セイリング・デイ

闇世ケルネ

第1話

 嵐の夜だった。

 窓越しに見える海は暗く、時折起こる稲妻が荒れる水面を照らし出す。激しい雨は硝子ガラスをひっきりなしに殴りつけ、木造の家は暴風に軋む。幼い少年は窓よりはるか遠く、稲光をまとって近づいてくる巨大竜巻をじっと眺めた。

「……大丈夫かなぁ」

「不安か?」

 窓際、少年を膝に乗せた老人が問う。禿げた頭と、豊かに蓄えられた白いヒゲ。木製義肢の右足で床を蹴り、揺り椅子を揺らす老人を、少年は不安げに見上げる。

「だって、あんな嵐来たら町吹っ飛ばない? 船とかも流されちゃったりしてさ……」

「大丈夫だ。こんなことは昔にも何度かあった。嵐で飛ぶほど、俺達の町はヤワじゃねえ」

「ほんとかなぁ……」

 少年は再び窓に向き直る。老人も竜巻を見つつ、パイプを吹かす。

「ま、俺も初めて見た時ゃそう思ったがな。最初の時は信じられなかったぜ。昼間はカラッと晴れてやがったのに、ちょっと強い風吹いたら船乗り共が騒ぎ出してよ」

「うん……お昼、すごい良い天気だったのに。ジョンジイ、こういうこと、結構あるの?」

「俺が経験したのは三回。大体十五年から三十年ぐらいの間で来やがるな。前から……大体二十年ぐらい経つのか。お前が生まれる、遥か昔の事だ」

「ふうん……」

 少年が曖昧に相槌を打ち、背後を振り返った。小さな木造のログハウスに、簡素な食器棚と酒瓶を並べた棚。部屋の中央に置かれた食卓を挟んで少年の向かい、玄関口には靴が四足。

「父さん、遅いな」

「心配か」

 頷く少年。ジョン老人は呵々カカと笑った。

「大丈夫だ。アイツを誰だと思ってやがる。お前の親父で、俺の息子だ。なに、夜の作業は苦労するからな。大方、手間取ってる間抜けの手伝いでもしてんだろ。船失くすわけにはいかねえからよ」

 少年が不安げな目で老人を見る。

「でもさ、すごい風だよ? 父さん、ふっ飛ばされたりしない?」

「しねえよ。人間は葉っぱなんかとは違うんだ。どこにも行きや……」

 不意にジョン老人が押し黙る。少年はきょとんとして首を傾げた。

「ジョン爺? どうしたの?」

「…………いや」

 ジョン老人は首を振り、白髭を撫でつける。口ごもる彼に少年が不安を募らせた直後、家のドアが開かれた。吹き込む暴風と雨。そして全身濡れ鼠と化した中年の男。男がドアを閉じて嵐を遮り、一息つきながら家に上がった。

