#7 ドッペルゲンガーの正体②


「……"カノプス"。通り名だが、私たちはそう呼んでいる」


 重苦しく言ったナイトラスは机上に並べられた資料からいくつかの写真をピックアップしようとしたが、力士の手形よりも大きなマニピュレータではそれが難しいようで、見かねたアイリスが代わりに写真をまとめて俺の目の前によこした。

 隠し撮りされたとおぼしき人物写真が数枚。どれも別々の人物をとらえたもので、顔も背格好もバラバラではあるのだが、被写体にはいくつかの共通項があった。

 まず、男であること。カメラ映像の中の俺と同じような白い外套をまとっていること。周囲に護衛か部下のような男たちを従えて、マフィアのボスみたいな危険な雰囲気を放っていること。昔のドラマの特集で目にした、医者の総回診のように見えなくもない。

 カノプスとかいう奴が俺の体を勝手に乗っ取って使っていることから考えれば、これは多分……


「まさか。これが全部、そのカノプス?」


 常識的とか現実離れとかいった臆病な言い訳をかなぐり捨てて、俺は思ったことをそのまま口にした。ナイトラスはうなずいて、


「カノプスが実のところどこの何者で、いつからこういった犯罪に手を染めはじめたのか。正確なところはわからない。我々が脅威に気づいた時にはすでに奴は組織を構築し、侵略は始まっていた」


「……侵略……」


 それはあまりにも深刻な響きの言葉だった。犯罪とか事件とかいう概念とは一線を画した巨大な何かの存在を想起させるような。意味するものが何であれ、少なくとも異世界やファンタジーとの食い合わせが最悪であることは間違いない。


「はじめは銃器の密造密売だった。地球文明において飛躍的に発達した銃器類を、『それが存在しない』世界へ持ち込み売りさばくんだ。AKとかね」


 どことなく耳に覚えのある話だ。というよりは、当然の発想と言うべきだろうか。異世界において現代知識で無双だなんてのは今どき山ほどある話だし、同じようなことを考えるヤツは決して少なくないだろう。


「たとえば、長きにわたって剣と魔法による文化や政治形態が形成され維持されてきた世界があるとしよう。そこにある日突然銃器を持ち込めばどうなるか」


 けれど、ナイトラスの語る現実は俺のボンヤリとした想像とは比べものにならないくらいシビアだった。


「人々は、銃爪トリガーを引くだけで敵対者を殺傷できるイージーな武器を歓迎する。剣と魔法は次第に端へ追いやられ、異世界の勢力図はがらりと変わる。新鮮な暴力は文化も伝統も破壊するだろう」


 俺はここでやっと事態の深刻さを認識した。異世界転生者がその世界にあり得ないものを持ち込むという行為は、まさに世界観を破壊するのだ。ファンタジーなRPGだと思って買ったゲームが、知らない間にクソ民度のFPSに変わっているみたいに。

 さらに、そのFPSで撃たれて死ぬのは架空のキャラクターなんかじゃない。きっとどこかでこの地球と繋がっている、物語の世界に生きている誰かなんだ。


「もっとも、これだけならばいくつか類例がある話だ。だが奴は躊躇しなかった。……いや、凡百の転生者とは発想が違ったんだ。異世界を食らい、消費するという発想がね」


 ぎりり、と危なげな音がした。不安になって目をやると、自分のデスクに腰掛けていたアイリスが拳を握りしめ震わせている。それを横目にナイトラスは続けた。


「カノプスの組織は目をつけた異世界から徹底的に代価を搾り取った。貨幣のみならず、その異世界特有の資源や魔道の遺物……時には人身をも商品と換えてね。世界そのものを搾取し続けておびただしい犠牲者を生み出す代わりに、溺れるほどの富を蓄えたんだ」


 世界を食らう。搾取する。それはおよそ人間の所業じゃない。もはや理不尽で残酷な神や悪魔の領域だ。


「そして得た技術と資源を、カノプスはまた別の世界で商品として提供する。他者が持たない技術や文化は誰もが欲しがるからね。また同じように世界は蝕まれ、転生者は富んでいく。その繰り返しが、今日に至るまでいくつも続けられた」


