第29話 騎士団長と料理教室・1
気が付けば、温めたはずの料理はすっかり冷めてしまっていた。
「ごめんなさい。わたしが余計なことをお話していたせいです。すぐに温め直しますね」
そう言って冷めたスープとパンを持って、厨房に向かう。すると、アドリアンも琴子の後について厨房に入ってきた。
彼の母親も、よく料理を作っていたという。その母のことを思い出したりしないだろうか。そう心配したが、アドリアンは問題ないと言った。
あまり母親と接する機会がなかったので、料理する姿を一度も見たことがなかったらしい。だから彼の記憶に残っているのは、テーブルの上にびっしりと並べられた、たくさんの豪華な料理だ。マリアの厨房はいつも清潔で使いやすく整えられているが、豪華とはほど遠い。だから、問題ないのだろう。
「ここで、いつも料理を?」
「はい、そうです。これがオーブンで、薪で火を燃やして焼くんです。……やってみますか?」
興味深そうにオーブンを眺めているアドリアンにそう声をかけると、彼は頷く。
「ああ。道具の使い方を知らなくては、何もできないからな」
本気で料理に取り組むつもりなのだ。琴子はアドリアンが前を向く気持ちになってくれたのが嬉しくて、さっそくオーブンの使い方を説明する。
「ここに薪を置いて、火を点けてください」
アドリアンは重厚なマントを外して身軽になると、薪を運ぶ。
「ここでいいのか?」
「はい」
頷き、彼が火を入れる様子を見守る。
「温めるのに少し時間が掛かるので、わたしは明日の仕込みをしますね」
せっかくオーブンに火を入れるのだから、作れる料理は作ってしまおう。
そう思った琴子は、焼き菓子の準備をする。明日のデザートは、バターをたっぷりと使ったフィナンシェだ。バターをオーブンの熱で溶かし、卵白に砂糖を入れて泡立てる。
(少し寝かせたほうが、しっとりとしておいしいからね。小さめのパンの型をパウンドケーキ型に見立てて、それで焼こうっと)
アドリアンは興味深そうに、琴子の手順を見つめていた。
「これで何ができるんだ?」
「フィナンシェという焼き菓子です。わたしのふるさとでよく作られていたものなんです」
正確にいうと日本のものではないが、よく作っていたのは本当だ。
自在に温度を設定できた向こうの世界のオーブンと違って、火加減がとても難しい。薪の様子を見ながら、適切な温度にしていく。
「パンをオーブンに入れて、少し温めてください。スープはこっちのかまどで」
アドリアンは言われた通りにパンをオーブンに入れ、スープをかまどで温める。
「これでいいか?」
「はい。あまり焼くと焦げてしまうので、気をつけて。今度は冷めないうちに食べてください。わたしはフィナンシェを焼いてしまいます」
「ああ、わかった」
琴子はようやくオーブンの火加減を上手く調整すると、そこにフィナンシェ用のパンの型を入れた。
「ふう、これでいいわ」
「うまくできたのか?」
「ええ、バッチリよ」
笑顔で振り向いた琴子は、アドリアンが自分で配膳していることに気が付き、我に返って彼のもとに駆け寄る。
「ごめんなさい、火加減に夢中で。わたしがやるべきでした」
「気にすることはない。琴子にはこれから、色々と学ばなければならないからな。こちらは気にせず、作業を続けてくれ」
「はい。ありがとうございます」
しばらくすると、甘い匂いが漂ってきた。どうやら成功したようだ。次は明日のスープの用意をしておこう。
(何にしようかな。たまねぎはサラダ用にと思ったんだけど、ちょっとたくさん切りすぎちゃったから、スープにしちゃおうかな)
鍋にバターを落とし、溶けたところでたまねぎを入れて炒める。
食事を終えたアドリアンは、興味深そうに琴子の手もとを見つめている。
「これは?」
「明日はこれをスープにしようと思います」
飴色になるまでじっくりと炒めて、チキンスープを入れてゆっくりと時間をかけて煮る。そうしているうちに、フィナンシェも焼き上がった。
「うん、いい焼き色ね」
粗熱がとれてから型から外し、明日まで寝かせておく。スープもおいしくできたようだ。明日のランチはマリアが焼いてくれるパンとオニオンスープ。あとはサラダにハムエッグ。もちろんデザートはフィナンシェだ。
「手慣れているな」
「ううん、わたしなんかまだまだ。マリアおばさんのほうがすごいです」
慣れていないせいで、薪オーブンやかまどの火加減が難しい。マリアはさすがに手慣れていて、追いつくには時間が必要だろう。
「すみません、すっかり料理に夢中になってしまって」
「いや、誰かが料理をしているところを見るのは初めてだった。なかなか興味深い」
そう言ったあと、アドリアンは考え込むようにわずかに首を傾げる。
「料理というのは手順が多く、なかなか手間のかかるものだな。俺にできるだろうか?」
「大丈夫です。まずは簡単なものからやってみましょう。わたしもまだまだ修行中ですから」
「琴子でさえ、まだ修行中なのか」
「はい。料理はとても奥深いんです。次に来られるときは、一緒に簡単なものを作ってみましょう」
「ああ、そうだな」
彼を裏口まで見送り、その後ろ姿が見えなくなってから、きちんと施錠する。
厨房に戻って後片付けをしているうちに、少しずつ後悔が胸に押し寄せてきた。
(ああ、また暴走しちゃった……)
自分で料理すれば、心配なく食べられるのではないか。それは琴子の思いつきに過ぎなかったが、思っていたよりもアドリアンは興味をもってくれた。
(でも方法を間違えたら、かえってアドリアンさんを傷つけてしまっていたかもしれない。気をつけないと)
さいわい、アドリアンは自分の母が料理をする姿を見たことがなかったので、厨房や調理器具にその面影を見ることはなかった。だが、一歩間違えば大変なことになっていた。
(それに、ここはわたしの店じゃないのに、マリアおばさんに相談もしないで。明日の朝、ちゃんと話そう)
自分ひとりが困るだけならいいが、誰かを巻き込んだ暴走はもう二度としないと誓う。
そうして、翌朝になってからマリアに、昨日のことを報告した。
アドリアンに料理を教えることになった。
そう言うと、マリア驚いて目を瞠る。それから事の経緯を知り、深く溜息をついた。
「勝手に決めてしまって、ごめんなさい」
「いや、それはかまわないよ。アドリアン様のためになるなら、いくらでもやっておくれ。ただ……」
「はい、わかっています。アドリアンさんの負担になるようなら、すぐにやめるつもりです」
そう言うと、マリアは安堵したようだ。
それからふたりで朝食を食べる。
「このフィナンシェっていうお菓子は、しっとりして、バターの風味がよくておいしいね」
「作った当日より、翌日のほうがおいしくなるんです」
恒例のデザート試食会も終わり、今日もふたりで買い出しに行く。
「夕方のメインは何がいいでしょう?」
「そうだねえ。この間琴子が作った魚料理。あれは好評だったから、また出してみようかね」
「アクアパッツアですね。さっそく材料を買いましょう!」
夕方のメニューはパンにアクアパッツア。オニオンスープに、とろりとしたチーズをかけたサラダ。そしてフィナンシェに決まった。いつものように宅配を頼み、店に戻ってランチの支度をする。
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