「戻ったぜー」

「父さん!」

 老人の膝を降りた少年が、男の下へ走り寄る。勢いよく飛びつかれた男は、少年を抱いて回りながら笑った。

「おいおいどうした。はは、くっついたら濡れるぞ」

「だって……ジョン爺が……」

「ん?」

 回るのを止めた男が、ジョン老人の方を見やった。しがみついて離れない少年の頭をわしわし撫でつつ、苦笑気味に問いかける。

「なんだよ親父。何吹き込んだんだ?」

「勘違いすんじゃねえ。お前が風にふっ飛ばされる訳はねえって言っただけだ」

「本当かぁー? あ、すまん」

 男が少年の頭をぽんぽん叩く。

「拭くもの取って来てくれ。風邪引いちまう。あと、お前も濡れたろうから着替えて来い」

 男を見上げた少年は頷き、部屋横の階段を駆け上がっていく。それを見送った男は、老人におどけて肩を竦めた。

「実は、俺が帰ってこなくて、嵐ン中海に出たとか思ってたんじゃねえだろうなー?」

 ジョン老人は答えない。ただ紫煙を吹かし、窓の外に視線を向ける。男は苦笑気味に頭を掻いた。

「……なんだよ。おいおい、まさかマジで思ってたのか?」

「ンなわけあるか、お前に限って。ただな……」

 パイプを胸いっぱいに吸い込んだジョン老人は、溜め息めいて煙を吐き出す。

「一人、知ってるからよ。こんな嵐ン中飛び出してって、帰って来なかった奴」

「はぁ?」

 男が脱いだ一張羅を絞りながら怪訝そうな顔をした。

「嘘言うなよ、親父。こんな海に出たら誰だって死ぬ。ガキでもわかるぜ」

「そうだろうよ。ウチのチビでさえわかってら。だが、そうじゃねえ奴も居た。百年に一度の、大馬鹿野郎がな……」

「父さん!」

「おっ!」

 その時、階段を下りてきた少年が男に駆け寄り、布を差し出す。男は布を受け取ると、少年の頭を荒っぽく撫でた。

「ありがとなぁ。酷ぇ雨でびしょ濡れだったんだ。……さ、もう寝る時間だぜ。明日ンなったら、嵐もどっか行ってるからよ」

「はーい」

 男に背中を叩かれ、少年は階段を登り去っていく。濡れ髪をぬぐい、裸の上半身から水気を取ると、男はやがて口を開いた。

「なぁ親父。一杯やらねえか」

「ハッ、見え透いてるぜ。聞きたいんだろ? 嵐の日に船を出す、イカレ野郎の話をよ」

「おっと、バレバレだったか。…………ダメか?」

「フッ。酒持って来い。強いヤツをな」

「はいよ」

 吹き布を肩にかけ、男は食器棚の下段を開いて酒瓶を出す。上の段からグラスを二個取って食卓に戻ると、ジョン老人は既に席についていた。男が老人の対面に座り、置いたグラスに酒瓶を傾ける。透明な杯を満たすクリアブラウンの液体を眺めたジョン老人は、乾杯と共に語り始めた。

「そうだな。俺がー……チビよりデカくて、お前よりも若かった頃の話なんだが」


 四十年前、港町。

 中天に輝く太陽が、活気溢れる港を照らす。桟橋を行き来する屈強な体つきの男達。手に手に大量の魚を入れた網をぶら下げ、港の端で露店を構える商人達に持っていく。騒々しいりの声に混じって怒声が響き、取っ組み合いの乱闘が始まる。殴り合いの音を聞きつけた野次馬が歓声を上げ、人だかりを作って口々にあおる。その光景を余所に、ジョン少年は魚入り網を担いで桟橋を抜けた。行く先は桟橋の近く、『エニドゥリダ』と書かれた看板を掲げた建物。扉を開くと、そこは酒場だ。

 筋骨隆々の男達が昼から笑って酒を飲み、ひっきりなしにジョッキの打ち合いが起こる。酒場を横切るジョン少年を、酒を飲んでいた髭面の男が呼び止めた。

「おーい坊主ー! 儲けは順調かァ!」

 ジョン少年はそちらを向いて片手を上げる。

「まあまあだよ、オッサン! おかみさんはいるかい」

「おう居るぜ」

 髭面は身を反らし、背後の台所に大音声を響かせた。

「おおい! ジョン坊が来たぜぇ! 大漁だ大漁!」

「はいはい、今行くよー!」

 直後、厨房奥から恰幅の良い初老の女が忙しそうに現れる。やや不機嫌そうな表情が、ジョンを見るなり明るくなった。

「あら坊や! いらっしゃい!」

「こんちは、マギラスさん。これ、今日の取り分です」

 ジョン少年が差し出す網を受け取り、マギラスは中の魚を検分。そして力強く頷いた。

「うん、ありがとねえ。座って待ってな。すぐ測って金にするから。ちょっとあんた!」

 マギラスが髭面の頭を叩く。

「痛ぇ!」

「ジョン坊に酒ついでやんな! どうせ飲んだくれてるだけなんだから!」

「酒つげってお前……」

 髭面が文句を言う前に、マギラスは厨房の奥に消えていく。ジョン少年は、不満顔で叩かれた頭を擦る髭面の隣に座った。その表情は冷やかすような笑み。

「相変わらず尻に敷かれてんのな」

「うるっせえ。……ま、お前も嫁は選ぶこったな」

 嘆息した髭面が、ジョンが手にしたジョッキに酒瓶を傾ける。なみなみと注がれた酒を、ジョン少年は一息にあおり始めた。ゴクゴクとしばらく嚥下えんげし続け、ジョッキを卓に打ちつける。半分ほど残った酒が跳ねた。