 ……カノプスのひとり勝ちというわけか。

 ファイアランスの世界で追い回されていたときの違和感を思い出す。あのとき、俺が感じたことは間違っちゃいなかったんだ。


 ――世界観が、狂っている。


 ただし、俺が目にしたものはあくまでカノプスが生み出した混沌の一端でしかなかった。あの世界とあの瞬間にとどまらず、世界観は次々に連鎖し波及して狂っていく……

 いや、狂い続けているんだ。今も。

 いつしかナイトラスは語りを終えて、虚空へ目をやりながら黙り込んだ。今はその沈黙がありがたい。現実離れした出来事にはもはや慣れつつあったけど、この重苦しい事実を咀嚼するには時間が要る。

 ふいに訪れたこの静寂は、もしかするとこのロボ課長なりの気遣いなのかもしれない。そんなことを思い始めたとき、アイリスが出し抜けに口を開いた。


「……だけど、話はここで終わりじゃないの。数年前、カノプスはどの異世界にも在ってはならないものを創り出した」


 まだ気が滅入るニュースが続くのか。俺はげんなりしながら彼女に「何を?」と目で問うた。


「エーテルジャムという名前を聞いたことは?」


 耳に覚えがある名前だった。それもつい最近だ。どこでだったろうと記憶を辿ると、すぐにあのごちゃごちゃした闇市の一角が脳裏に蘇る。


「ファイアランスの世界で流行ってた回復薬だよな。駆け出しの冒険者にも買えるくらい安くてよく効いて、死にかけてても治るって評判だった」


 アイリスは頷いて、


「そうね。とても流行ってる。


 最後の一言は矛盾していた。正確に言えば、俺がこれまでそうだと思い込んできた世界観と矛盾していた。けれど多世界犯罪捜査局やカノプスについて知った今、話が読めてきたような気がする。


「米国でオピオイド系鎮痛剤への依存が問題になっているって話は知ってる?」


 なのに、アイリスはいきなり話を変えた。カノプスなり異世界なりの話をしていたはずなのに、どうしていきなり太平洋の向こう側にワープするんだ。

 困惑しながらも、俺は仕方なく質問に答えた。海外のこととはいえ、洋ドラやらネットニュースで小耳に挟んだことくらいはある話だ。


「……なんだっけ。怪我や病気の痛みを押さえるための薬でハイになるのがクセになって、体が治っても薬をやめられないんだよな。副作用で余計ひどいことになるとかならないとか」


 強いものでは、その効果は麻薬や違法薬物とさほど変わらないらしい。そもそも麻薬自体が依存性のある薬を指す言葉なわけだから、本質的には大した違いはないのかもしれないが。


