△10 錦秋

 香月の実家にある仏壇の前で、梨田はしばらく動かなかった。両手を合わせて深く頭を下げたその姿勢は、挨拶や報告というより、謝罪のように見える。

 写真の母はほほえむばかりで何も言わない。きっと生きていても同じだった。奨励会に行きたいと言ったとしても、英人と結婚すると言っても、婚約を破棄しても、そして梨田と結婚すると言っても、ほほえんで受け入れてくれただろう。いつでもそういう人だったから。

 棋士と結婚するなんて、両手を上げて歓迎するかと思った竜也の方が、意外にも渋い顔をした。


「正直な気持ちとしては反対です」


 きちんと許しを請うた梨田を目の前にしても、はっきりとそう言った。


「棋士は非常に繊細だし、不安定な職業でしょう? 香月にはもっと普通の幸せを築いてほしかった」


 梨田は何も反論できないようだったけれど、顔だけは真っ直ぐ竜也を見つめていた。棋士という仕事に誇りを持っているから「すみません」と謝りたくはないだろうし、その場限りで安易に「幸せにします」と約束もしない。やさしい嘘はたくさんつくけれど、梨田は昔から自分の言葉に対して誠実だった。


「竜也兄さん━━━━━」


 何か言わなければと香月が口を開いた瞬間。

 パコーン。

 竜也の後頭部で軽快な音がした。手土産の中身を確認して、「わー! おいしそうなさつま揚げ!」と歓声を上げていた薫が、その紙箱の蓋で叩いたようだ。


「寂しいだけなのよ。『梨田君が相手なら、もう戻って来ない』って言ってたから。戻って来ない方がいいじゃないのよねぇ」


 じろりと竜也をひと睨みしてから、「これはあとでみんなで食べましょう」と蓋を戻す。威厳も何も損なわれた竜也は、不満そうにそっぽを向いた。


「反対ではありますけど、香月の気持ちを尊重したいと思います」

「ありがとうございます」


 薫が食事の用意に席を立ったのを確認すると、竜也は背もたれにドカッともたれかかり、ぶつけ足りなかった不満を漏らした。


「あーあ、東京行っちゃうのかぁ。結局梨田君は香月を連れて行くんだな」

「竜也兄さん、違うの。私が自分で選んだの。あのときも、自分の意志でついて行ったんだよ」

「わかってる」


 竜也は寂しそうな笑顔を香月に向けた。


「香月を動かすのは、いつも梨田君だってことだろ?」


 香月の父親代わりをしてきた竜也は、将棋に熱中する姿も、たった一度の反抗も、それ以来「飽きちゃったから」と笑って駒に触ろうとしない姿も、すべて見てきた。テレビで梨田を見つけてからここに至るまで、それなりに思うところはあったのだろう。


「あのときは力及びませんでしたが、今度こそお返し致しません」


 梨田の強気な物言いに、香月はハラハラしたけれど、竜也は吹き出すように笑った。


「よろしくお願いしますね」



 落ちたプラタナスの葉を踏みしめながら、梨田と香月は並んで歩く。


「この街とも縁が切れなくなったな」


 転校して以来一度も訪れなかった田舎町を、梨田はこの半年で十数回訪れていた。


「また将と将棋指してあげて」

「それはいくらでも」


 棋士とは何かさえ知らない将も、梨田との対局で大興奮していた。


「王手したくなる気持ちはわかるけど、そのままだと取られて終わりでしょ? まず取られないような手を指してから、王手してみて」

「こう?」

「いい手だけど、一直線だと逃げられちゃうよ? まずは逃げ道をふさいで━━━━━」


 言い方はやさしいが内容は容赦ない。苦しそうにうめきながら考える将を見ていて、香月は将が投げ出すのではないかと気を揉んだ。


「そうそう、いい手だよ。それで俺はこっちに逃げるから」

「王手!」

「負けました。よくできたね」


 具体的な手ではなく考え方を教えつつ、詰みまで誘導する。指導に慣れた梨田との対局は、難しいけれど達成感があったようで、将にとってこの上なく楽しいものだったようだ。

 なかなか梨田から離れない将を見て、


「あははは! 妹だけじゃなくて、息子まで取られてる! 意地悪言うからだよ、ザマーミロ!」


 と、薫は竜也をからかっていた。おかげで雰囲気はすっかりなごみ、帰りは予定よりだいぶ遅くなった。

 棋士はもちろん対局をすることが仕事だ。勝つことと、いい内容の将棋を指すことが求められる。しかし、棋士の中には対局よりも指導に優れた人がいることも確か。自身の成績は振るわなくても、たくさんの優秀な弟子を育てた棋士もいる。プロ、アマチュア問わず愛読される棋書を残した棋士もいる。どちらも将棋を愛し、広め、棋界に大きな貢献をしたことに違いはない。

 香月に会う口実として“指導”があると言っていた梨田は、事実池西将棋道場には行っていたらしい。一般の利用者として通い、池西や常連さん、小学生を相手に「対局」していたそうだ。


「いい休憩場所に使ってるだけだよ。お菓子もらえるしね」


 甘いものが苦手なくせに、梨田はまたお菓子をもらいに行くのだろう。

 華々しい活躍ができなかったとしても、この人は別の形で愛される棋士になるに違いない。香月はそう感じた。それもまた、棋士でなければできないことだ。


「もう冬になるな」


 梨田が見つめる街並みの向こうには、秋いろを深めた山々が冬へと一歩踏み出している。ふたりの頭上でも、見通しのよくなった枝の向こうに、見事な秋晴れの空が広がっていた。それもほんのひとときで、すぐに冷たい雨の季節になる。先週はじまった竜王戦が終わるころには、一年も終わりだ。

 それでもあたためたい手がそばにあって、それに触れることを許されるなら、待ち遠しい季節だ。アプリコットピンクの手袋は、今日もポケットに入れたまま。


「冬はきらい?」


 のぞき込むように見上げる香月に、梨田はしっとりと深い目を向ける。そして絡めた指をもっと深く結んで力をこめた。


「好きだよ」


 真っ直ぐに受け取った香月も、少し赤い笑顔を返す。


「私も」


 北国の秋は短い。雨が降れば、それがそのまま雪に変わっていく。まぶしいほどにあかるい季節が、また今年もやってくる。









fin.




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やく束は守もります 木下瞳子 @kinoshita-to

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