「ぷはぁーっ!」

「ハハハハハハ! 良い飲みっぷりじゃあねえか!」

「ああ! やっぱ仕事終わりはこうじゃなくちゃな!」

「わかるようになってきたじゃねえか!」

 豪快に笑いながら、髭面はジョン少年の背中を強打する。むせ返る少年に、髭面は自分の酒を飲みながら問うた。

「もう一年ぐらい経つか。仕事にもだいぶ慣れたか?」

「ゲホッ、ゲホッ! ……まあな。一人でやると、案外キツいもんだ」

「ッたりめぇよぉ。それ乗り越えて、みんな一人前の海の男になるんだからよ。何年も何十年もかけて……なぁ?」

 髭面が近くのテーブルに目をやると、そちらで食事していた男達がジョッキを掲げて返事する。

「おうよー! オレらもお前の親父さんも、そうやって生きて来たんだからよぉ!」

「気張れよジョン坊! こっからが長ぇんだから! 嫁さんもらって、ガキ作って、船引き渡すまで育てんのが俺達の役目だ!」

「何立派なこと言ってんだいチンピラ共ォ!」

 厨房から戻って来たマギラスが小さな革袋を手に叫ぶ。

「デカくなったのは態度と図体だけじゃないのさ! 取る魚もデカくしてみな!」

「無理に決まってンだろぉ、おかみさん! オレ達が魚育ててんじゃーねえんだからよ!」

「そうだそうだァ! 取ってやってんだから感謝しろォ!」

「うっさい! ったく、男共はこれだから……ジョン坊、あんな風になったら駄目だよ?」

 マギラスは肩を竦め、ジョンに革袋を投げ渡す。キャッチしたジョンは袋の口を緩めて中を覗いた。多数の銅貨といくらかの銀貨。中身を軽く漁って適当に硬貨を数え、ジョンは銅貨を六枚取り出した。手の平に並べて数を確かめ、マギラスに渡す。

