域にはセメントダストが届かない。

 ガスマスクをとって頭をぶるり。マスクの中へ押し込んでいた髪がばさと下りる。長いなと自分でも思う。けれど、まだ切ることはできない。

 私がここ神域と呼ばれる森に来たのは、「虚空さま」に会うためだ。

 暗夜の翁たる「虚空さま」は、日が昇っているうちはいくらか出会いやすい。周囲を注意深く見渡しながら、足下の枝をぺきぺきと踏んで森の奥へ進む。

 しばらく歩いた。

 原生林の少し手前。人が踏み入ってはならない領域の境目のあたりまで到達した時、私は見た。

 倒れて朽ち始めた木の上に、ちょこんと佇む羽毛の塊を。

 見ているだけでもその羽毛がなよよかなのが感じ取れる。つぅ……と目が見開かれ、頭の位置がそこでようやく分かった。左右に百八〇度ずつ、きょろきょろと頭を動かした羽毛の塊と目が合う。

 星屑ひろがる夜空をそのまま閉じ込めたような瞳だった。

 これが「虚空さま」である。

 翼を持ち、尖った耳を持つ鳥である「虚空さま」は、梟と呼ばれる猛禽類の一種であるらしい。

 思わず息を飲む。

 が、少しして我に返る。

 私は、防塵コートの下に抱えていたポーチの中から便箋を取り出し、そっと腐植土の上に置いた。それから後ろ歩きでゆっくりと距離をとって離れる。

 不躾にも「虚空さま」が毛玉に思えてしまうくらいの位置まで離れた時だった。かの梟が留まっていた倒木から降り、ととっと歩いて便箋に近づくのが見えた。

 「虚空さま」はそのまま便箋を噛んで翼を広げる。

 飛び立つまで一秒。立ち去るまで数瞬だった。


 嘘か真か。「虚空さま」は思いを運んでくれるらしい。

 梟は渡り鳥ではない。だから「虚空さま」があの便箋を運んでくれたかどうかなど、私は知る由もない。

 だけれど、現代に生きる私はこれに頼るほかないから。


 巡航速度三〇km/hキロ

 それが現代における文字の通信速度。届くかどうかも不確かだ。それでも私は梟の翼に託す。

 遠方にいる母へ、わずかな文字数に集約した短いメッセージが届くことを祈って。


 お母さん。私はもうすぐ、結婚します。

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