「そう。今や同じことが多くの異世界でも起こってる。安価で便利で……非常に高い常習性を持つ、エーテルジャムを愛用する人々の間でね」


「ちょっと待て。それって、まるで……」


 無関係に思えていたふたつの事柄が脳裏で重なった。世界をまたぎ流行するエーテルジャムと、地球で多くの人々を虜にする鎮痛剤。

 地球で鎮痛剤に依存する人間がいるように、異世界の人々はエーテルジャムに依存する。この世界と多くの異世界に存在する、相似したふたつの病。

 それが頭の中で気持ち悪く淀んでいたカノプスという存在と結びつき、同時にナイトラスが核心を口にした。そしてアイリスが後を継ぐ。


「多くの世界で、さまざまな販売形態をとってこそいるが。エーテルジャムの根本

的な供給源は間違いなくカノプスの組織だ」


「有害かつ、強い常習性がある『薬物』。そういうものを何と呼ぶのか、地球生まれのあなたならわかるでしょう」


 わかる。わかるけど、浮かんでくる答えはとてもじゃないが俺の矮小な世界観にはあり得ないもので、口にするのが躊躇われた。

 けれど、そんな俺の目の前には地球人を自称しながらもファンタジックなまでに強い少女と、絵に描いたようなロボのおっさんがいる。

 つまりはもう、現実とか常識とかそういう言い訳は無駄なのだ。俺は観念して思ったことをそのまま口にした。


「つまり、エーテルジャムは、カノプスが創るか売るかしてる――――『異世界麻薬』ってこと……?」


 異世界麻薬。いざ口にしてみると、それは死ぬほどバカバカしい響きの言葉だった。いっそ腹を抱えて笑い出したいくらいなんだけど、残念なことにアイリスとナイトラスのどちらも態度は真剣そのもので、俺も空気を読んで同じ顔をせざるをえなくなる。


「地球における各国社会で麻薬がそうであるように、エーテルジャムもまた世界や文化を問わず蔓延するだ」


「このままカノプスを放っておけば、連なる異世界は際限なく食いつくされていくわ。取り返しがつかないほどに」


 何やら話が猛烈に重くなってきた。今さらだけど、なんで俺はこんなことまで聞かされてるんだろう。カノプスの所業がいくら恐ろしいものであったとしても、巻き込まれただけの俺に関係があるんだろうか。俺は逃げるように話を切り替えた。


「けど、そんなにわかりやすい大悪党なら、きっとそのうち捕まるよな? 俺の知ってる主人公とか人気キャラがみんな手を組んだなら、どんな悪者だってやっつけられるはずだし」


 我ながらガキみたいな発想だが、でなきゃ困る。せっかく念願の異世界転生を果たせたというのに、このままでは毎日カノプスの影に怯えながら生きていかなくてはならない。

 けれど俺の希望的観測とは裏腹に、アイリスは渋い顔で溜息をついた。


「……難しいでしょうね。何しろ、手錠をかけて捕まえられるような『実体』が存在しないから」


 頭の上に特大のクエスチョンマークが浮かぶ。実体が存在しないって、幽霊じゃあるまいし。現に、今見せられた監視カメラの映像や写真は確かにカノプスとおぼしき人物をとらえていたはずだ。


「カノプスが他の異世界犯罪者と比べて特に狡猾だと言えるのは、われわれ捜査局や現地の法執行機関に捕らえられるような『身柄』というものを持たない点だ」


「私たちがカノプスとおぼしき人物を逮捕しても、それは突き詰めれば、私たちがカノプスだと考える人物の肉体でしかない。疑いを察知したカノプスは他の誰かへと入れ替わり、逮捕する頃には別人として逃げおおせている」


 なんとなくではあるが、理解が及んできた。奪った肉体を隠れみのにするとはこういうことか。カノプスは世界と世界を股にかけるだけではなく、肉体という檻の中をも自由に――少なくともある程度は――逃げられる。だからよほどうまくやらないと捕まえられない。


「それでも観行くんが考えるように、捜査局も無力ではない。ひとつの世界における組織や拠点を摘発することはできる……が、それはあくまでカノプスのシンジケートの一部にすぎない。切り落としたトカゲの尻尾はまた際限なく生えてくるのが現状だ」


 なるほどな。捜査局とカノプスの間で繰り広げられているのは、アンフェア極まるいたちごっこだ。カノプス本人を何とかして捕まえない限り、捜査局の負けと異世界の破滅は限りなく続いていく。


「現在、カノプスとはどこの誰なのか。それがわかったとして、我々がそう考える相手は確実にカノプスなのか? 捜査局は奴の実体をつかむことができず、常に後手に回ってきた」


