第26話 結局、誰も、本気で

 日が暮れた靭公園のベンチに座って缶ビールのプルトップを開けると、俺の気持ちとは真逆の景気のいい音がした。

 初受注を祝して佐藤社長と乾杯したビールの味を、俺はよく覚えている。

 あの後、俺は下半期から新卒営業5グループに異動した。

 営業する商品が新卒採用向けのガルナビに変わった以外、やることは中途営業5グループと変わらない。ガルナビのグランドオープンに向けての兵隊だった。

 そして俺は、関西HR営業部の下半期準MVPを取った。

 缶ビールを一口飲むと、苦みだけがあった。

「くそマズい」

 初受注のときに飲んだビールは、もっとウマかったはずなのに。

 こんな会社で、こんな程度の仕事だってことは、ずっとわかっていた。

 うんざりするのが俺だけなら、それでよかったんだ。

 だが、俺はそれを生駒に押しつけた。

 あいつは俺なんかよりも、よっぽどいい営業だ。

 入社半年で心が折れて、情熱のない社畜に成り下がった俺なんかよりも。

 もう一口だけビールを飲む。

「ソーゴ……?」

 名前を呼ばれて視線をやると、そこには俺の部屋に居ついているエルフがいた。

 いつもの制服姿で、手にスーパーのビニール袋を提げている。

 夕食の買い物帰りらしい。

 公園を横断したほうが近道だからな。

 ラクスは俺が持っている缶ビールを認めて、少しだけ眉間に皺を寄せた。

「こんなところで飲んでないで、仕事が終わったなら帰ってくればいいだろう。今日の夜ご飯はハンバーグだぞ」

「俺は子どもか。それに飲んじゃいないよ。俺は酒が飲めないんだ」

 まだたっぷりと中身が残っている缶ビールを、俺はひっくり返した。

 中身が足元にぶちまけられ、アルコールの臭いが鼻を突いた。

「それでも飲みたくなるときだってあるさ」

「ふむ。なにかあったのか?」

「さあな。いつだって、なにかあるのが仕事だろ」

「いよいよ愛想が尽きたという顔をしている」

 俺は笑った。

 それは一体、どんな顔だ。

 だが、それはきっと正しいんだろう。

「会社にも仕事にも、とっくの昔に愛想は尽きてるよ。ただ、今回ばかりはまいった」

 空っぽになったアルミ缶を握りつぶし、ゴミ箱に投げ捨てる。

 俺はなんだかんだ言って、営業として青臭いことを言う生駒が好きだったんだな。

 心のどこかで期待していた。

 俺みたいにならないことを。

 だというのに、肝心なときに背中を押してやることもできない。

「俺は自分自身に愛想が尽き果てたぜ」

「ソーゴ……」

 ラクスはものすごく悲しそうな顔をした。

 なんでこいつは、俺をそんな目で見るんだろう。

 同情でも哀れみでもない、まるでラクス自身も苦しんでいるような目だ。

「君にそんな思いをさせる会社なんて、辞めてしまえ」

 それはいままでにない強い口調だった。

 視線を足元に落とし、俺は言葉を吐き捨てる。

「まあ確かに、潮時かもな」

 転職か。

 ラクスからの誘いを思い出し、俺は苦笑した。

 仮に転職するにしたって、異世界でエルフがやっている会社にいくやつがあるかよ。

 バカバカしい。

 どうせ転職するなら、残業がなくて定時で帰れる仕事がいい。

 安定していれば給料もそこそこで十分、できれば福利厚生が充実していてほしい。

 やりたい仕事?

 成長?

 やりがい?

 そんなくだらないものは犬にでも食わせておけばいい。

「でも、本当にそれでいいのか?」

「なに?」

 俺は顔を上げた。

「いま、辞めろって言ったのはお前だろ」

「そうだな。だが、前に言っただろう。自分の仕事に1パーセントでも楽しいと思えることがあるなら、がんばる価値はあるんだ。本当に君の仕事にそれはないのか」

「ああ、ありゃしない」

 俺は断言した。

 ブリーフケースから分厚い企画書を取り出し、ぱらぱらとめくっていく。

「この企画書はな、今日落ちた。金額ありきの本当にしょうもない提案だったけどな、一緒にやった連中が思いのほかがんばりやがって」

 企画書には夏海がつくってくれたクリエイティブが、生駒が考えた説明会の企画設計が、しっかりと組み込まれている。

「悪くない提案だった」

 ああ、そうさ。きちんとクライアントとカスタマーのマッチングのことを考えた、悪くない提案だったんだ。

 俺は深く息を吐いた。

 そして。

「もういい加減うんざりなんだよ!」

 自分でも驚くほどに声を張り上げていた。

 ベンチから立ち上がり、企画書を足元に投げ捨てる。

 A4用紙がばらばらになって、公園に散らばった。

「この仕事は誰かの人生を変える仕事だと言った人がいたよ。けどな、現実はどうだ? 誰もそんなこと思ってやしねえよ! 営業は目標の数字だけを追っかけて、効果なんて気にもとめない! クライアントが気にするのは社内の評価や予算だけで、カスタマーのことなんて考えない!」

 夜の公園中に響きわたるような声だった。


「結局、誰も、本気で、採用のことなんて考えやしねえ!」


 これが俺の本音か。

 入社半年で現実を知って以来、情熱のない社畜として、ずっと死んだ魚の目で仕事をしてきた。こんな青臭い不平や不満は、とっくの昔に感じなくなったと思っていたのにな。

 肩で息をして、俺はラクスを見た。

 こっちの剣幕に少し驚いたらしく、目を丸くしていた。

「悪い」

 バツが悪くなり、俺はまたベンチに座った。

「君がそう思うのは、本当はそうではない仕事がしたいからだ。違うか、ソーゴ」

「やりたいかどうかじゃない。やっても意味がないんだ」

「本当にそうか? 君はそうじゃないことを知っているはずだ」

 ラクスはスーパーの袋を足元に置き、古びた名刺を取り出して俺に突きつけてきた。


 株式会社シーガルキャリア

 関西HR営業部中途営業5グループ

 一ノ瀬蒼梧


 それは俺の名刺だった。

 入社一年目の、最初の半年間だけ持っていた名刺だった。

 俺はゆっくりと、その名刺を受け取った。

「仕事はやりたいことをやるのが一番大変だけど一番楽しいと。大変さのなかに1パーセントでも楽しいがあるのなら、がんばる意味はあるんだと」

 ラクスは俺の頬にそっと触れると、真っ青な瞳で見つめてきた。


「それを私に教えてくれたのは、君だろう」


 視線が外せなくなって、俺はようやく思い出した。

 五年前。

 大阪特有のうだるような残暑が残る九月。

 梅田のダンジョンのような地下街で。

 俺は確かに、同じ真っ青な瞳の女の子に出会った。

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