「香草焼きと黒エール」

「はいよ。アンタが獲って来たので作ってやろうじゃないのさ」

 ニッと笑い、マギラスは再び厨房奥に消えていく。ジョンが酒瓶を差し出す髭面にジョッキを渡すと、半分ほど残っていた酒がすぐに満タンになった。

「そういえば、ウィルは? まだ来てないのか?」

「アイツか……そういえばまだだな」

 髭面が呟き、別テーブルの船乗り達が茶々を入れる。

「またぞろ本にかじりついてんじゃねえのぉ? 魚腐んのもお構いなしでよ」

「アイツなら有りえるなぁ。十四過ぎて、船もらったってのに、まーだ本にご執心と来てやがる。しかも同じ本だぜ? 海の果てから来たフロプト」

「あー……」

 茶々を入れた船乗りと同じテーブルで、癖毛くせげの男が頭をく。

「オレもガキの頃読んでもらったけどよぉ、そんなハマるかね?」

「所詮おとぎ話さ。あいつ、まだママの寝物語無しじゃ寝られないのかもな」

 その時、冷やかし笑いをする船乗りの頭が叩かれた。

「痛ってぇ! なんだッ、この……」

 頭を押さえて振り返った船乗りの文句が止まる。彼の後ろに立っていたのは、せた長身の青年。厚い本で肩を叩く青年は、不服そうな顔で言う。

「誰がママの寝物語無しじゃ寝られないって?」

 ばつの悪そうな愛想笑いを浮かべる船乗りを余所に、青年はジョンの隣の椅子に座った。

「よう、ジョン。昨日ぶりだな」

「遅かったな、ウィル。どうしたのかと思ったぜ」

「ま、ちょっとな……」

 言葉を濁し、ウィルは持っていた本を食卓に放る。タイトルは『海の果てからプロフト』。ジョンは表紙を横目に酒を飲んだ。

「言い返してたわりにゃあ持ってんだな、それ」

「別に良いだろ。俺が何を好きになったってさ。マギラスさんは?」

「オレの香草焼き作ってるよ」

「じゃ、待つか。ギャバン、さけいでよ」

 気安く呼ばれた髭面のギャバンが、不敵に笑った。

「ほう、テメェからしゃく要求するたぁ良い度胸じゃねえか」

「海の男だからな」

「何が海の男だヒヨコ野郎のママっ子野郎が」

「本が好きなだけだって。ほら、いいから注いでくれよ」

 ジョッキを差し出され、ギャバンは呆れ笑いして首を振る。直後、ジョンの前に平皿が滑り込んだ。香草を添えた焼き魚。合わせて黒い酒瓶を置いたマギラスは、ウィルを見る。

「いらっしゃい、ウィル坊。大漁かい」

「まぁまぁですよ。はい」

 ウィルから渡された網を受け取り、マギラスは中身をあらため頷いた。

「確かに。何にする?」

「塩焼きと潮汁うしおじるで」

「わかった、待ってな。追加の麦酒も出すからさ」

 マギラスが背を向けるなり、ウィルがさっとジョンの酒瓶を奪う。そのまま手近なジョッキに注ぐ彼を横目に、ジョンはややムッとしながら魚の香草焼きに齧りついた。返却された酒瓶を余所に、魚を咀嚼しながら顎で本を指し示す。

「ウィル。その本、どんな話だっけ」

「ん? なんだ、覚えてないのか?」

 きょとんとしたウィルに、ジョンは皮肉めいた笑みを返した。

「最後に読んだの、チビの頃だし。ていうか、この歳で読んでんのお前ぐらいだよ」

「ま、そりゃそうか」

 ウィルは小さく肩を竦める。傍の卓についていた船乗りがニヤニヤ笑いながら茶々を入れた。

「お、ウィル坊ちゃんの読み聞かせかァ?」

「酒のさかなに聞いてやるよ! 読んでみなァ!」

 ウィルが船乗り達に不敵な微笑みを返す。

「なんだよ、いい歳こいてママが恋しくなったのか?」

「ンなわけあるかよ!」

「むしろ、お前がママ恋しいんじゃねえか? 読み聞かせしてもらえなくってよ! ハハハハハハハ!」

「言ってくれるじゃん! お捻りは用意してるんだろうな!?」

 船乗り達が投げた干し芋や干し魚を、ウィルは手近な皿を取って受け止めていく。つまみの投擲が終わったのを確かめたウィルは、皿をテーブルに置いて話し始めた。

「昔々、この島に船なんてものが無かった時代。人々が、海という名を知らずに海を見ていた頃のお話です。島に、大きな嵐が吹き荒れました」

 空は割れ、雷が落ち、風が大地をひっくり返す。恐るべき災いの前に村の家々が飛ばされ、多くの人が多くのものを失いました。嵐に遭った人々は、ただ祈ることしかできません。雨を浴びて冷え切った手で、隣人達と身を寄せ合って風に耐え、稲妻走る天に必死で願います。

『天よ、天よ、どうか怒りをお鎮め下さい。我らはただ慎ましく過ごしていただけなのです。なのに何故、このような仕打ちをなさるのですか』

 しかし嵐は止みません。むしろ勢いを増して、人々に襲いかかります。祈るしか出来ない人の子は、とにかく必死でお願いしました。そうして嵐はいつしか過ぎ去り、夜が明けて朝が来た時、人々は祈りの姿勢のまま突っ伏していました。草はひっくり返った土に潰され、木々は殆ど倒れています、鳥の声すら聞こえません。村人達は悲しみました。彼らは山と共に生きていたからです。