 なんだかものすごく暗澹たる心地になってきた。たまたま巻き込まれた部外者の俺でさえそうなんだから、アイリスやナイトラスたち捜査局の人々にとっては絶望的状況だろう。

 しかしナイトラスは嘆きも哀しみもすることなく、確信に満ちた口調で言った。


「だが、今日。我々はついに逆転の切り札を得た」


 なぜか……本当になぜだろうか。巻き込まれた一般人にすぎないこの俺を、やけに熱のこもった視線で見つめながら。

 視線の意味はまったくもって計りかねるのだが、何やら首の後ろを針山で撫でられるようなイヤな予感がじりじりと俺を苛み始めた。


「その①。綿密な内偵捜査の結果、我々は今、カノプスが『誰』に成り代わっているかを知っている」


 気のせいか、首から背にかけてのしかかるイヤな予感が二割ほど増した。


「その②。我々が確保した君は今、もともとの君自身とほぼ同じ顔・同じ体を持っている。世界主が肉体を与えるにあたり、人格が記憶している肉体をベースにしたからだろう。よくある手抜きだね」


 俺は元々の俺、つまりカノプスとそっくりというわけか。それもよくわかる。同時にイヤな予感はなぜかさらに膨れ上がる。いやあ、本当、どうしてだろうな。


「私たちがシンジケートに『偽のカノプス』を送り込み、本物と信じ込ませ、組織の核についての情報を得ることができれば……奴の組織の実体を掴み、一網打尽にすることができる」


 ナイトラスは金属の手を力強く握りしめ、勇ましく宣言した。先行きが明るいのは何よりだが、ナイトラスが言う切り札だとか偽のカノプスだとかいうのは一体誰のことなんだろうな。

 ひとり首をかしげている俺を、なぜかナイトラスもアイリスもじいっと見ていた。俺はとうとうイヤな予感に向き合わざるを得なくなった。

 ……ああ、なるほど。俺か。


 一瞬の静寂があった。それはたぶんこの状況を把握し受け止めるための猶予で、俺はその間にいろいろと心の準備をすませておくべきだったんだろうが、なにぶん差し出されたものはとてもじゃないが重すぎた。


「……って、俺!?」


 なので、俺は反射的に人生最大のノリツッコミをかました。我ながら問題の大きさに対してふざけすぎだろと思うが、こんなのハイそうですかと受け入れられるわけがない。 


「遠野観行くん。いわば、君はこの作戦の鍵だ。捜査局は可能な限りの支援と報酬を約束しよう。それを前提に、君に頼みたい」


 普通に生きていたなら一生言われないであろう立派なセリフが次々と積み上げられて、断りがたい雰囲気を構築していく。まずい。これはまずい。非常にまずいぞ。

 何か言わねばと言語中枢をこねくり回すが、こういう時に限って漫画やラノベで幾多と学んだ前向きな決め台詞ばかりが頭に浮かんでくる。

 特別な力や誰かに選ばれる何かを持っている主人公なら、迷わずそれらを口にして快諾すればいい。

 だけど、俺は違うんだ。


 俺は、何者でもない。


「我々と一緒に戦ってほしい。カノプスを逮捕し、連なる世界に平穏を取り戻すために」


「いやいや無理無理無理無理! 失敗したらめちゃくちゃヤバいでしょ!」


 ナイトラスの頼みが切実なのはわかる。わかるが、何しろ俺はついさっきカノプスが人を躊躇なく殺すところを見たばかりだ。説明されたわけじゃないが、映像の中で無残にも命を奪われた男は十中八九捜査局の人間で、それゆえにカノプスに消されたに決まってる。俺がミスれば同じ結末が待っていることは想像に難くない。

 いや、でも。仮にやらなかったとしても、俺がカノプスに命を狙われているのは変わらないんだ。それに奴を放っておけば、俺だけじゃなく他の異世界の人々だってロクでもない目に遭うわけで……

 いずれは誰かがやらなくちゃいけないわけで……それをやれるのが、俺だけだというなら……

 どうやってノーを叩きつけるかを考えていたはずなのに、いつの間にか胸の奥に分不相応な熱が生まれていた。こんな俺にも何かができるかもしれない。物語の主人公みたいに、誰かのためになれるかもしれない。

