第4話 料理にしか興味のなかった日々・4
思わずそう呟いていた。
思いもよらなかった事態で落ち込んでいた心が、一気に浮上していた。
うんうん、と頷きながら、琴子は起き上がる。
「一年くらい日本全国を回って、おいしいものを食べ歩こう。それで、一番気に入った料理のある県で就職活動する。うん、そうしよう!」
一か月後、店が閉店したらこのアパートも引き払って、身軽になって全国を気ままに彷徨ってみたい。実家はもともと農家だったこともあって、無駄に広い。荷物くらいは置かせてもらえるだろう。
そう決めたところで気分も上向きになり、気持ちよく就寝することができた。
それから一か月間。
店で一生懸命に働きながら、少しずつ荷物を実家に送った。
兄も兄嫁も部屋はたくさんあるし、帰ってこいと言ってくれたが、もう琴子の心は自分の計画に夢中だった。
各地のガイドブックを買い、ネットでおいしいものを調べて、リストを制作していく。
運営しているレシピサイトの人達にも、地元のおいしいものをたくさん教えてもらった。そのうち何人かとは、会う約束もしている。
そのレシピサイトの運営は、サイトの制作をしてくれた友人に頼んだ。彼女は、旅先から色々なおみやげを送ることを条件にしたら、快く引き受けてくれた。これで急なトラブルがあっても、彼女が対応してくれる。もちろん琴子も、旅先からサイトを覗くつもりだ。
閉店が決まった店は、とにかく忙しかった。
みんな店が閉まることをとても惜しんでくれたし、いくら作ってもケーキは閉店前に完売した。当然ランチも大盛況で、毎日仕事が終わるとくたくたになってしまうくらい、疲れていた。
それでも旅の準備は楽しかったし、毎日こつこつと荷造りやリスト作りを続けていた。
そうして迎えた、最終日。
開店前には行列ができるくらい並んでいて、朝から琴子も接客担当の里衣も、休憩もとれずに働き詰めだった。
閉店よりも一時間も早く完売してしまい、コーヒーと紅茶しか出せなくなってしまった。それでも最後だからと来てくれる常連のお客さんには、店主がひとりひとり、最後の挨拶をしていた。
やがて最後の客が帰ると、琴子は今まで使っていた調理器具を、ひとつひとつ、丁寧に磨き上げる。里衣も、いつもよりも時間をかけてテーブルを拭いていた。
掃除も終わり、もう誰も迎え入れることのないホールを離れて、店主の部屋に向かう。
「お疲れ様でした」
「おつかれさまです!」
「二人とも、本当にありがとう」
ここ一か月の激務で店主はとても疲れた顔をしていたが、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「お陰で無事に終わることができたよ。忙しくなってしまって、本当に大変だったと思う。お疲れ様でした」
最後の給料を手渡しでもらい、泣きそうになりながらも挨拶をして、部屋を出た。
「りぃちゃんも、お疲れ様。今までありがとう」
「……うん。ことちゃんも。旅に出るって本当なの?」
「もっと料理の腕を磨きたくて。修行の旅ってほどじゃないけど、ちょっと色々と回ってみたくて。あ、これ、先に渡しておくね」
用意していた結婚祝いを、里衣に手渡す。
「結婚式には、来てね?」
「うん、もちろん行くよ。詳しい日程が決まったら連絡してね」
そう言って笑顔で別れ、琴子はまっすぐに家に戻った。
アパートは明日、引き払うことになっている。
もうすべて実家に送ってしまったから、部屋には旅支度以外の荷物は何もない。だから最後に簡単に掃除をして、今日は近くのビジネスホテルに泊まる予定だった。
(とは言っても……。さすがに今日は疲れた……)
閉店が決まってから毎日、本当に忙しかった。
ふらふらと歩きながらようやく家に辿り着き、少しだけ休憩しようと、玄関先に靴を履いたまま転がる。
(明日から、本当に楽しみだな……。色んな食材や作ったことのない料理のレシピをたくさん知りたい。そしておいしいものも、たくさん食べたいな……)
見たことのない食材。食べたことのない料理のレシピ。それらを思うだけで、どんなに忙しくても頑張れた。そしてとうとう、これから旅が始まるのだ。
(新しい生活が始まる。最初は、まったく知らない場所に行ってみたい。どこにしようかな?)
そんなことを思いながら、琴子はゆっくりと目を閉じた。
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