 今や、彼らと共に生きた山は崩れてしまってありません。食べ物も家も残っていません。そんな時、海の向こうから小舟がひとつやってきました。小さな船には、黒く大きな布を被った、片目の老人が乗っています。島に降りた老人は、悲しむ村人達に言いました。

『何故、この地には何もなく、あなた方は泣いているのか』

 村人の一人が言いました。

『神がお怒りになったからです。大きな嵐がやってきて、全てを吹き飛ばしてしまったのです。祈りは届き、嵐は去ってくれましたが、島はこの有様です。私達はどうすれば良いのでしょう』

 老人は返します。

『いくら祈り、拝んでも、嵐は止んでくれません。嵐が来るのは、嵐が来たから。嵐が止むのは、嵐が止むから。人の言葉など聞き入れるはずもありません。あなた方がやるべきは、嵐に負けずに立つことです』

 村人は泣きながら言いました。こんなことは初めてで、自分達にはどうしようもないと。そこで老人が申し出ます。

『では私が教えましょう。嵐を耐え忍ぶ家を、嵐から身を守るすべを。そして、山に頼らず食物を得る方法を』

 男はそう言い、プロフトと名乗って村人達に手を差し伸べます。

 それからといもの、プロフトの教えの下で村は次第に元の姿に戻っていきます。草葉の束で出来ていた家は、大木や石を組み合わせたものに。倒れた木を使って船を作り、海へと繰り出していきます。この時、プロフトは海を海と呼ぶのだと人々に伝え、海は嵐ではなく恵みをくれるものだと説きました。

 村人達は魚を取るようになり、海の水を塩に変え、僅かに残った植物を育てます。プロフトは物知りでした。どうすれば良い村になるのかがわかっていました。村の取り決めも彼が作って、様々な知識を伝えていきます。村はどんどん豊かになっていきました。

 そしてプロフトが来てから四つの年が過ぎたある時、一人の若者が、プロフトにこう問いかけます。

『偉大なるプロフトよ。貴方は何故、こうも沢山のことを知っているのか?』

 プロフトは言いました。

『海の果てで学んだからです。この水の世界の遥か向こうには、様々な知識があるのです』

 そう言って、プロフトはあらゆる物語を話して聞かせます。空へ星を放つ湖のこと、火が点いた雲のこと、海の底を飛ぶ鳥のこと、空の上のそのまた上を駆ける馬のこと。海の果てにはその全てがあると言います。若者は一話一話に胸を躍らせ、夢中で聞き入っていましたが、はたと気づいて問いました。

『貴方はどうして、そんな素晴らしい世界から抜け出したのか? 我々も、海の果てに行けるのか?』

 プロフトは笑って。

『海の遥か彼方に、輝くしるしが見えたからです。私を呼ぶ光が見えたので、思わず船を出したのです。船を用意し、星の声を聞きなさい。その星が、貴方を海の果てへと連れて行ってくれるでしょう』