 諦めや恐怖が入り交じった拒絶と、勇気なのか正義なのか無謀なのかよくわからない前向きな熱意みたいなものがせめぎ合う中、俺は口を開こうとした。

 だが、それよりも先に張り詰めた様子のアイリスが俺に詰め寄ってきて、鼻先が触れあいそうな超超至近距離に迫って、言った。


「カノプスはあなたが送るべきだった人生を奪った。それを取り戻せるのは今しかないの。だから協力してほしい。私たちのためにも、あなた自身のためにも」


 銀髪の少女が、強い意志のこもった瞳と言葉で俺を射貫いた。もしもこれが物語の一幕で、俺がその主人公なら、迷わず彼女に応えていただろう。

 だけど俺はそうじゃない。だからただ、冷笑的に俯瞰する。

 ものすごく、絵にでも描いたような、お手本みたいな。笑っちまうくらい、ありきたりで芸のない、くだらない一幕だ、と。

 いくつかの記憶が脳裏をよぎる。


 ――無理矢理に這いつくばらされた目の前で、ケースごと割り砕かれたゲームディスク。ライターの火に飲まれる中二病のノート。周囲に満ちる嘲り声。


 ――教室に満ちるささやき声。何かを嘲り遠ざけることに忙しくするばかりの、友情も絆も何もないからっぽの学園。


 ――そこに愛想を尽かしたあとはもう、毎日が同じことの繰り返しだった。暗い部屋と昼夜の逆転。ゴミだらけの現実と、そこから逃れるためのアニメやゲームやラノベ。

 それらは、かつての俺の人生の残滓だ。カノプスに奪われて、今はもう奴のものになってしまった人生の。

 アイリスは言った。カノプスから人生を取り戻すチャンスは今しかないと。だけどそれは絶対にあり得ない前提あっての言葉で、だから俺は思わず嗤ってしまう。


 ……それじゃまるで、俺があの人生を取り戻したいみたいじゃないか。


 そう、彼女は途方もない勘違いをしていた。奪われた人生のすべてに取り戻すべき価値があるわけじゃない。目を背けたくなるような、ゴミのような人生だってある。

 他でもない、俺の人生がそうなんだ。

 いじめられて、引きこもって、すべてがどうにもならなくなった。なんとか立ち上がって元に戻そうとしてみても、そこには必ず自己責任とか自業自得の悪魔がつきまとって、結局何もしない方がよかったと後悔するだけだ。

 あんなところに戻りたいだなんて思うはずがない。あんな行き止まりの人生に、取り戻す価値なんてあるわけがない。

 気がつけば暗く冷たい嘲りの念だけを残して、胸の熱はすっかり消え失せていた。


「悪いけど、他のそっくりさんを探してくれよ」


 そもそも怖いとか出来ないとか無理があるとかいう言い訳が山ほどあったが、俺は何よりもまず感情でそう吐き捨てた。

 哀しくなるぐらいにわかっていたからだ。アイリスがどうしてこんな勘違いをしているのか。

 多世界犯罪捜査局は、大雑把に言えば物語の住人の集まりだ。彼らは主役であれ脇役であれ、大なり小なり自分の物語を生きている。特別な力を持っていたり、ドラマチックな境遇があったり。そんな――悪く言えば、生まれながらのチートみたいな特別な設定のもとで。

 彼らは誰もが特別で、彼らにはその特別が当たり前なのだ。

 だから、わからないんだ。ナイトラスはもちろん、地球人を名乗りながらも尋常ではない強さを持っているアイリスにも。


 生きるべき物語がどこにもない、

 どんな特別も持ち合わせない、

 何者にもなれない人間の気持ちなんて。


 だから言ってやった。精一杯の皮肉と、怒りと、それから惨めな自分への、ありったけの自嘲をこめて。


「――悪いけど。俺の人生はあんたたちの素晴らしい物語とは違う。わざわざ取り戻すような価値なんてない。それを今さら誰がどう使おうが、もうどうでもいいことなんだ」


 俺はそそくさと立ち上がり、言葉を失うロボと少女を置いて風紀課を後にした……が、何より言わねばならない一言を忘れていたことに気がついて、やむなくドアの間から顔だけ出して、言った。


「すみません、トイレってどこですか?」

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