第6話 知らない世界・2

その間にも強まった雨は降り続け、当然のように琴子はびしょ濡れになってしまっていた。

「あなた、大丈夫?」

 ふとそんな声が聞こえて、我に返る。

 声のした方向を見ると、ひとりの上品そうな老婦人が、心配そうな目で琴子を見つめていた。

 年は、六十半ばくらいか。

 白髪交じりの茶色の髪はきっちりとひとつに纏められ、雨除けのためか、大振りのショールを頭から被っている。服装は、紺色のワンピースに、白いエプロンをしていた。両手で抱えている大きなかごには、たくさんの野菜が詰め込まれている。

「あらまあ、そんなに濡れてしまって。風邪を引くよ」

 穏やかで優しい声だった。

(あっ、日本語で大丈夫なんだ)

言葉が通じた安堵。

さらに、これからどうしたらいいのか途方に暮れていた琴子は、その優しさに思わず涙が滲みそうになった。

「……ごめんなさい。どうしたらいいか、わからなくて」

 慌てて涙を拭うと、老婦人は琴子の髪から伝う雨の雫を、そっと拭ってくれる。

「とにかく私の家にいらっしゃい。温かいお茶でも飲んだら落ち着くよ」

 見ず知らずの琴子に、そんなことまで言ってくれた。

「でもわたし、何も持っていなくて。あの町に入れるかどうか……」

 町に入るには、警備兵がしっかりと守っているあの城門を、通らなければならない。

「あなた、どこから来たの?」

 そう尋ねられ、どう答えたらいいか迷った挙句、そのまま口にした。

「わからないんです。家で眠っていたはずなのに、気が付いたら向こうにある草原の上に倒れていて。荷物も何も持っていなかったから、寝ている間に拉致されてしまったのかと心配になって、とりあえず町の方向に逃げてきたんです」

 そう答えると、老婦人は慰めるように、優しく琴子の背を撫でてくれた。

「それは大変だったね。地方はまだ物騒だし、人さらいも出ると聞くからね。そんな目に合ったなら、なおさら安全な町の中にいた方がいいよ。城門は、私と一緒に行けば大丈夫だから」

 たしかに、夜になってもこのまま町の外にいるよりは、中に入ったほうが安全だろう。それに、彼女はとても親切で優しそうだ。

「でも、ご迷惑をお掛けするわけには」

「気にしなくてもいいわ。私は、人のお世話をするのが大好きなのよ。でもおせっかいだという自覚はあるから、本当に嫌なら断ってちょうだい」

 そう言う彼女は本当に親切そうで、ここは素直に好意に甘えようと、琴子は頷いた。

「はい。……お世話になります」

 頭を下げて、彼女が両手で抱えていた荷物に手を差し伸べる。

「荷物は持たせてください」

「あら、いいの。重いわよ?」

「はい。大丈夫です」

 やや強引に荷物を受け取ると、先を歩く彼女に付き従った。そのまま城門に並ぶ人々の最後尾に並ぶ。

「あなた、お名前は?」

「あ、琴子といいます」

 まだ名前も名乗っていなかったと気が付いて、慌てて告げた。

「琴子ね。私はマリアよ」

「マリアさん……」

「マリアおばさんって呼んでおくれ。みんな、そう呼んでいるからね」

 彼女はそう言って気さくに笑った。きっと多くの人に慕われ、親しみを込めてそう呼ばれているのだろう。

「マリアおばさん、よろしくお願いします」

 それからは緊張してしまい、ほとんど会話をすることはなかった。

 本当に町に入ることができるのか。もし、ここでひとり放り出されたら、今夜はどうやって過ごそうか。ここがどこなのかと考えるよりも、今を乗り切ることで頭がいっぱいになる。そんな琴子の様子を察したのか、マリアも問いかけることなく、静かに列に並んでいた。

 二十分ほど並んでいただろうか。ようやく琴子たちの番になった。緊張する琴子の前に立ったマリアは、にこにこと警備兵に話しかける。

「お疲れ様。雨が降っていて大変ね」

「ああ、マリアおばさん。おばさんこそ濡れているじゃないか。寒くないかい?」

 いかつい鎧を来た警備兵は、意外なほど若い声でそう言った。彼はマリアに優しく気遣うような言葉を口にしたあと、背後の琴子に視線を向ける。

「彼女は?」

 視線を向けられて、どきりとする。マリアは振り返って琴子を見つめ、紹介するように手招きをした。それに従い、思わず挨拶するようにぺこりと頭を下げていた。

「親類の子だよ。しばらく町で暮らすことになってね」

「そうか。おばさんもそろそろ、ひとりで店をやるのは大変だもんな」

 あんなに繁盛しているんだから。

そう言った警備兵に、マリアは嬉しそうにお陰様でね、と答える。

「またいつでも来ておくれ」

「もちろん行くよ」

 そう言って、門を通してくれた。

(よかった……)

 思っていたよりも簡単に通れたことに安堵したが、琴子ひとりではこうはいかなかったかもしれない。

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