 次の日の夜、プロフトは姿を消しました。村人達は偉大なプロフトとの別れを深く悲しみましたが、若者は言いました。

 彼は星に呼ばれて行ったのだ。きっと星に呼ばれれば、また彼は来るはずだ。そのうち嵐が来るように、彼もそのうちまた来るのだ、と。


 その後。ジョンが酔ったウィルに肩を貸して酒場を出ると、空は既に夕焼けだった。ジョンに引きずられるようにして歩くウィルは、青い顔でむ。

「ゴホッ! 飲み過ぎたか……」

「ギャバンの奴と飲み比べなんてするからだ。あいつザルなんだぞ?」

「すっかり忘れてたよ、ちっくしょうめ……」

 口元に手を当て、喉をゴクンと鳴らすウィル。彼はそのまま本を取り出し、ふらふら歩きながら読み出した。ジョンは呆れ顔で溜め息を吐く。

「こんな状況でも読むのかよ」

「こんな状況だから、だな。酔った頭で読む本ってのも悪くないぜ」

「お前、ホンットにそれ好きだよな……そんなにいいか?」

「ああ」

 海風にページをめくらせ、ウィルが続ける。

「……まあ、本自体っつーより、プロフトの話が好きなんだ」

「プロフトの?」

「そう。海の果てには、オレ達の知らない色んなものがあるってやつ」

 ジョンは再度溜め息を吐いた。

「どうせ作り話だろ。真に受けてんのか?」

「どうだかな。オレもお前も、海の果てなんて見たことないだろ。もしかしたら、本当にあるのかもしれないぜ。プロフトの言ってた、色んなものがさ」

 ジョンが横目でウィルを見る。本にページを落とした彼の瞳は輝いていた。ジョンは目を逸らして吐き捨てる。

「……くっだらねー」

「ははっ! そう言うなよ」

 ウィルはジョンに肩に回していた手を戻し、自分の足で歩き出した。千鳥足をやめて立ち止まり、の沈みかけた水平線を見やる。

「……なぁジョン。オレさ、夢があるんだ」

 先行くジョンは足を止め、ウィルの方を振り返る。

「なんだいきなり」

「まぁ聞けよ。……オレ、今の船を引き渡したらさ、稼いだ金で船買うんだ。せがれに渡すものじゃない、オレだけの船。それで、海の果てに行くんだよ」

「はあ?」

 ジョンは思わず眉をひそめた。

「何言ってんだ。……さては酔い潰れてんな? お前」

「まだ潰れてねえって。それに、本気だ」

 ウィルは震える足をいて支え、背筋を伸ばす。

「いつかきっと、プロフトが言ってたみたいに、オレにも果てに輝く星が見えると思う。オレを呼ぶ、オレだけの星が。そしたら、オレはオレの船を出す。そんで、空に星を放つ湖とか、火が点いた雲とか、海の底を飛ぶ鳥とか、空の上のそのまた上を駆ける馬とか探す。それ以外のもっと沢山の物もだ。きっと、海の果てには全部ある」

 ジョンの頬が固く強張る。落陽らくようを見据えるウィルの目は真っ直ぐで、朝焼けの空めいてんでいた。ジョンは不安げな表情で問いかける。

「……不満なのか? 今の生活」

「いいや。朝早くに海出て、網下ろして、魚取って、お前とかギャバンとかと酒飲んで……そんな生活、嫌いじゃないぜ。むしろ好きだ。楽しいよ」

「じゃあ、別にいいだろ。海の果てなんかに行かなくたって」

「それとこれとは話が別だ」

 ウィルは肩をすくめて笑い、ジョンの方に視線を合わせた。

「なぁ、ジョン。一緒に行かねえか?」

「あ?」

 ウィルは照れ臭そうに後ろ頭を掻く。

「いや、お前だけじゃないな。ギャバンも、マギラスさんも、他の連中も、みんな誘おう。オレは海の果てが見たい。プロフトの言ったもの全部見て、そいつを肴にお前らと酒飲むんだ。絶対楽しい」

「…………無かったら、どうするんだよ」

「それならそれで別にいいだろ。みんなで自棄酒やけざけして帰ってこよう」

「くだらねえ……」

 ジョンは耐えかねたように背を向け、足早に歩き始めた。

「俺は行かねえからな。たかが作り話のために、命なんざかけられねえ」

 ウィルは、立ち去っていくジョンの背中を黙って見送る。ややあって、彼はジョンに背中を向けた。



「……そして次の日、奴は消えた」

「消えた?」

 ジョン老人に、男は聞き返した。濡れた髪はいつしか乾き、酒瓶は二本と一本半がカラ。ジョン老人は自分のグラスをゆっくり回した。

「いなくなっちまったんだよ。自分の船と一緒にな。俺が奴と最後に呑んだ日の夜は、今日見たいな大嵐だった。……みんな騒いだ。ウィルと、ウィルの船が流されちまったって。けど、俺だけは見た。いきなり風が強くなってきて、船飛ばされねえようにしようって外に出た時……。……あいつは、自分の船に乗って海に出てやがった。帆を張って、雨ん中笑って……空でも海でもねえ、どっか遠くを見てやがったんだ」

 瞳に寂しげな色を浮かべて、ジョン老人は酒瓶をつかむ。残った半分をラッパ飲みして流し込み、勢いよくテーブルに叩きつけた。

「あの馬鹿は、テメェの星とやらを見つけたんだろうよ。それを追って、海に出た。嵐が来んのは明らかだった。そんな時にでたら沈むだろうってこともな。だが、奴は出た。そんで、帰って来なかった……」

 重い溜め息を吐くジョン老人。男が顎を撫で、小さく頷く。

「はーん……。それで、俺が同じようになったらどうしようって思ったわけか?」

「ああ。馬鹿な話だろ」

「まぁな」

 男は笑った。テーブルの下に置いた四本目の酒瓶を拾い上げ、栓を開けてジョン老人のグラスにそそぐ。

「海の果てのプロフト、か。覚えてるぜ。みんな読んでもらってんのに、うちだけ読んでもらってねえから恥かいてさ。おふくろに読んでって言ったら、親父が怒って止めたこと」

「ふ……あったな」

「ま、俺は俺で読んだんだけどよ。ダチに頼んで、貸してもらった」

 いでもらったグラスを持ち上げ、ジョン老人は苦笑した。

「隠れて読んでやがったか」

「そりゃ、気になるさ。みんな読んでもらってんのに、なんでうちは駄目なんだって。好きな話だったぜ、割と」

 椅子の背にもたれ、男は酒瓶をラッパ飲みする。ジョン老人はグラスを傾けた。静けさを、嵐の音が震わせる。天井で揺れる明かりを見上げ、男はふと呟いた。

「俺も最近知ったんだけどよ……あれさ、続きあるらしいぜ」

「…………何?」

 怪訝そうな表情をするジョン老人に男は語る。

「海の果てが気になった若者は、嵐の夜に星を見て、自分も船を作って海に出るんだ。周りが止めるのも聞かねえで、自分の導く星を見たって言ってよ。帆を張って、荒波の中どこかに行っちまうんだ。そいつの親友は悲しむんだが……ジジイになったある嵐の日に、気づいたら灯台に立っててよ。遠くに、船の影を見るんだ。それは海の果てを見て来た若者でした……ってオチ」

 ジョン老人は渋い顔で顔をそむけた。

「作り話だ」

「そうかね? ……ま、安心しろよ。俺はガキ置いてどっか行ったりしねえし、嵐の夜に船は出さねえからさ」

「当たり前だ、馬鹿が」

 憎まれ口に男は笑い、席を立つ。ジョン老人を置いて、彼は階段を上がっていった。



 夜。ジョン少年は灯台に居た。背後には巨大な回転灯かいてんとう。一定周期で回っては少年の背中をでる光は、ガラス窓一枚向こうの外をも照らし出す。

 嵐の夜だ。窓越しに見える海は暗く、時折起こる稲妻が荒れる水面を照らし出す。激しい雨が硝子ガラスをひっきりなしに殴りつけ、白い灯台は暴風に軋む。ジョン少年は窓よりはるか遠く、稲光をまとって近づいてくる巨大竜巻をじっと眺めた。

(そうか、夢か)

 ジョン少年はそう思うまま、嵐の海を眺め続ける。ぼうっと嵐の音を聞く彼は、やがて稲妻走る波間の中の一部に目を止めた。

 船だ。帆を張った一隻の船が、荒ぶる水面を踊るようにしてやってくる。ジョン少年はゆっくりと窓ガラスに歩み寄り、張りつくようにして目を凝らす。危なっかしい軌道を描いて寄ってくる船。ジョン少年の目は、その船首に立って手を振る人を捉えた。

「……馬鹿が」

 少年の頬を涙が伝う。

「嵐の夜に、帆を張る奴があるかってんだ」

 ジョン少年は呆れたように笑いつつ、服の袖で涙をぬぐった。

 海の果てを超え、船が嵐を背にやって来た。

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